「紫微垣」苻堅戴記7(完)

 長安城の周囲では、毎夜何者かが大声で呼びかけてきていた。


「楊定は我らの部下である。程なく我らの元に戻るであろう。そして長安城に我が君臨しよう。父子は同じく出でるも汝とは共にあるまい」


 声の主を探したが、見つからなかった。


 さて、長安城内に転がっていた書「古符傳賈録」には、このような記述があった。


「帝は五將に出で、久長を得る」


 また、城内にはこのような歌謡が広がっていた。


「堅は五將山に入り、長きを得る」


 長安の西のかたにある山、五将山。ここに事態打開のカギがあるに違いない。苻堅は嫡子の苻宏に言う。


「この予言は、あるいは天が余を導いているのやも知れぬ。汝に軍務、政務の全てを委ねる。余が五将に向かう間、みだりに敵と交戦せぬようにせよ。五将を経て隴中にまで抜けられれば、兵や糧秣を得て長安に戻ることが叶うであろう。この天啓を、十全に活かさねばならぬ」


 この話をした前後のこと、苻堅は楊定を出陣させ、慕容沖を襲撃させた。だが楊定は敗北、慕容沖に捕まる。例の呼び声通りの展開になったことを、苻堅は畏れた。計画を速やかに実行に移さねばならない。苻宏に後事を託し、苻詵、張夫人らとともに、数百騎の小勢にて五将山に向け出立。周辺の領民に向けては冬の頭ごろを目途に長安を救出すると宣言した。


 だが苻堅の出立後まもなく、苻宏は親族らを率いて長安城を出奔。属領たちもみな逃亡した。こうして空になった長安城に慕容沖は入城。改めて城内で大いに略奪行為に耽った。城内で生じた死者はとても計上しきれぬほどであった。



 さて、秦がまだ平和であった頃のことである。長安付近で土から煙がもうもうと噴き上がったことがあった。煙は数十里四方に立ち込め、しかもひと月余りもの間消えなかった。苻堅は訴訟ごとに臨み、国民の内恨みの念を抱くものが長安城の北で煙を上げているに違いない、と、これを記録させた。長安の人びとはこの苻堅の指示に対し「容疑者探しに必死だな」と噂し合っていた。また、どこからともなく流行歌が広がっていた。


「長鞘馬鞭の左股を撃たるらば、太歲は南に行き當に復た虜とならん」


 秦の人間は、鮮卑と白虜と呼んでいた。そして慕容垂が反旗を翻したのは 383 年、干支で言えば癸末に当たる。


 苻堅は同族の氐人を各地に移住せしめ分散させたが、このことを趙整は歌にて諫じた。琴を携え、以下のように歌っている。


「阿は脂を得たり

 阿は脂を得たり

 博勞の舊父は是れ仇綏なり

 尾長くして翼短かかりせば

 飛ぶるも能わず

 遠きに種人を徙し

 鮮卑を留め、

 一旦の緩急を語れる

 阿は誰ぞ!」


 王のなさりようはいたずらに鮮卑どもの決起を助長するにすぎないものであります、どうか氐人を近くに呼び戻してください、といった内容である。この歌を苻堅は笑ってまともに取り合わなかった。しかし結局、趙整の諫言は現実のものとなるのであった。


 苻堅が五將山にやってきたのを聞き、姚萇は呉忠を派遣、ただちに苻堅を包囲した。苻堅につき従っていたものの多くはすでに逃げ去っており、その周囲には十数人が残るのみであった。このような事態にあっても苻堅は泰然自若としており、侍従らには食事を勧めるなど冷静に振る舞っていた。

 そこに呉忠が現れ、苻堅を捕縛、新平に連行し牢に幽閉した。

 姚萇は伝国の璽の玉璽を寄越すよう、苻堅に求めた。


「私が次代の世を護ってみせましょう。王の行いは、次世の恵みとなるのです」


 しかし苻堅は瞑目したまま、姚萇に対して怒鳴り散らす。


「小ざかしい羌賊めが王にすり寄ってきたか。伝国の玉璽が貴様ら羌の手に渡るだなどと言った世迷言が、予言書のどこに記されておろうか。五胡の次序に、貴様ら羌の名なぞ無い。天が貴様らを祝福してもおらぬのに、そんな貴様らがどう世を治められるというのだ! 璽は既に晋に送っておる。もはや貴様の手になどは収まらぬわ!」


 姚萇はまた、参謀の尹緯を遣わせ、堯が舜に禅譲を為した例を引き合いにしての説得をさせた。しかし苻堅は尹緯を責める。


「禅譲とは聖賢の間でなされるものであろう。姚萇は叛賊である。そのような者が古人に倣うなど、不遜にもほどがあろう!」


 最期まで苻堅は姚萇への禅譲を拒み続け、大いに面罵しつつ死を求めた。結局姚萇は新平の仏寺で苻堅の首をくくり、殺した。この時、苻堅は 48 歳。付き従った苻詵、張夫人は共に自殺した。西暦 385 年のことである。




原文:

 每夜有周城大呼曰:「楊定健兒應屬我,宮殿台觀應坐我,父子同出不共汝。」且尋而不見人跡。城中有書曰「古符傳賈錄」,載「帝出五將久長得」。先是,又謠曰:「堅入五將山長得。」堅大信之,告其太子宏曰:「脫如此言,天或導予。今留汝兼總戎政,勿與賊爭利,朕當出隴收兵運糧以給汝。天其或者正訓予也。」於是遣衛將軍楊定擊沖於城西,為沖所擒。堅彌懼,付宏以後事,將中山公詵、張夫人率騎數百出如五將,宣告州郡,期以孟冬救長安。宏尋將母妻宗室男女數千騎出奔,百僚逃散。慕容沖入據長安,從兵大掠,死者不可勝計。


 初,秦之未亂也,關中土然,無火而煙氣大起,方數十里中,月餘不滅。堅每臨聽訟觀,令百姓有怨者舉煙於城北,觀而錄之。長安為之語曰:「欲得必存當舉煙。」又為謠曰:「長鞘馬鞭擊左股,太歲南行當復虜。」秦人呼鮮卑為白虜。慕容垂之起於關東,歲在癸末。堅之分氐戶于諸鎮也,趙整因侍,援琴而歌曰:「阿得脂,阿得脂,博勞舊父是仇綏,尾長翼短不能飛,遠徙種人留鮮卑,一旦緩急語阿誰!」堅笑而不納。至是,整言驗矣。


 堅至五將山,姚萇遣將軍吳忠圍之。堅眾奔散,獨侍御十數人而已。神色自若,坐而待之,召宰人進食。俄而忠至,執堅以歸新平,幽之於別室。萇求傳國璽於堅曰:「萇次膺符曆,可以為惠。」堅瞋目叱之曰:「小羌乃敢幹逼天子,豈以傳國璽授汝羌也,圖緯符命,何所依據?五胡次序,無汝羌名。違天不祥,其能久乎!璽已送晉,不可得也。」萇又遣尹緯說堅,求為堯、舜禪代之事。堅責緯曰:「禪代者,聖賢之事。姚萇叛賊,奈何擬之古人!」堅既不許萇以禪代,罵而求死,萇乃縊堅于新平佛寺中,時年四十八。中山公詵及張夫人並自殺。是歲太元十年也。



訓読文:

 每夜城の周りにて大いに呼せるの有れるに曰く:「楊定は健兒にて我に應じ屬さん、宮殿の台觀に應じ我坐さん、父子は同じく出でるも汝と共せず」と。且つ尋ち人跡は見えず。城中の書に有れるの曰く《古符傳賈錄》にては、「帝は五將に出で久長を得る」と載る。是の先、又た謠に曰く:「堅は五將山に入り長きを得る」と。堅は大いに之を信じ、其の太子の宏に告げて曰く:「此の言の如く脫せるは、天の或いは予を導かんか。今汝は留まり戎政を兼ねて總べ、賊と利を爭うこと勿れ、朕は當に隴に出で兵を收め糧を運び以て汝に給す。天は其れ或る者にて予に正しく訓ぜるなり」と。是に於いて衛將軍の楊定に沖を城西にて擊たしめ、沖の擒わるる所と為る。堅は彌かに懼れ、宏に以て後事を付し、將に中山公の詵、張夫人を率い騎數百にて出で五將に如し、州郡に告げ、孟冬を以て長安を救わんと期せるを宣ず。宏は尋ち將に母妻宗室男女數千騎にて出でて奔り、百僚は逃散す。慕容沖は長安に入りて據り、兵を從え大いに掠せば、死者は計れるに勝るるべからず。


 初、秦の未だ亂れざれるに、關中の土の然え、火無くして煙氣の大いに起ち、方そ數十里の中、月餘り滅さず。堅は聽訟觀に臨める每、百姓に怨有る者の城北に煙を舉ぐるを觀ては之を錄さしむ。長安は之の為れるを語りて曰く:「必ずや存せる當に煙を舉ぐるるを得んと欲す」と。又た謠と為れるに曰く:「長鞘馬鞭の左股を撃たるらば、太歲は南に行き當に復た虜とならん」と。秦の人は鮮卑を呼びて白虜と為す。慕容垂の關東にての起せるは、癸末の歲に在り。堅の氐戶を諸鎮に分せるや、趙整は因りて侍し、琴を援え歌いて曰く:「阿は脂を得たり、阿は脂を得たり、博勞の舊父は是れ仇綏なり、尾長くして翼短かかりせば飛ぶるも能わず、遠きに種人を徙し鮮卑を留め、一旦の緩急を語れる阿は誰ぞ!」と。堅は笑いて納めず。是に至り、整の言は驗ぜり。


 堅の五將山に至れるに、姚萇は將軍の吳忠を遣し之を圍む。堅の眾は奔りて散り、獨だ侍御の十數人のみ。神色は自若、坐して之を待ち、召しては人に宰し食を進む。俄に忠の至るれば、堅を執え以て新平に歸さしめ、之を別室に幽す。萇は傳國の璽を堅に求めて曰く:「萇が次なる符曆を膺さん、以て惠と為すべし」と。堅は瞋目し之に叱りて曰く:「小羌の乃ち敢えて天子に幹逼せるに、豈に以て傳國の璽を汝羌に授けんや、圖緯符命の、何所に依據せんか? 五胡の次序に、汝羌の名は無し。天の祥ぜざるに違わば、其れ久しく能わんか! 璽は已にして晉に送らるる、得るべからざるなり」と。萇は又た尹緯を遣わせ堅に堯、舜の禪代の事を說かしめて求むるを為さしむ。堅は緯を責めて曰く:「禪代、聖賢の事なり。姚萇は叛賊なれば、奈何ぞ之が古人を擬さんか!」と。堅は既にして萇を以て禪代さるを許さず、罵りて死を求め、萇は乃ち堅を新平の佛寺中にて縊り、時に年四十八なり。中山公の詵及び張夫人は並びて自殺す。是の歲は太元十年なり。

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