劉裕論12 中唐 張謂 上

とう 張謂ちょうい「宋武受命壇記」

唐の詩人、張謂(711-?)が 765 年に著した論。wikipedia によれば 743 年に進士に及第して西域に従軍、770年頃には潭州たんしゅう刺史となったということで、だいぶ武にも携わってる。763 年には吐蕃とばん長安ちょうあんを一時占拠食らったりと、驍武の英雄は求められていた時期だろう。けど、実際の英雄といえば……? といった感じだろうか。



昔、けついんちゅうは無道を働き、故にこそ国より徳は失われ、天命はまさに改まんとされた。


聖哲なる者は傾いた国を支えようとするが、それでも天命は、結局聖哲の元に帰る。ならばこそ湯王とうおうは夏を打倒し、武王ぶおうもまた殷を打倒するに至った。


殷が立って間もなく、太甲たいこうはその無分別ぶりのため一度伊尹いいんにより玉座を追われた。しゅう成王せいおうが立った頃も国難は多く、故に叔父の周公旦しゅうこうたんが国を運営した。


国難の迫る折に忠賢なる者が臨時の対応をなすというのであれば、そこには名分、忠節も成り立とう。後日、伊尹は太甲に全権を返却し、周公旦も成王に実権を返却している。


では、劉裕りゅうゆうはどうか。安帝あんてい元興げんこう義熙ぎきの二元号に渡り、桀や紂の如き大罪を犯しただろうか。


劉裕が展開した軍略による勲功は、伊尹や周公旦にも比肩しよう。僭称者桓玄かんげんの打倒を皮切りに、屈強なる西府せいふ軍を屈服させ、強大な南燕なんえんを打ち破り、またたく間に関中かんちゅうを制圧、巴蜀はしょくの乱をも平定。天下を手中に収めたその手腕、「汾陽ふんようの誌」にそむき、「漢陰かんいんの機」を押し留めた、と言うことは許されよう。




昔在王癸不道,帝辛失德,天命將改,人心已去,聖哲拯之,曆數歸焉,商湯所以革夏,周武所以伐殷也。至於太甲初放,成王未長,國步猶梗,時屯尚虞,忠賢處之,名節存焉,伊尹所以反正,周公所以複嗣也。元興之際,義熙之間,晉主中庸,幸無桀紂之罪;劉公大略,遂有伊周之勳。當其驅駕英雄,芟夷僭偽,南摧勁楚,北破強燕,電掃秦雍,風清巴蜀,三方為我有,四海為己任,誠能秉汾陽之誌,息漢陰之機。


昔、王癸在りて道せず、帝辛は德を失い、天命の將に改まり、人心の已に去らんとせるに、聖哲は之を拯し、曆數歸したり。商湯の夏を革む所以,周武の殷を伐す所以なり。太甲の初に放ぜらるに至り、成王の未だ長ぜざるに、國步は猶おも梗く、時は尚おも虞に屯じ、忠賢は之に處さば、名節は存したらん。伊尹の反正せる所以、周公の複嗣せる所以なり。元興の際、義熙の間、晉主の中庸、幸いにも桀紂の罪無し。劉公が大略、遂には伊周の勳を有す。當に其れ英雄を驅駕すらば、僭偽を芟夷し、南に勁楚を摧し、北に強燕を破り、秦雍を電掃し、巴蜀を風清す。三方を我れ有し,四海を己が任為るに、誠、能く汾陽の誌に秉き、漢陰の機を息まん。




汾陽の誌、漢陰の機

よくわからない。調べてみたら煬帝が汾陽宮というめっちゃ豪華な宮殿を建てたとあったから、前者はそちらなのかもしれんけど、うーむ。


ひとまず、実にいい前フリを決めてくれていますね。こっから先「全然伊尹でも、周公旦でもね〜じゃん!」が炸裂する気配マシマシで素敵です。

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