劉裕論46 明末 王夫之12下

劉裕りゅうゆうしんより簒奪をなしたとき、徐広じょこうが涙にくれた。この涙は、徐広の私的な感情、私的な悲しみによるものであっただろうか? お国そのものが変わるのにも関わらず、旧国で働いておりながらなお、国の滅ぶさまを見届けるという、恥。いやしくも人の心を持つ者であれば、かれの涙に心動かさぬことはあるまい。


彼の隣にあったは、謝晦しゃかい。代々晋に仕えてきた家門のものである。そんな謝晦が、こっそりと徐広に「徐公、危うくございますぞ」と語れば、徐広は答えている。「あなた様は宋の佐命功臣でいらっしゃる。しかしこの身は滅ぶ滅ぶ晋に仕えたもの。悲しみと喜びとが同じはずもございますまい」と。つまり徐広は、謝晦を人倫の範疇より外れた者として拒絶した。一方では謝晦も、徐広を物の道理を理解しないものとして放置した。そこには恥じ入ろうとする思いも、恥ゆえに拒絶排斥しようとする思いも見受けられぬ。


人がひとりでに人生を歩むよう、猛禽たちはひとりでに羽ばたく。蘭はおのずとかぐわしき香りを漂わせ、蕕はおのずと臭気を漂わせる。これらが同じところにあっても驚くこともなく、同時に存在しても隠そうともせぬのだ。


あぁ、天下のあらゆるところがこのようであれば、もはや天子がすくい上げるべき民の苦難なぞ、あってなきがごとしであろう! そもそもにして徐広がそこで堂々と涙したことは、謝晦以外のものとてその涙を咎めなかった、ということではないか!


こういった獣にも劣るふるまいはその後劉彧りゅういく蕭道成しょうどうせい蕭鸞しょうらん蕭衍しょうえんにも見られ、あたかも習慣であるかのごとく続いている。君臣の義は途絶え、廉恥の道は滅んだ。忠孝などといった言葉も、論ずるまでもないこととして投げ出された。やるべきことのみをやり、それが正しいかどうかなどとは置き去りとされるのだ。


君臣の義や廉恥の道がすでに滅んだことに気づいておらぬ者は、それでも変わらず寛恕温厚であろう。しかし彼らが、もし天道が既に滅び切ったことに気付いたならば?


曹操そうそう孔融こうゆうを、司馬昭しばしょう嵇康けいこうを殺したとき、そこにはまだ恥じ入る気持ちも存在していた。しかし晉宋交代のタイミングにあっては、もはや恥も底をついていたようである。


「八表同じく昏く、平路ははばまる」


陶淵明とうえんめいは、その詩にて歌っている。この悲しみは、ただ晋の存亡にのみ向けた言葉であっただろうか?




劉裕篡晉,而徐廣流涕,此涕也,豈徐氏之私怨而肅然傷心者乎?通國之變,盈廷之恥,茍有人之心者,宜於此焉變矣。謝晦者,晉之世臣也,從容謂廣曰:「徐公,得無小過。」廣曰:「君為宋佐命,身是晉遺臣,悲歡固不可同。」則已置晦於人倫之外而絕之矣。晦亦若置廣於物理之外而任之,無媿也,無忌也。人自行,禽自飛,蘭自芳,蕕自臭,同域而不驚,同時而不掩。嗚呼!天下若此,而君子所以救世陷溺之道窮矣。微獨晦也,宋君臣皆夷然聽廣之異己而無忌之者。嗣是而劉彧、蕭道成、蕭鸞、蕭衍,相襲以怙為故常。君臣義絕,廉恥道喪,置忠孝於不論不議之科,為其所為,而是非相忘於無跡。不知者以為其寬厚,而孰知其天良滅絕之已極哉!曹操之殺孔北海,司馬昭之殺嵇中散,恥心存焉。至於晉、宋之際,而蕩盡已無余,「八表同昏,平路伊阻,」陶元亮之悲,豈徒為晉室之存亡哉?


劉裕の晉を篡うや、徐廣は流涕す。此の涕なるや、豈に徐氏の私怨にして肅然と傷心せる者か? 通國の變、盈廷の恥、茍しくも人の心有す者たらば、宜しく此に於いて焉に變ぜん。謝晦は晉の世臣なるも、從容として廣に謂いて曰く:「徐公、小過無きを得ららんか」と。廣は曰く:「君は宋の佐命為れど、身は是れ晉が遺臣なれば、悲歡は固より同じくすべからず」と。則ち已に晦を人倫が外に置きて之を絕てり。。晦も亦た廣を物理の外に置きて之を任ずが若くして媿じたる無きなり、忌む無きなり。人の自や行ぜるに、禽は自ら飛び、蘭は自ら芳じ、蕕は自ら臭ず。域を同じくして驚かず、時を同じくして掩わざるなり。嗚呼! 天下の此くの若き、君子の世の陷溺を救う所以の道は窮したらん。獨り晦のみに微ざるなり、宋の君臣は皆な夷然として廣の己に異なるを聽きて而も之を忌む無し。是に嗣ぎたるは劉彧、蕭道成、蕭鸞、蕭衍、相い襲いて怙みて以て故常と為す。君臣の義は絕え、廉恥の道は喪じ、忠孝は不論不議の科に置き、其の為す所を為し、而して是非は無跡に相い忘らる。知らざる者は以て其の寬厚を為し、而して孰んぞ知らんか、其の天良の滅絕の已に極まれるを! 曹操の孔北海を殺し、司馬昭の嵇中散を殺すも、恥ずる心は存したり。晉、宋の際に至りて、而して蕩盡し已に余無し。「八表同じく昏く、平路は伊れ阻たる」なる陶元亮の悲、豈に徒だ晉室の存亡が為なるや?


(恭帝2-2)



いや徐広からしてただの慣習でしょ(素)


滅びゆく旧国を堂々と悲しむ旧国臣下、それを咎めず受け入れる新天子。こんなんザ☆新天子の度量アピールじゃないですか。その由来は由緒正しい伯夷はくい叔斉しゅくせいですしょう?


まぁ、そこを心底理解してない王夫之ではなかったと思うんですよ。あるいはただのセレモニーだってことに気づかないふりをしてた、とかね。だからこそそういったふるまいは過剰に美化して評価せねばならない。


徐広の涙に心動かさねーって、そりゃみんな「あー、徐広さん陳羣ちんぐん役拾ったかー(※陳羣も曹丕そうひの即位のときに不服そうな顔を見せている、ただしここでは曹丕がなじったりしてるので奴はだいぶ小者)」くらいにしか思ってなかったからでしょうけど、王夫之としては、このセレモニーをなんとしてでも陣宋交代期に義が死んでる根拠の一つに仕立て上げたかったんでしょう。うん、その思いの強さはわかるけど、正直晋宋交代期にまかり通ってた詭弁と、詭弁度ではさほど変わらなく見えるかな?


しかしまー、単に論の持ってきかただけ見ればマジ美しいですわ。こういう美しい展開の論、自分も書けるようになりたいです。



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