劉裕論45 明末 王夫之12上

未熟や愚かしさなどは賢者と相対する時に明らかとなるものである。ここで賢人の振る舞いと自らとを比較し、賢人に倣えるよう行いを改められるのであれば、最良である。改められないにしても、自らの愚かしい行動に気づき、それを表に出さぬようにできれば、マシであろう。愚かなる少人は、賢人のふるまいを疎ましく思い、却って彼らを害そうとするものである。


疎ましく思うのであれば、まだ相手の賢明さに気付けはしている、とは言えよう。ただそこで恥じ入る思いをねじ伏せ、見なかったふりをし、その上で害意を発し、狂行をなすのである。賢者と真正面から向かい合い、己の未熟や愚かしさから逃れようもない状態であると言うのに、それでいてなお平然とし、恥じ入ることもない。このような者は、賢人が世の不条理に嘆き悲しんでいたとしても、聞かなかったふり、見なかったふりを決め込むのだ。


前に進むにしても改めようともせず、後ろを振り返っても自らの愚行に恥ずかしさも覚えない。それでいて己に欠点なぞないかのごとくふるまう。その姿形こそ獣ではないにしても、果たして獣となにが違うというのか。





人之不肖,有賢者以相形,見賢而反求之己,改而從之,上也;雖弗能改,猶知媿焉而匿其不善,次也;以其相形,忮忌而思害之,小人之惡甚矣。然其忮忌之者,猶知彼之為賢,而慚己之不肖,則抑其羞惡之心銷沈未盡,橫發而狂者也。若夫與賢者伍,己之不肖無所逃責,而坦然忘愧,視賢者之痛哭流涕以哀世者,若弗聞焉,若弗見焉,進不知改,退不知忌,而後羞惡之心蕩然無余,果禽獸矣,非但違之不遠矣。


人の不肖なるは賢者有りて以て相い形し、賢を見るに而して反りて之を己に求め、改め之に從うは上なり。改む能う弗りと雖ど、猶お媿を知りて其の不善なるを匿すは次なり。其の相い形するを以て忮忌し之を害さんと思うは、小人の惡しきの甚しきなり。然れど其の之を忮忌せる者、猶お彼の賢為るを知り、而して己の不肖を慚づは、則ち抑そも其の羞惡の心の銷沈し未だ盡きず、橫發せるは狂者なり。若し夫れ賢者と伍し、己の不肖なることに責めを逃るる所無くして、而して坦然とし愧づるを忘るは、賢者の痛哭・流涕を以て世を哀しむ者を視るも聞く弗きが若く、見る弗きが若くす。進みて改むを知らず、退きて忌むを知らず、而して後に羞惡の心、蕩然として余無し。果して禽獸なり。但だ之に違うこと遠からざるのみに非ざらん。


(恭帝2)




この辺の名目論は確かに、仰るとおり、と思います。まぁけどあなたにとって禽獣ってふつうに北人たちも加えられてますからね……。


さて、ではここから、誰のことを禽獣と吐き捨てるのでしょうか。

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