劉裕論34 明末 王夫之 5上
義には三つの段階が見出せよう。
1 個人のもの
2 時代に通ずるもの
3 千古より変わらぬもの
である。もっとも重いのが千古よりのものであり、次いで時代の義、個人の義となる。個人の義を優先して天下の義を、ましてや千古の義を廃しでもしようものならば、一時的に押し通せこそしようが、すぐにバランスは崩れ、義そのものが揺らぎかねない。
かの君主に仕え、かの君主のために死す覚悟を抱き、禄を食み、やって来る苦難を避けず、立ち向かう。これが正しき義であろう。しかし、その君主が天下の義を奉じようとせぬものであれば、どうか。それはただの私情とはならぬか。
ここから推し量るに、君主に仕えるにあたり、その者が天下の主たるべき者でないにもかかわらず仕え、良き君主の統治を妨害する、と言うのであれば、これは義が乱れたこととなろう。乱主を離れ、良主のもとに付いたことを不義とそしれば、義は更に乱れることとなろう。
何故であろうか?
君主に臣従する。確かにこれは正しき義である。しかし君主が天下の主たり得らねば、そのときの人心とてかれに従うまい。義はその君主より離れるのだ。そこにあえて仕えると言うのであれば、それはひとりの義を押し通すにすぎず、そんなもので天下の公を乱してはならぬ。君主の命令に臣下が従うことが義となる。これは君主が天下によって奉ずるに値する場合にのみ限定されるのだ。
有一人之正義,有一時之大義,有古今之通義;輕重之衡,公私之辨,三者不可不察。以一人之義,視一時之大義,而一人之義私矣;以一時之義,視古今之通義,而一時之義私矣;公者重,私者輕矣,權衡之所自定也。三者有時而合,合則互千古、通天下、而協於一人之正,則以一人之義裁之,而古今天下不能越。有時而不能交全也,則不可以一時廢千古,不可以一人廢天下。執其一義以求伸,其義雖伸,而非萬世不易之公理,是非愈嚴,而義愈病。事是君而為是君死,食焉不避其難,義之正也。然有為其主者,非天下所共奉以宜為主者也,則一人之私也。子路死於衛輒,而不得為義,衛輒者,一時之亂人也。推此,則事偏方割據之主不足以為天下君者,守之以死,而抗大公至正之主,許以為義而義亂;去之以就有道,而譏其不義,而義愈亂。何也?君臣者,義之正者也,然而君非天下之君,一時之人心不屬焉,則義徙矣;此一人之義,不可廢天下之公也。為天下所共奉之君,君令而臣共,義也;
一人の正義有り、一時の大義有り、古今の通義有り。輕重の衡は公私の辨にして、三者に察せざるべからず。一人の義を以て一時の大義に視ぶれば、一人の義は私たらん。一時の義を以て古今の通義と視ぶれば、一時の義は私たらん。公は重く、私は輕し。權衡の自ら定む所なり。三者は時有りて合有す。合さば則ち千古に互りて天下に通じ、一人の正に協う。則ち一人の義を以て之を裁くは、古今の天下に越す能わず。時有りて交ごも全き能わざるや、則ち一時を以て千古を廢すべからず、一人を以て天下を廢すべからず。其の一義を執りて以て伸を求まば、其の義は伸びたりと雖ど、萬世不易の公理に非ずば、是非は愈いよ嚴にして、義は愈いよ病む。是の君に事うるに是の君が為に死し、焉に食みて其の難を避けざるは、義の正なり。然れど其の主者の天下の共に奉ぜるを以て宜しく主者と為すべき所の者に非ざるなり。則ち一人の私なり。子路は衛の輒に死し、義を為すを得ず。衛の輒は一時の亂人なり。此を推すに、則ち偏方割據の主に事うるに以て天下の君為るに足らずば、之を守れるを以て死し、大公至正の主に抗すを許し、以て義と為さば義は亂れん。之を去りて以て有道に就けるに其の不義を譏らば、義は愈いよ亂る。何ぞや? 君臣たるは義の正なる者あり。然れど君の天下の君に非ずば、一時の人心の焉に屬さずば、則ち義は徙らん。此れ一人の義にして、天下の公を廢すべからざるなり。天下の共に之を奉ずべき所の君為りて君の令し臣の共ぜるは、義なればなり。
(安帝14-1)
やっぱりいっぺんにやるのは負荷が大きすぎました……前後半に分けます。まずは前半で「義」について解説するわけですね。そうすると後半では、この「義」についての具体的な解説がなされる、と。
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