劉裕論24 南宋 葉適 3

かん以後の宰相を語るのに、人々は諸葛亮しょかつりょうと並べ讃える存在として多く劉穆之りゅうぼくしを挙げてきた。


しかし諸葛亮は民に安息のいとまなく働かせたが、それでもなお諸葛亮に徳ありと皆が語り、忘れずにあった。劉穆之にそのようなエピソードがあっただろうか? 諸葛亮は富豪より搾取をしたが、それでもなお彼らより敬意を払われていた。このようなこと、劉穆之に為し遂げられようか? 諸葛亮は才能ある者をことごとく拾い上げて運用、才なきものをいたずらに優遇することはなかった。これとて劉穆之にはなしえなかったことである。


もし劉穆之が劉裕りゅうゆうを助けて富豪らをとりまとめて経営に力を尽くし、天下統一を為し遂げることができたならば、とは、劉穆之には考えもつかなかったのであろう。曹操そうそう以降、天下を一つにまとめ上げられなかったのを、私は劉穆之に責があると考えるのだが、空言だろうか?


考えるに、劉裕にはそれを為し遂げるための素質を備えていた。実際、それは容易く為し遂げられたはずである。だのに為し遂げられなかったのは、謝混しゃこん劉毅りゅうき司馬休之しばきゅうしと言った人物を排除することで、自らの首を絞めていったことによる。その戦略は狭く、意思も小さい。そうこうしているうちに期日をいたずらに費やしてしまったせいである。


沈約しんやく宋書そうしょの列伝において、劉穆之を以下のように評している。


「晋の綱紀紊乱が進んだのには理由がある。孝武帝こうぶていは文化の保護を試みたが下々には及ばず、司馬道子しばどうしの暗愚によって諸ルールは失墜。そこに王國寶おうこくほう司馬元顯しばげんけんの乱政が加わり、旧来の諸ルールは効力を失った。君主の権威は損なわれ、家臣が専断し、国のルールは実情から乖離し、労働力や財貨は皇室でなく、地豪のもとに私蔵されていた。このために五斗米道ごとべいどうの乱を起点とし、偉大であるはずの国威が細々と続くにすぎなくなった。

 そのような中劉裕様は、決起するとたちまち乱世にあって乱れたルールを整え、公平な政をなし、身分秩序を戦いながらも整えて行った。そのルールがひとたび施行されると、内外はみなそれに従った。東晋とうしん末の乱れた世にあって後漢ごかんはじめの頃の栄華を呼び戻したのは、劉穆之様の功績に拠るところが大きいのだろう」


確かにこれは、当時の人間が記した実際の所なのであろう。だがここには議論の余地がある。孔子こうしは仰っている。「もし私を政務の場に据えれば、一年で改善してみせよう」と。返す返すも、史臣評のごとき聖人の働きを示したのであれば、もっとすみやかに行えたのではないか? 詩経しきょう檜風かいふう匪風ひふうには「誰が魚をうまく煮る事ができようか、その人のために釜をしっかりと洗っておきたいものだが」と歌っている。さて、天下が乱れたときにそれを治めるだけの手腕を持ったものが本当にそれほど少ないものだろうか?




漢、魏以後,天下共稱諸葛亮,次則劉穆之。亮雖用,其民不息,然民德亮,故不忘也,穆之未可語此。亮雖束縳豪貴,使洗手聽法,穆之安能?亮任人能盡其器用,所至,材者知不見遺,不材無所徼倖,穆之亦未至此。若夫佐裕大合英豪,竭力經營,使天下定於一,尤非穆之所知也。自曹操不能一天下,余豈以空談責穆之?盖裕實有可致之資,其時亦易。然卒以不就者,既殺謝混,除劉毅,司馬休之,自應止此。規小意狹,又再費日月故也。沈約曰:晉綱弛紊,其漸有由。孝武守文,化不下及,道子昬德,憲章墜矣。重之以國寶,加之以元顯,祖宗遺典,羣公舊章,掃地盡矣。主威不樹,臣道專行,國典人殊,朝綱家異。編戶之命,竭於豪門,王府之蓄,變為私藏。由是禍基東妖,難結天下,蕩蕩然王道不絶若綫。高祖一朝創業,事属横流,改亂章,布平道,尊主卑臣之義,定於馬捶之間,威令一施,内外從禁,以建武、永平之風,變太元、隆安之俗,盖文宣公之為也。此當時人稱穆之實録,然尚有當論者。孔子謂如有用我,朞月而已,豈聖人之智不及也?『詩』云:誰能烹魚,溉之釡鬵。然則何天下之亂而能治之者少耶?


漢、魏以後、天下は諸葛亮と共に稱うるに、次を則ち劉穆之とす。亮は用うるに其の民を息まさざると雖ど、然して民は亮を德とし、故に忘れたらざるなり。穆之は未だ此の語すべからず。亮は豪貴を束縳したりと雖ど、使洗手聽法せしむ、穆之に安んぞ能うや? 亮が人への任は盡く其の器用を能い、至る所にて材は遺るるを見ざるを知り、材に徼倖せる所無し。穆之は亦た未だ此に至らず。若し夫れ裕を佐け大いに英豪を合し、經營に力を竭くし、天下を一に定ましむらば、尤も穆之の知る所に非ざるなり。曹操より天下を一とす能わざるは、余の豈に以て穆之を責むるは空談たるや? 盖し裕は實に之を致すべき資を有し、其の時は亦た易し。然れど卒に以て就かざるは、既に謝混を殺し、劉毅、司馬休之を除き、自ら應に此を止む。規は小さく意は狹く、又た再び日月を費やしたるが故なり。沈約は曰く:「晉が綱の弛紊せるは其れ漸く由せる有り。孝武は文を守るも化は下及せず、道子の昬德にて憲章は墜ちたり。之に國寶を以て重ね、之に以て元顯を加え,祖宗が遺典、羣公が舊章は地に掃かれ盡きたるなり。主威は樹たず、臣道は專行され、國典は人に殊なり、朝綱は家に異なる。編戶の命は豪門に竭き、王府の蓄は變じ私藏為る。是の由にて禍は東妖を基とし、天下は難結し、蕩蕩然として王道の絶えざること綫が若し。高祖は一朝に創業し事を横流に属し、亂章を改め、平道を布き、尊主卑臣の義を馬捶の間に定め、威令を一に施し、内外を禁に從え、建武、永平の風を以て、太元、隆安の俗を變ず、盖し文宣公の為なり」と。此れ當時の人の穆之が稱の實録なれど、然して尚お當論を有さん。孔子は謂えらく「如し我を用う有らば、朞月にて已まん」と。豈に聖人の智にて及ばざるや?『詩』は云えらく:「誰ぞ能く魚を烹る、之がため釡鬵を溉わん」と。然して則ち何ぞ天下の亂るるに能く之を治む者少かりきや?




まとめ「劉裕はグレイト、しかし劉穆之はクソ。補佐にもうちょっとマシなやついなかったのかよ」。


う、うん^^


謝混、劉毅、司馬休之を倒してしまったことを失策みたいに歌ってますけど、いや無理でしょどう考えてもとしか思えないのが、こうね。これって葉適しょうせきの時代に「劉穆之に比定されるべきクソ」がいた、と考えるのが妥当なんでしょうね。でなきゃここまで文字数費やして執拗に劉穆之を叩く意味がわからない。


と思って改めて葉適の事績を wikipedia センセーに伺ったんですが、このひとの時代に南宋が北伐に失敗してるんですね。そのときの責任者が韓侂冑かんたくちゅう。となると劉穆之の名を借りて韓侂冑を叩いた、と言うのが実相だったりするのかな。まぁ習学記の著述年代もわからないのでにんともかんともであります。


ともあれ、この論調だとここから先に「劉穆之に代わる異才がいたのではないか」と検証に入る感じでしょうかね。そしてこの前提を踏まえると、南宋の中の誰かをなんとなく視野に入れた、と言うこともありえるのかも知れませんね。

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