「紫微垣」苻堅戴記6

 この頃、長安城の上空には数万羽のカラスが悲痛な鳴き声を上げて飛び交っていた。ある占い師は、このカラスたちが年内にいなくならなければ、燕軍が場内に侵入するのを許してしまうであろう、と予言した。

 慕容沖が大軍を率い、城壁を攻め立てる。対する苻堅は、自ら甲冑を身に纏い、防衛戦の指揮を執った。城壁には、矢が雨あられと降り注ぐ。何本もの矢が苻堅にも命中し、流血する。

 こうして長安城で苛烈な防衛戦が繰り広げられている中にあっても、長安城周辺の者たちは、何とか長安城内に兵糧を届けようと試みては燕軍に討ち取られていた。

 彼らの有様を見るに堪えず、苻堅は表明する。


「卿らが志を果たし得ず死んでゆく様を、せめて予は心に深く留め置こう。卿らの行いは、誠に難を畏れず立ち向かう忠臣の義挙である。だが敵軍の勢い、その甚だ盛んなるは、一人二人が尽力したところでどうにかなるものでもない。卿らには祖霊らの加護が下されるであろう。この大いなる禍を切り抜け、国を守るためにも、今は耐え忍ぶがよい。食糧を備蓄し、武具を整備せよ。反撃のタイミングが訪れるまでは、いたずらに攻めかかり、功無きままに命を失わぬようにせよ。あてもなく敵の待ち構える陣に飛び込むだなどと言った、命を粗末にする行いは厳に慎むように」


 長安周辺で慕容沖の掠奪の被害に遭ったものたちは、誰もが苻堅に使者を飛ばすのだった。慕容沖の陣営にある我々が陣中に火を放つことで、燕軍を大いに乱すことができるだろう、と。

 これを聞き、苻堅は言う。


「卿らの決死の思い、いくら予が悲しんでみたところで、どうしてそれを妨げられようか。だが、これは心しておくように。今はタイミングを逸している。余は卿らがろくろく秦の為の功を挙げることも叶わず、徒に死にゆくのを見届けてしまえば、慙愧に耐えまい。良いか、我が精兵は獣の如き獰猛さを備え、また彼らの持つ武具は精強である。長安を囲む疲れ緩み切った烏合の衆を打ち砕くのも、もはや時間の問題である。であるからこそ、卿らは何よりも卿ら自身のことを第一に考えよ」


 だが、人々は苻堅の言葉が虚勢であることを見抜いていた。

 苻堅からの言葉を受け、なお言い募る。


「今更この命、惜しくなどございません。この身を死地に投ずるのは、大秦の為。いま、天に祈るのはただただ王が救われることにございます。それが叶うのであれば、この身が滅ぶことなど何程の事でありましょう」


 説得が叶わぬ、と理解した苻堅は700の騎兵を彼らのもとに派遣し、その作戦の補助を務めさせた。慕容沖の陣中に火の手が上がる。火を付けた者は、しかし己の付けた火に焼かれてしまった。十人のうち、一人か二人が生き延びる、というありさまである。

 苻堅は彼らの決死の行いを深く悼んだ。自ら祭壇を築いて立ち、死んでいった者たちに向け、述べる。


「忠に満ちたる霊たちよ、我が元に集うがよい。其方らの父祖らの元に帰り、間違えても怨霊になどならぬように」


 あふれる涙は留め切れず、その悲嘆は隠しようがない。

 苻堅の様子を見、人々は言う。


「王のその思いだけでも、我らは間違いなく英霊となれましょう」


 慕容沖は長安周辺で無法の限りを尽くしていた。住人はみな逃げ去り、街道をゆく人影は絶えて路面は荒れ果て、どこを見渡してみたところで炊事の煙を認めることは叶わないありさまである。苻堅は仇騰に馮翊太守と輔國將軍の地位を与え、破虜將軍の蘭犢と共に長安周辺の人々を慰撫させるよう命じた。この苻堅の対応に人びとは大いに感じ入るのだった。皆が言う。


「陛下と死と生とを共とし、最後まで付き従います」




原文:

 時有群烏數萬,翔鳴于長安城上,其聲甚悲,占者以為鬥羽不終年,有甲兵入城之象。沖率眾登城,堅身貫甲胄,督戰距之,飛矢滿身,血流被體。時雖兵寇危逼,馮翊諸堡壁猶有負糧冒難而至者,多為賊所殺。堅謂之曰:「聞來者率不善達,誠是忠臣赴難之義。當今寇難殷繁,非一人之力所能濟也。庶明靈有照,禍極災返,善保誠順,為國自愛,蓄糧厲甲,端聽師期,不可徒喪無成,相隨獸口。」三輔人為沖所略者,咸遣使告堅,請放火以為內應。堅曰:「哀諸卿忠誠之意也,何復已已。但時運圮喪,恐無益于國,空使諸卿坐自夷滅,吾所不忍也。且吾精兵若獸,利器如霜,而衄于烏合疲鈍之賊,豈非天也!宜善思之。」眾固請曰:「臣等不愛性命,投身為國,若上天有靈,單誠或冀一濟,沒無遺恨矣。」堅遣騎七百應之。而沖營放火者為風焰所燒,其能免者十有一二。堅深痛之,身為設祭而招之曰:「有忠有靈,來就此庭。歸汝先父,勿為妖形。」歔欷流涕,悲不自勝。眾咸相謂曰:「至尊慈恩如此,吾等有死無移。」沖毒暴關中,人皆流散,道路斷絕,千里無煙。堅以甘松護軍仇騰為馮翊太守,加輔國將軍,與破虜將軍蜀人蘭犢慰勉馮翊諸縣之眾。眾咸曰:「與陛下同死共生,誓無有貳。」


訓読文:

 時に烏の群れ數萬有り、翔びて長安城の上にて鳴くれば、其の聲は甚だ悲しく、占者は鬥羽の年に終わらざれば、以て甲兵の城に入れるの象と為す。沖の眾を率いて城に登らんとせるに、堅は身に甲胄を貫き、之を距むるの戰を督さば、滿身に矢が飛び,體に血の流るるを被る。時に兵の寇せるの危逼さると雖も、馮翊の諸堡壁は猶お糧を負いて難を冒し至れる者有らば、多きは賊の殺さるる所となる。堅は之に謂いて曰く:「來し者の善く達せざるを聞くに、誠に是れ忠臣の難に赴けるの義なり。當に今は寇難の殷繁し、非一人の力にて濟い能う所非ざるなり。庶くは明靈の照らさる有り、禍極なる災い返りて、善く誠順を保ち、國の為自ら愛し、糧を蓄し甲を厲し、端に師期の聽くるまで、不可徒に成無きに喪うるべからず、獸口に相隨うべからず」と。三輔の人の沖に略さるる所と為れるは、咸な使を遣わせ堅に告がしめ、火を放ちて以て內應せるを請う。堅の曰く:「哀しきかな諸卿の忠誠の意、何ぞ復た已已なるか。但し時運は圮喪せり、恐るるは國に益せる無く、空しくも諸卿をして坐して自ら夷滅せしむるは、吾が忍べざる所なり。且つ吾が精兵は獸の若し、利き器は霜の如し、烏合にして疲鈍の賊を衄くに、豈に天ならざるなり! 宜しく善く之を思うべし」と。眾は固く請うて曰く:「臣等は性命を愛さず、身を投ずるは國の為なれば、若し上天に靈有らば、單誠にして或いは冀くは一濟なり、沒せるに遺恨無し」と。堅は騎七百を遣わせ之に應ず。而して沖の營に火を放たる者は風焰の燒くる所となり、其の能く免るる者は十に一二有るのみ。堅は之を深く痛み、身にて祭の設くるを為し之に招して曰く:「忠有せる靈有らば、來たりて此の庭に就かるるべし。汝の先父に歸し、妖形と為る勿れ」と。歔欷と流涕し、悲せるを自ら勝れず。眾は咸な相い謂いて曰く:「至尊の慈恩が此の如くせば,吾等に死有れど移るる無し」と。沖の關中にて毒暴せるに、人は皆な流散し、道路は斷絕し、千里に煙無し。堅は以て甘松護軍の仇騰を馮翊太守と為し、輔國將軍を加え、破虜將軍の蜀人の蘭犢と馮翊の諸縣の眾を慰勉せしむ。眾は咸な曰く:「陛下と死を同じく生を共とし、貳の有る無きを誓う」と。

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