劉裕論31 明末 王夫之 2

事業の成功や失敗の原因は明らかなものが多い。しかしそれを適切に見抜くのは、閑世の英傑以外にはなし得ない。気炎のぶつかり合う中で、彼らは人の心を取り込み、自らの味方につけていく。


そこには、ふたつの要素を見出すことが出来るだろう。

ひとの世がどう移ろおうとも変わらぬもの、すなわち理。そして一つ一つの動静を後押しするもの、機である。


小童に過ぎぬ桓玄かんげんが天をも侵さんとしたのだ、その敗北は、理として疑うべくもない。一方で、人主たらざるものが人主となり、宰相たらざるものが宰相ともなれば、その勢力が伸長するのに、どこまで理を見出せるだろうか? また力づくでの権勢強奪は力による復讐を招く。いたずらに武力を頼みとするべきではない。では、権勢を手中に収めるための「機」とは、どのようにして見出せばよいのだろうか?


桓玄が歷陽れきようを攻撃することで、司馬休之しばきゅうしは遁走、司馬尚之しばしょうしは殺された。ここに至り、桓玄にとっての脅威は劉牢之りゅうろうし率いる北府ほくふ軍のみとなった。劉牢之も「桓玄を殺すなぞ、おれの手をひっくり返すが如きものだ」と豪語している。またその胸には野心を燃やし、桓玄を殺さずに保ったまま、これまでの戦功を盾に司馬元顕しばげんけんを圧迫しようと考えたのかも知れない。ともあれなにがしかの野心を元に、桓玄になびいた。なんともおぞましき詐術ではあるが、またなんとも愚かであろうか!


その中にあり、劉裕りゅうゆうは状況を的確に見抜いていた。そのため何無忌かむき劉敬宣りゅうけいせんとともに劉牢之に言葉の限りを尽くして諌言、桓玄を打倒すべし、と説いた。いわばこの時は相手を攻めて打破すべき「機」であったのだ。


桓玄は建康けんこう入りすると、百官を統べ、内外の軍権を掌握。各地に腹心を配し、比類なき権勢を得た。一方では司馬道子しばどうしのなしたでたらめな政治を改めようとも図り、人々は新政府によっていくらかの平穏が訪れてほしい、と望んだ。そのような中にあって劉牢之は決起し、その権力を奪わんと目論んだのだ。結果無惨に失敗、桓玄によって兵権すら奪われ、人々の心は劉牢之より離れた。その上でなおも決起しようと長江ちょうこうを渡り、広陵こうりょう高雅之こうがしのもとに赴こうとしている。このような振る舞いでは、敗亡は当然のこと、と言えよう。父の動きに同調した劉敬宣もまた、戦略眼に暗い、と言わざるを得ない。


ここでもまた、劉裕の機を見る目がうかがえる。劉牢之には決起が不可能であることを告げた上で袂を分かち、京口けいこうに帰還。何無忌とともに突然の決起を計画する。この時にはすぐさま立ち上がらず、その作戦の成立が遅れることを恐れずにいた。すなわち、待つのが「機」であった。


このように、あとから振り返れば、「攻めるべき機」「立ち止まるべき機」が確かにあったことは明らかであり、疑う余地もない。


しかし深謀に欠けるものたちは、一つの理屈のみを見て他の理屈を見失う。迂闊なものたちは、ひとつの機にのみ飛びつき、他の機を見失い、結果すべての機を失う。ここに例外はない。人々のせめぎあう中、信義が乱れれば、やがて乱を招く「機」が迫るのである。


劉裕は何無忌に言っている。「もし桓玄が忠臣であろうとするならば、ともに仕えれば良い」と。これは虚言でもあるまい。乱世が治まる「機」であれば、あえて逆らう意味もない。一方でこうも告げている。「もしそうでないならば、共に討てばよい」と。つまり、劉裕はじっと桓玄を観察し続けていたのである。


いわゆる閑世の英傑とは、このように機を見ることに長けていた。彼らに測りしれぬほどの神智がないと、どうして言えるだろうか。




成敗之數,亦曉然易見矣,而茍非閑世之英傑,無能見者,氣燄之相取相軋有以蕩人之心神,使之回惑也。天下不可易者,理也;因乎時而為一動一靜之勢者,幾也。桓玄豎子而幹天步,討之必克,理無可疑矣。然君非君,相非相,則理抑不能為之伸;以力相敵,而力尤不可恃;惡容不察其幾哉?玄犯歷陽,司馬休之走矣,尚之潰矣,玄所畏者,劉牢之擁北府之兵爾。牢之固曰:「吾取玄如反手。」牢之即有不軌之心,何必不誅玄而挾功以軋元顯,忽懷異誌以附玄,甚矣牢之之詐而愚也。唯劉裕見之也審,故與何無忌、劉敬宣極諫牢之,以決於討玄。斯時也,剛決而無容待也,幾也。玄已入建業,總百揆,督中外,布置腹心於荊、江、徐、兗、丹陽以為鞏固,而玄抑矯飾以改道子昏亂之政,人情冀得少安。牢之乃於斯時欲起而奪之,不克而為玄所削,眾心瓦解,尚思渡江以就高雅之於廣陵,其敗必也。敬宣且昏焉,又唯劉裕見之也審,直告牢之以不能,而自還京口,結何無忌以思徐圖。斯時也,持重而無患其晚也,幾也。夫幾亦易審矣,事後而反觀之,粲然無可疑者。而迂疏之士,執一理以忘眾理,則失之;狂狡之徒,見其幾而別挾一機,則尤失之;無他,氣燄之相取相軋,信亂而不信有已亂之幾也。裕告無忌曰:「玄若守臣節,則與卿事之。」非偽說也,亂有可已之幾,不可逆也。又曰:「不然,當與卿圖之。」則玄已在裕目中矣。所謂閑世之英傑能見幾者,如此而已矣,豈有不可測之神智乎?


成敗の數、亦た曉然として見るに易かりき。而して茍しくも閑世の英傑に非ずば、能く見る者無し。氣燄の相い取り相い軋るに、以て人の心神を蕩じ、之をして回惑せるむる有ればなり。天下の易うべからざるは理なり。時に因りて一動一靜の勢を為すは幾なり。桓玄は豎子なるも天步を幹す、之を討つや必ずや克せん。理に疑うべき無し。然れど君の君に非ず、相の相に非ざれば、則ち理は抑そも之が為に伸ぶる能わず。力を以て相敵せば、力は尤も恃むべからず。惡くんぞ其の幾を察せざるを容れんか? 玄の歷陽を犯せるに、司馬休之は走じ、尚之は潰したる。玄の畏るる所は劉牢之の北府の兵を擁せるのみ。牢之は固もより曰く:「吾れ玄を取ること手を反すが如し」と。牢之は即ち不軌の心を有し、何ぞ玄を誅さずして功を挾みて以て元顯に軋らざるを必せん。忽ち異誌を懷きて以て玄に附し、甚しきかな、牢之の詐にして愚なるや。唯だ劉裕は之を見るや審らかなり,故に何無忌、劉敬宣と極めて牢之を諫じ、以て玄と討つに決すべくす。斯の時や、剛は決して待を容るべく無きなり。幾なり。玄の已に建業に入り、百揆を總べ、中外を督し、腹心を荊、江、徐、兗、丹陽に布置せるを以て鞏固を為し、而も玄は抑そも矯飾し、以て道子の昏亂の政を改め、人情は少安を得るべく冀う。牢之は乃ち斯の時に之を奪うべく起たんと欲せるも、克たずして玄に削らる所と為り、眾心は瓦解し、尚お江を渡り以て高雅之に廣陵にて就かんと思えるは、其の敗なるや必なり。敬宣すら且つ昏かりき。又た唯だ劉裕の之を見るや審らかにして、直だ牢之に以て不能を告げ、而も自ら京口に還じ何無忌を結び、以て徐ろに圖らんことを思う。斯の時なり、持重して而も其の晚きを患う無きなり、幾なり。夫れ幾も亦た審らかなるに易し、事後にして而して反って之を觀れば、粲然として疑うべく無し。而して迂疏の士は一理を執りて以て眾理を忘れ、則ち之を失う。狂狡の徒は、其の幾を見て而して別に一機を挾まば、則ち尤も之を失う。他無し、氣燄の相い取り相い軋り、信亂れて而も已に亂の幾有るを信ぜざるなり。裕は無忌に告げて曰く:「玄の若し臣節を守らば、則ち卿と與に之に事えん」と。偽說に非ざるなり。亂已むべきの幾有らば、逆らうべからざるなり。又た曰く:「然らずんば、當に卿と與に之を圖らん」と。則ち玄は已に裕の目中に在りたるなり。所謂閑世の英傑、能く幾を見る者、此の如きなるのみ。豈に測るべからざるの神智有らんか?




何去非かきょひの言う「機」と、かぶるところもあるし、かぶらないところもあるし、と言う感じですね。そしてここでは、劉裕の戦略眼の冴え渡りっぷりが激賞されています。前段を踏まえれば劉裕自身はまさに英傑たりうるけど、そのまわりがいけなかった、みたいなところに落ち着いてくるんでしょうかねえ。


まぁ、要経過確認ですわね。

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