入部

第8話入部①

『悪いな、古義』


 砂が滲み掠れた白線。塗装の剥がれたモスグリーンのバックネット。

 呼び止めた一人の男が、紺色の帽子の奥で眉を寄せる。


『お前は動きも素早いし、打撃も悪くない。……けれど、今ひとつ足りない』


 何て都合のいいコトバ。

 "足りないモノ"と称されたソレをはっきりと口にしなかったのは、この人なりの、優しさだったのかもしれない。

 古義はただ、黙って汚れたスパイクへと視線を落とした。入学時から二代目になる"相棒"は、酷く摩耗している。

 この後に続く宣告を、古義はもう、知っていた。

 ひとつ大きく駆け抜けた風が、流れ落ちる汗を吸い込んでいく。


『お前を、レギュラーには出来ない』


「っ!!!」


 開いた視界には馴染みのある白。霞がかった思考が自室の天井だと理解するまで、数秒を要した。

 荒く乱れた呼吸を無意識に繰り返しながら、古義は首だけを少し横へ。カーテンの隙間から射し込む光に、悪い夢をみたのだと悟る。

 再び首を動かして確認した時計では目覚ましまであと七分もある。

 勿体ない、と薄く息を吐き出して、片腕で目元を覆う。


「……さいあく」


 この夢をみるのは久しぶりだ。きっと、昨日の出来事が影響しているのだろう。

 脳裏に焼き付いた白球が、閉ざした黒の中で再生される。

 手前で沈むように変わった軌道、大きく宙を切ったバット。沸騰するように熱を生む、自身の胸中。

 微かに生まれ出た"迷い"は、就寝の直前まで古義の頭を悩ましていた。

 先程の夢は、『もう間違えるな』という警告だったのかもしれない。


 あの時指し示された"足りないモノ"。古義自身も薄々気づいてはいた。ただ、耐え難い喪失感に、目を背けていただけで。

 それまで"努力"で繋いできた古義の、"全て"を崩壊させた変えようのない事実。


(わかってる。自分が一番。オレには、)


「……"才能"なんてものはない」


 プロを夢見ていたのかと問われれば、答えはNoだったと思う。身体の小さな両親と保守的な古義の性格では、たいそれた未来を想像するには難しかったのだ。

 けれども中学・高校とチームメイト達と切磋琢磨し合い叶えばいつか甲子園に、という野球少年が抱きがちな細やかな願いくらいは確かにあった。

 それがまさか、中学の段階でふるい落とされる事になるとは、夢にも思わなかったのだ。


「……準備するか」


 まだ鳴らないままの目覚ましを止めて、のそのそと布団から這い出る。

 下では既に、母さんが朝食と弁当の準備をしているだろう。

 床に放られた学生鞄を跨ごうとして、目に入った一枚の用紙。「仮入部」の文字に、数秒立ち止まる。


「……」


 古義は脳が言葉を認識する前に、まっさらな思考のまま、部屋を後にした。


◇◇◇◇◇


 朝からどうも古義の様子がおかしい。

 弁当箱に収められた卵焼きを口に運びながら、大道寺は目の前で唐揚げを咀嚼する古義をチラリと伺う。

 朝の挨拶を交わす声にも覇気がなかったし、いつもなら昼食のチャイムが鳴るととたんに機敏になるというのに、今日は微動だにせずボンヤリと窓の外を眺めていた。

 今もその視線はどこか一点を意味なく見つめ続けている。


(……俺が、余計な事を言ったから)


 中学時代、親しい間柄ではなかった大道寺は、古義が野球を辞めた理由を知らない。

 いつか聞けたら、とは思っているが、まだそこまで踏み込める程"許されている"訳ではない。

 そうと知っていながら疑問を口にしてしまったのは、感情が勝ってしまった自身のミスだ。

 プリントを受け取るまでは"いつも通り"に見えていたが、あの後何か、思う所があったのかもしれない。


(謝るべきだな)


 心ここにあらずのまま今度はコロッケを口に運ぶ古義に、大道寺は眼鏡を押し上げ覚悟を決めて箸を置く。

 その名を呼ぼうと、小さく息を吸い込んだ瞬間。


「あ、いたいた"かずちゃん"!」

「!?」


 喧騒を掻き分け教室に響いた聞いたことのない呼び名に、淡いゴールドイエローの髪がビクリと逆立つ。

 まさか、と大道寺が捉えた古義は開けられた扉からこちらに手を振る人物を捉え、その横顔を驚愕に強張らせた。


「やぁーっと見つけたよー! お昼終わっちゃうかと思った!」

「っ、どうして」


 戸惑いを浮かべながらも古義は立ち上がり、教室中の好奇の目に気付くこと無く駆け寄る。

 フワフワと揺れる鳥の子色の髪に、古義よりも小柄な身長。確か、小鳥遊と言ったはず。

 まさかまた"勧誘"に来たんだろうか。過った不安に、古義は小さく拳を握る。

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