劉裕論44 明末 王夫之11下

劉裕りゅうゆうが天下に示した功績は、曹操そうそうよりも壮烈なものである。しかし人材を求め、その天下の計に大いに参与させた、という点では、曹操に遥かに及ばない。


曹操は兗州えんしゅうに拠点を置き、様々な職務に時間を費やしながらも、飽くことなく人材を求め続けた。曹丕そうひ曹叡そうえいの代に至ってなおも多く剛直明敏の才に恵まれた。暗君らの不足を補えたのは、この故である。


劉裕は寒微の出身であり、戦で功績を上げ、立身した。そのメンタリティは豪傑、侠客のそれであり、腐臭漂う士大夫層らとの交流を好まなかった。ここでは胡藩こはんの言葉を引くのが良いだろう。「語り、歌いながら袖を揺する者たちが帰服する、という意味では、劉毅りゅうきに一日の長がございますな」と。当時朝廷にあったもので、劉裕に心服しているものはおらず、故にこそ劉裕は小賢しい機転が回る劉穆之りゅうぼくしにのみ頼らねばならなかった。しかも、その劉穆之が死ねば、あとに残されたのは傅亮ふりょう徐羨之じょせんし謝晦しゃかい。みなケツの定まらぬ迂闊者で、天下の経営に確かな見通しなぞ持ち合わせてはおらぬ。


あの頃の劉裕は、いわば遠方にて孤立しているようなものだったのだ。故に遠方から天下の大権を求めたところで得られようはずもなく、むしろいきなりそっぽを向かれてしまう恐れすらあった。


えきの「未濟みさい」には小者が川を渡ろうとしたところで、いたずらに尻を濡らすのみ、利益なぞ得られるまい、と記されている。まさしく劉裕のことである。だからこそ、ついには辺境にて草葉の陰から北方を伺うのみに終わってしまったのだ。かの時代には才人がおらず、よしんばいたところで、劉裕は才人を導く方法を知らなかった。


彼が死んだ後、間もなく皇帝弑逆の大事件が発生する。そして劉義隆りゅうぎりゅうが立てられたわけであるが、このとき宮廷内に動揺する政権に安定をもたらすだけの宰相がいただろうか?


曹操は天下の大権を手に入れたにもかかわらず、その簒奪は息子の代に行わせている。これは人を得たからである。その原則は、ただ奸雄にのみ適用されるものであるだろうか? 徳行でもって世を治める聖王ですら、その例外となることは叶うまい。




裕之為功於天下,烈於曹操,而其植人才以贊成其大計,不如操遠矣。操方舉事據兗州,他務未遑,而亟於用人;逮其後而丕與叡猶多得剛直明敏之才,以匡其闕失。裕起自寒微,以敢戰立功名,而雄俠自喜,與士大夫之臭味不親,故胡藩言:一談一詠,搢紳之士輻湊歸之、不如劉毅。當時在廷之士,無有為裕心腹者,孤恃一機巧汰縱之劉穆之,而又死矣;傅亮、徐羨之、謝晦,皆輕躁而無定情者也。孤危遠處於外,求以制朝廷而遙授以天下也,既不可得,且有反面相距之憂,此裕所以汔濟濡尾而僅以偏安艸竊終也。當代無才,而裕又無馭才之道也。身殂而弒奪興,況望其能相佐以成底定之功哉?曹操之所以得誌於天下,而待其子始篡者,得人故也。豈徒奸雄為然乎?聖人以仁義取天下,亦視其人而已矣。


裕の功を天下に為すは曹操より烈しかるも、而して其の人才を植え以て其の大計にせるは操に如かざること遠かりき。操の方に事を舉げ兗州に據し、他務に未だ遑あらざるも、而して用人を亟む。其の後に逮びて丕と叡とに猶お多く剛直明敏の才を得、以て其の闕の失を匡す。裕は寒微より起り、敢戰を以て功名を立つらば、雄俠なるに自ら喜び、士大夫臭味と親しまず。故に胡藩は言えらく:「一談一詠、搢紳の士の輻湊し之に歸すは劉毅に如かず」と。當時の在廷の士に裕に心腹を為す者有れる無からば、孤り一なる機巧汰縱の劉穆之を恃むも、而して又た死せり。傅亮、徐羨之、謝晦は皆な輕躁にして而して定情無かる者なり。孤り遠く外に處せるは危うく、以て朝廷を制し遙かより以て天下を授からんと求むや、既に得べからず、且つ面を反け相い距めるの憂有らば、此れ裕の濟らんと汔うて尾を濡らし、而して僅かに偏にての安を以て艸竊せるに終る所以なり。當代に才無く、而して裕に又た馭才の道無かりきなり。身の殂するに弒奪は興り、況んや其の能く相い佐し以て底定の功を成せるを望まんか? 曹操の誌を天下に得たるも其の子を待ちて始めて篡じたる所以は、人を得たるが故なり。豈に徒だ奸雄のみを然りと為さんか? 聖人の仁義を以て天下を取るも、亦た其の人を視たるのみ。


(安帝21-2)




「王が天下を経営するには配下が重要」は詩経も語るところでしたね。しかし「このままやりゃ天下取れただろうがよ!」の舌の根も乾かないうちから「劉裕政権にゃまともな運営スタッフもいなかった! だから劉穆之なんてボケカスに頼らにゃあかんかったんや!」とか言い出してるのを見ると、この人大丈夫……? と思わずにおれません。俺のおっぱいなら貸すけど?


なんつーか、後出しなら何でも言えますよねえ。王夫之は自分で「劉裕以外にまともに劉裕政権を回せるものがいない」と言っています。なのに劉裕政権の規模をさらに拡大? なんのご冗談なんですかね?


そもそもにして後秦討伐の東晋軍の強さの源泉は「新領土を獲得することによる封爵地、資源等の獲得」によるところが多かったはずであり。一度統治がコケた以上、再度の挙兵にどれだけモチベーションが上がるか、って話ですよ。このへんも「夷狄誅滅は何にも優先される大義!」的な王夫之さんには見えづらかったのかしら。


この人の論考、その部分を差し引けば、かなり冷静な感じがあるのに、その部分が全体を歪ませすぎてるんだよなぁ……。

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