劉裕論5  梁 裴子野 下

その事業の立ち上げを魏詠之ぎえいし孟昶もうちょう何無忌かむき劉毅りゅうきとなした。


宰相としての事業を、武については劉穆之りゅうぼくし徐羨之じょせんし王鎮惡おうちんあく檀道濟だんどうさいとともに、文については傅亮ふりょう謝晦しゃかいとともに。


劉道憐りゅうどうれん様は異母弟としてともに艱難をくぐり抜けられ、劉道規りゅうどうき様はその清貞なるふるまいにてよくよく荊州を保たれた。


それ以外の臣下たちも西に東に駆け回り、苦難に当たってはこぞって力を合わせた。それはあたかも大邸宅が多くの柱木に支えられたり、星々がこぞって天の川になるが如し。


彼らは、あるいは民草の中から声を上げ、あるいは士人として名を上げんとした者たちである。集まった才能には活躍の場が与えられ、もたらされた智慧により国に繁栄がもたらされた。


みだりに爵位をばら撒かず、私情で官位に即けたりもせずにいた。これらはまさしく晋末の宮中が混乱に陥っていた原因であった。これらにより、阿諛追従の徒が宮中より一掃された。


革命の際、君子の行いは広く民にまで行き届くものである。国がせせこましいことをしなければ民は軍役にも喜んで就こうし、そも、下々がお上を恨みさえせねば、命令司令は、正しく行き届くものである。


そこを踏まえれば、劉裕様がなされた賞罰は極めて公平であり、だからこそ遠方のもので忠誠を誓わぬものはなく、近場のもので幕下に入らぬものはなかった。


故にこそ南は北ベトナムすら従え、西方では蜀の地すら覆い尽くし、北では黃河沿岸にまで勢力を伸ばし、東のかた、海沿いの地域を確保した。


天下を7つに分けたとしたら、実にそのうちの4つを確保するに至ったのだ。




若其提挈草創,則魏孟何劉,輔相總持則穆之徐羨鎮惡道濟經其武,傅亮謝晦緯其文,長沙以冢弟共艱難,武烈以清貞定南楚,其他胥附奔走,雲罪霧集,若榱椽之構大廈,眾星之仰河漢,或取之於民舉,或得之於未名,群才必逞,智慧成郊,爵不妄加,官無私謁,晉末所以荒濟淆混,阿黨容縱,莫不驅掃革易,與之更始,君行卑菲,而國不為陋,民勤征戍,而下無怨讟,品令宥密,賞罰端平,遠無不懷,邇無不附,屬為郡縣者,則南過交趾,西包劍閣,北劃黃河,而繞東海,七分天下,而有其四。


若かも其の草創を提挈せるは、則ち魏・孟・何・劉。輔相總持せるは、則ち穆之・徐羨・鎮惡・道濟に其の武を經、傅亮・謝晦に其の文を緯し、長沙は冢弟なるを以て艱難を共とし、武烈は清貞なるを以て南楚を定め、其の他の胥附奔走の雲合霧集せること、榱椽の大廈を構え、眾星の河漢を仰ぐが若し、或いは之を民舉に取り、或いは之を未だ名なきに得。群才は必ずや逞され、智慧は郊を成し、爵を妄りに加えず、官に私謁無し。晉末の荒濟淆混なるの所以、阿黨の縱まなるを容れたるなれば、驅掃革易せざる莫く、之の更始に與り、君の行に卑は菲しく、而して國に陋を為さざらば、民は征戍に勤む。而して下に怨讟無からば、品令は宥密なり。賞罰は端平にして、遠きに懷かざる無く、邇きに附せざる無く、屬し郡縣為る者、則ち南は交趾を過ぎ、西は劍閣を包み、北は黃河を劃し、而して東海を繞し、天下を七分せるに、而して其の四を有す。


(宋略)




地味に詩経を引用してきたり(胥附奔走)してきて怖いわね……ちょこちょこ意味がわからないですが、ともあれこちらの段は「よく人を用いたことで大権を得た」がメインの話のようです。


注目すべきは冒頭でしょうか。決起立ち上げに関わった者たちは姓で呼ばれ、その後の宰相としての活躍をサポートした者たちは名で呼ばれ……いや徐羨之傅亮謝晦は姓も呼ばれてるな? まぁこの辺は平仄の関係でしょう(便利な逃げ口上)。


宋略はこの先、宋の滅亡までも語るのですが、その辺りは全然劉裕に当たらないのでカット。ひとまず同時代の論である沈約しんやく史論ともうちょっと比較してみたいものです。

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