劉裕論2  梁 沈約 下

桓温かんおんの台頭より、しんはいよいよ傾いた。司馬道子しばどうし五斗米道ごとべいどうとの結託を経て、扱いを取り違えてその蜂起をまねき、さらに息子の司馬元顯しばげんけんが五斗米道の鎮圧にかこつけ、政府内に疑心暗鬼をばら撒いた。


父、桓温の勢力を継承した桓玄かんげんは司馬親子の招いた不和に付け入り、遂には簒奪までなしたが、あえて逆らおうという者もいなかった。


そこに現れたのが、劉裕りゅうゆう様である。斉桓公せいかんこう晋文公しんぶんこうのような基盤も持たず、五百の手勢すら率いていなかったにもかかわらず、決起よりわずか十日のうちには凶兵を討伐し、暴君を追い払い、晋の祭祀を復旧させ、代々伝わってきた伝統を失わせず、內部を粛清、外では敵を討伐、その功績は、まさに天にまで至った、と言えよう。


故に鍾石はその音で新たな帝の出現を祝い、遂には禅譲の儀がなった。


民の心が晋から去っていたことは、かん末、いまだ漢を思うものが多い中曹丕そうひによって簒奪されたときとは違い、数多くの武勲を積み上げたこと、司馬昭しばしょう司馬炎しばえんが即位の名目を揃えていたときとは、やはり違う。ゆえにこそ、恭帝きょうてい司馬徳文しばとくぶんは唯々諾々と皇位を譲ったのである。


劉裕様こそは民よりの推戴を受け、また歌にもその即位を望まれたお方。


魏や晋はその名目のみを取り揃え、皇帝となったフシがある。しかし劉裕様は名目とともに、確かな武功をもお立てになったうえ、即位された。


なんとも、徳盛んなお方であることか!




自斯以後,晉道彌昏,道子開其禍端,元顯成其末釁,桓玄藉運乘時,加以先父之業,因基革命,人無異心。高祖地非桓、文,眾無一旅,曾不浹旬,夷凶翦暴,祀晉配天,不失舊物,誅內清外,功格區宇。至於鍾石變聲,柴天改物,民巳去晉,異於延康之初,功實靜亂,又殊咸熙之末。所以恭皇高遜,殆均釋負。若夫樂推所歸,謳歌所集,魏、晉采其名,高祖收其實矣。盛哉!


斯くなるより以後、晉道は彌いよ昏じ、道子は其の禍端を開き、元顯は其の末釁を成し、桓玄の藉運は時に乘じ、加えて先父の業を以て因りて革命の基とせど、人に異心無し。高祖は地桓文に非ず、衆一旅も無きも、曾浹旬ならずして、凶を夷らげ暴を翦ち、晉を祀り天に配し、舊物を失はず、內を誅し外を淸め、功區宇に格る。鍾石聲を變じ、柴天物を改む。民の巳に晉より去ること、延康の初と異にし、功の實に亂を靜むること、又咸熙の末と殊にす。恭皇の高遜し、殆ど均しく釋負する所以なり。夫れ樂推の歸したる所、謳歌の集う所なるが若し。魏、晉は其の名を采り、高祖は其の實を收めたらん。盛んなるかな!


(宋書3)




魏が名目だけ、と言われてしまうと、曹操と劉裕の武勲を比較しなければならないんでしょうかね。洛陽、長安を確保し、滅ぼした勢力は……あくまで各地の群雄であって、僭称皇帝は袁術くらいしかいないのか。曹操のうちに劉備か孫権を滅ぼせてたら、少しは違ったのかもしれないですが。それに比べると劉裕は、確かに「先祖が失い、更には歴代の名将が失敗し続けた長洛奪還を、曲がりなりにも成し遂げた」のが「権威としての武」って観点から見ると大きいでしょうか。


ってこの比較だと曹操えらい不利じゃね!?


ただ、この評だと割と曹操は見てなさそうなんですよね。曹丕だけと比べてそう。ますます卑怯な比べ方よね……。


文章としては、割と詔勅とかから拾い上げての再構築のようです。桓文みたいな表現はまさにですよね。以前挑戦しようとしたときにはひたすら混乱&混乱でしたが、今読み返してみると、……えーと食傷アゲイン。まー仕方ないですよねー。




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