劉裕論28 南宋 葉適 7

しんが宗室を重んじなかったことで乗っ取りの手がかりを得ている。その隙を与えぬために宗室を重んじたわけであるが、速やかに滅亡している。これと同じ過ちは末年の司馬道子しばどうし元顕げんけん親子の重用にも見られよう。


この傾向は劉裕りゅうゆうにおいてさらに顕著となる。子弟や後継者たちも人心を取りまとめようとしたが、いたずらに対立を煽ってばかりで、謀反もしばしば起き、上官と家臣は疑い合い、国の寿命を縮めてしまった。これらは改めて他の国の例と比較するまでもなく、自滅というべきであろう。


昔、湯王とうおうがどのように臣下を御したか、そのすべは伝わっていない。しかしその治世は長らく続いた。しゅうは宗族を各地に諸侯として任じ、その数は八百にも及んだが、四代昭王しょうおうや五代穆王ぼくおう以降の治世で、滅びずに済んだ封地がいくつあったろうか? 人主はただ道徳を修めさえすれば天下を守れるものでもないが、少なくとも、かの文王ぶんおう武王ぶおう周公旦しゅうこうたん召公奭しょうこうせきですらお国の支配体制を固めきることをなし得なかったのだ。


「人士を皇帝自ら大切にし、良き文士らと厚誼を深める。一方で自分の思うようにいかぬ所は特にこれと言った理屈も無しで改めようとする。これをやってしまってはいけない。状況に応じて慨然とせよ。状況判断の際には広く周囲の意見を聞き取り尽くし、自らの感情発露をつつしみ、喜怒を人に加えることのなきようにせよ。良き提案のできる者を側に選び出すことができれば、その良き成果は自らのもとに帰そう。決して物事を独断で決めたり、自身の聡明さにのみ頼ろうとせぬように。」――これらは文帝劉義隆りゅうぎりゅうが、弟の劉義恭りゅうぎきょう荊州けいしゅうに派遣する際にしたためた戒めの言葉である。


文帝には、これ以外にも人を慮る言葉が多い。例えばのちに范曄はんようとともに劉義康りゅうぎこうを擁立しようとして刑死した孔熙先こうきせんにも、いちどはこのような言葉を投げかけている。「そなたほどの才覚の持ち主を集書省に閉じ込めておけば、それは良からぬことも企んでしまおうというものだ。すなわち、私がそなたに背いていたのだ」。こういった配慮は、他の人主にできることではない。故にこそ、元嘉げんかの治の到来が叶ったのであろう。


名士たちが有望視されていたとは言え、必ずしも豊かな才能まで兼ね備えているとは限らぬ。故に人主たるもの、あまり重用されていない者についてもきっちりと目を配り、人それぞれの才覚を導き出さねばならぬのだ。




晉懲魏失,寵樹宗藩,遂速亂亡。末年道子、元顯,公卿不復措手足,同歸於弊。劉裕益甚,子弟孩抱,皆使驅駕士大夫,既不足以鎮繫人心,徒扇動同異,反叛屢起,上下猜防,過於庶姓,國祚長短,竟何所較!昔在禹、湯,維御之制無聞,然亦能永世。周雖以同姓至八百,昭穆之後,不絶幾何?人主不以道德囿天下,而欲講自固之術,雖文、武、周、召,吾未見其工也。親禮國士,友接佳流,性之所滯,其欲必行,意所不在,從物回改,此最弊事,應宜慨然。至訊日虚懷博盡,慎無以喜怒加人。能擇善者而從之,美自歸己。不可專意自決,以矜獨斷之明。此宋文帝『戒義恭往荆州書』中語也。宋文帝多恕人之言,如慰勞孔熙先:以卿之才,而滯於習書省,理應有異志,乃我負卿。此亦他人主所不能,宜其致元嘉之治也。佳流謂時之名勝,然未必有榦用之實,正人主勵精者所簡薄,而帝能親接之,盖加於人一等也。


晉は魏が失を懲り、宗藩を寵樹し、遂に速やかに亂れ亡ぶ。末年の道子、元顯、公卿は復た手足を措かず、同じく弊に歸す。劉裕は益ます甚だしく、子弟孩抱、皆な驅駕・士大夫をして既に以て人心を鎮繫せしむるに足らざれば、徒らに同異を扇動し、反叛は屢しば起き、上下は猜防し、庶姓は過ち、國祚の長短、竟に何ぞ較ぶ所たらんや! 昔禹、湯に維御の制を聞ける無かるも、然れど亦た永世を能う。周は以て同姓八百に至ると雖ど、昭穆の後、幾何ぞ絶えんか? 人主は道德を以て天下を囿さず、而して自固の術を講ぜんと欲し、文、武、周、召と雖ど、吾れ未だ其の工みなるを見ざるなり。「親しく國士を禮し、佳流を友接し、性の滯れる所、其れ必ず行わんと欲し、意の在らざる所、物に從いて回改す。此れ最も事を弊じ、宜しきに應じ慨然す。日を訊ぬるに至り虚懷の博きを盡くし、慎みて喜怒を以て人に加う無し。能く善き者を擇びて之に從い、自ら己に歸せるを美とす。專ら意を自ら決し、以て獨斷の明を矜るすべからず」。此れ宋文帝『戒義恭往荆州書』中が語なり。宋文帝に恕人の言多く、孔熙先を慰勞せるが如きは:「卿の才を以て習書省に滯りらさば、應に異志有すは理なり、乃ち我れ卿に負かん」と。此れ亦た他の人主に能わざる所なれば、宜しく其が元嘉の治を致せるなり。佳流は時の名勝を謂うも、然れど未だ必ず榦用の實有さず、正に人主の勵精せる者の簡薄とせる所なれど、而して帝の親しく之に接す能わば、盖し人一等を加うなり。




『戒義恭往荆州書』(宋書61)

汝以弱冠,便親方任。天下艱難,家國事重,雖曰守成,實亦未易。隆替安危,在吾曹耳,豈可不感尋王業,大懼負荷。今既分張,言集無日,[11]無由復得動相規誨,宜深自砥礪,思而後行。開布誠心,厝懷平當,親禮國士,友接佳流,識別賢愚,鑒察邪正,然後能盡君子之心,收小人之力。

汝神意爽悟,有日新之美,而進德修業,未有可稱,吾所以恨之而不能已已者也。汝性褊急,袁太妃亦說如此。性之所滯,其欲必行,意所不在,從物回改,此最弊事。宜應慨然立志,念自裁抑。何至丈夫方欲贊世成名而無斷者哉。今粗疏十數事,汝別時可省也。遠大者豈可具言,細碎復非筆可盡。

禮賢下士,聖人垂訓;驕侈矜尚,先哲所去。豁達大度,漢祖之德;猜忌褊急,魏武之累。漢書稱衞青云:「大將軍遇士大夫以禮,與小人有恩。」西門、安于,矯性齊美;關羽、張飛,任偏同弊。行己舉事,深宜鑒此。

若事異今日,嗣子幼蒙,司徒便當周公之事,汝不可不盡祗順之理。苟有所懷,密自書陳。若形迹之間,深宜慎護。至於爾時安危,天下決汝二人耳,勿忘吾言。

今既進袁太妃供給,計足充諸用,此外一不須復有求取,近亦具白此意。唯脫應大餉致,而當時遇有所乏,汝自可少多供奉耳。汝一月日自用不可過三十萬,若能省此,益美。

西楚殷曠,常宜早起,接對賓侶,勿使留滯。判急務訖,然後可入問訊,既覩顏色,審起居,便應即出,不須久停,以廢庶事也。下日及夜,自有餘閑。

府舍住止,園池堂觀,略所諳究,計當無須改作。司徒亦云爾。若脫於左右之宜,須小小回易,當以始至一治為限,不煩紛紜,日求新異。

凡訊獄多決,當時難可逆慮,此實為難,汝復不習,殊當未有次第。訊前一二日,取訊簿密與劉湛輩共詳,大不同也。至訊日,虛懷博盡,慎無以喜怒加人。能擇善者而從之,美自歸己。不可專意自決,以矜獨斷之明也。萬一如此,必有大吝,非唯訊獄,君子用心,自不應爾。刑獄不可擁滯,一月可再訊。

凡事皆應慎密,亦宜豫敕左右,人有至誠,所陳不可漏泄,以負忠信之款也。古人言「君不密則失臣,臣不密則失身」。或相讒搆,勿輕信受,每有此事,當善察之。

名器深宜慎惜,不可妄以假人。昵近爵賜,尤應裁量。吾於左右雖為少恩,如聞外論,不以為非也。

以貴陵物物不服,以威加人人不厭,此易達事耳。

聲樂嬉游,不宜令過,蒱酒漁獵,一切勿為。供用奉身,皆有節度,奇服異器,不宜興長。汝嬪侍左右,已有數人,既始至西,未可怱怱復有所納。

宜數引見佐史,非唯臣主自應相見,不數則彼我不親,不親則無因得盡人,人不盡,復何由知其眾事。廣引視聽,既益開博,於言事者,又差有地也。


お前は賢い、けどその分先走りしがちだ。世の中にはまだまだお前が習っておらぬことも多い、故に広く人々の言葉に耳を傾け、その中で良き判断を下せる者を選びだすのだ。それがめぐりめぐってお前を高めることになるのだ。……みたいな内容。なんか葉適さんの引用の仕方に恣意的なものを感じざるを得ないのだが、と言うかどうにもこうにも意味がとりきれないのだが、うむむ。

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