劉裕論29 南宋 葉適 8

鄭鮮之ていせんし伝では、このように記されている。劉裕りゅうゆうは若い頃から戦場暮らし、学問を修める暇もなく、宰相となってから、時流に乗り遅れるまいと努めた、と。かん劉邦りゅうほうは軍旅においても学んでいたとされる。とは言え詩作や書道にとらわれていただろうか。しかし後進や多くの士大夫のエピソードを見るに、彼らがどのくらい学びを求めていただろうか。


王景文おうけいぶん伝では、伯父の王智おうちについて書かれている。若い頃から質朴で高貴であったため、高名を博していた。そのため劉裕より重んじられていた。劉裕が劉毅りゅうき討伐について劉穆之りゅうぼくしと検討を重ねていたとき、そばに王智もいたと言う。後日劉穆之は劉裕に尋ねている。討伐ごとのような重大案件を王智も聞いていたが、どう「わからせる」べきでしょうか? と。すると劉裕は笑って答えている。あのひとは高簡なお方。どうして俺たちの議論を「聞いていたことにする」だろうか? と。こういったやり取りから見ても、劉穆之が普段からおかしなことを劉裕に教えていたのではないか、と思えてならぬのだ。


後の世では、文帝の息子、劉宏りゅうこうが語っている。「建国のための道筋は一つとして同じものがない。ただし、広く諌めの言葉を納め、民への寧撫をなし、讒言を除き、災いを刈り取り、先王の道筋に倣えば、後世の人主の世もまた治まる。しんいんが滅んだのは言論封殺、批判抹殺の故ではなかったか。しゅうかんが栄えたのは、批判を取り上げ、箴言を顕彰したからではなかったか」と。


南朝文学は無駄に飾り立てられており、内実がまるでないのが常であるが、このわずか数十文字に至っては、シンプルでありながらも、実に見事に本質を言い当てているではないか。これさえ守れておれば、文帝が害されることもなかったであろうに。




鄭鮮之傳言:劉裕少親戎旅,不經講學,及為宰相,頗慕風流。漢高祖乃謂以馬上得之,安事詩書。然則絶學之後,多士之餘,氣習聞見,自不同也。按王景文傳:伯父智,少簡貴,有高名,高祖甚重之。與劉穆之謀討劉毅,而智在焉。他日,穆之白高祖曰:代國重事也,公云何乃使王智知?高祖笑曰:此人高簡,豈聞此輩議論。故余謂穆之教誤劉裕也。建國之道咸殊,興王之道不一。至於開諫致寧,防口取禍,固前王同軌,後主共則。秦、殷之敗,語戮刺亡;周、漢之盛,謗升箴顯。建平王弘獻『語議』也。江左之文,雕靡無實,如此數十字,簡矣,而該切義理,固無害於文也。


鄭鮮之傳にて言うらく:「劉裕は少きに親しく戎旅し、講學を經ず、宰相と為るに及び、頗る風流を慕う。漢高祖は乃ち馬上を以て之を得たりと謂うも、安んぞ詩書に事せんか。然れど則ち學の絶えたるの後,多士の餘氣に聞見を習うも、自ら同じからざるなり。王景文傳を按ずるに:「伯父の智は少きに簡貴にして高名有らば、高祖は甚だ之を重んず。劉穆之と劉毅を討たんと謀るに、智在りたる。他日、穆之は高祖に白して曰く:「國の重事を代せるや、公は云何んぞ乃ち王智をして知たらしめんか?」と。高祖は笑いて曰く:「此の人高簡なれば、豈に此の輩の議論を聞かんか」と。故に余の謂うらく、穆之は誤を劉裕に教えたるなり。建國の道は咸な殊なり、興王の道は一ならず。至於開諫を開きて寧を致し、口を塞ぎて禍を取り、前王の同軌を固むらば、後の主は共に則る。秦、殷の敗は語を戮し刺を亡ぼせばなり。周、漢の盛んなるは,謗を升せ箴を顯ぜばなり。建平王の弘が獻ぜる『語議』なり。江左の文の雕なるに實無き靡れど、此の如き數十字、簡たりて、而して義理を該切し、固より文に害無きなり。




一通りの内容、まぁわからないでもない、しかしどこまで「ひとかたまりの主張」とすべきか、アンソロジーとみなすべきか、アンソロジーならどのあたりで切るべきか、また習学記全体の論旨とどれだけ絡ませるべきか。そのへんが全然見えないため、さっぱり文意を拾いきれません。うーん、途中で抜かしたところも拾い上げとかないとだめかなーやっぱ。一通り終えてから、改めて宋書対応分全体と総序を確認しないとだめっぽい。


むむむ、えらくムツカシイのであります……。

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