「紫微垣」苻堅載記2

 慕容泓よりの書を読んで苻堅は激怒した。兄である慕容暐を呼び出し、責め立てた。

「卿ら慕容の一族が身の程知らずにも皇帝を名乗り、人神の意に背いたからこそ、朕はその意に応じて動いたのだ。だからこそ我が兵の勢いは留まることを知らず、遂には卿を捕らえるにまで到った。

 卿が迷妄を捨てて改心することもなかったというのに、その宗族は赦免を受け、その兄弟は将や官僚として高位に就いた。燕は滅んだと言われているが、その実態は飽くまで帰するべきところへと収まった、と呼ぶ方が相応しいのだ。

 だと言うのに、王の軍が辺境で少し負けた途端、たちまちこのような卑劣きわまりない掌返しをするとはな! 慕容垂は虎牢関の東でとぐろを巻き、慕容泓と慕容沖は長安の側で起兵し挑発に暇が無い。

 慕容泓は書にこう書いている。卿が燕に戻りたいと望むのであれば、朕に必要なものすべてを取りそろえさせよ、とな。

 卿の宗族は、人面獸心というよりほかないな。国士として遇するに値する者らではなかったか」

 慕容暐は額から流血するほど頭を床に打ち付けて土下座し、大泣きして謝罪した。苻堅はそれをしばらく黙って見ていたが、やがて言った。

「書経にはこうある。父子兄弟は相及ぶ無きなり、とな。卿の忠誠ぶりは、朕もよく知っている。垂、泓、沖の三人が愚かなだけであり、卿の過ち、と言うわけではない」


 慕容垂らの謀反の報せを受けると、はじめ苻堅は慕容暐の官位を降格させていた。しかし慕容暐のこの様子を見て、復位させ、待遇も初めて秦に帰属したときと同じようにした。

 また苻堅は、慕容暐に手紙を書かせた。垂、泓、沖の三名に宛てて、軍を解散し、長安に戻ってくるのであれば、今回は罪に問わずにおく、と伝える物であった。

 だが慕容暐は、この書とは別に、慕容泓に向けて密かに書を送っていた。その書には、以下のように書かれていた。


「いよいよ秦の末期が近寄ってきた。長安では怪異の起こらぬ日もなく、誰しもがそれらを秦室の凶兆と見ている。されど我は依然籠中にある。もはや燕の地に還る事は叶わぬであろう。

 我は燕室の宗廟を保つことも能わず、氐賊の狼藉を許した罪人である。今となっては、もはや我の身の存亡を問うは詮無きことである。いつまでも祭主無きままでおれるほど、社稷とは軽いものではない。

 泓よ。燕室の復興をこそ重んずべき勉めとせよ。垂叔父上を相国とし、沖を太宰に任じよ。また泓、其方は大将軍の座に就つき、我の代理として燕室を立ち上げよ。我が死したる折には、其方が帝として燕室を率いるべし」


 この書を読み、慕容泓は長安に向けて進軍を開始、年号を燕興と改めた。

 この頃より鬼の夜哭きが聞こえるようになったが、ひと月ほどしたら、聞こえなくなった。


 慕容泓の謀臣である高蓋や宿勤崇らは、慕容泓の德望が弟の慕容沖に劣り、しかも、法の運用があまりにも苛烈であったため、慕容泓を殺害し、慕容沖を皇太弟に推戴、百官を立て、皇帝の代理とした。




原文:

 堅大怒,召慕容暐責之曰:「卿父子幹紀僭亂,乖逆人神,朕應天行神,盡兵勢而得卿。卿非改迷歸善,而合宗蒙宥,兄弟布列上將、納言,雖曰破滅,其實若歸。奈何因王師小敗,便猖悖若此!垂為長蛇於關東,泓、沖稱兵內侮。泓書如此,卿欲去者,朕當相資。卿之宗族,可謂人面獸心,殆不可以國士期也。」暐叩頭流血,泣涕陳謝。堅久之曰:「《書》云,父子兄弟無相及也。卿之忠誠,實簡朕心,此自三豎之罪,非卿之過。」復其位而待之如初。命暐以書招喻垂及泓、沖,使息兵還長安,恕其反叛之咎。而暐密遣使者謂泓曰:「今秦數已終,長安怪異特甚,當不復能久立。吾既籠中之人,必無還理。昔不能保守宗廟,致令傾喪若斯,吾罪人也,不足復顧吾之存亡。社稷不輕,勉建大業,以興復為務。可以吳王為相國,中山王為太宰、領大司馬,汝可為大將軍、領司徒,承制封拜。聽吾死問,汝使即尊位。」泓於是進向長安,改年曰燕興。是時鬼夜哭,三旬而止。


  泓謀臣高蓋、宿勤崇等以泓德望後沖,且持法苛峻,乃殺泓,立沖為皇太弟,承制行事,自相署置。



訓読文:

 堅は大いに怒り、慕容暐を召して之を責せめて曰く「卿ら父子の幹紀は僭亂にして人神より乖逆したれば、朕は天に應じて神を行い、兵勢を盡くして卿を得る。卿は迷を改めて善に歸するに非ざれど、合宗は宥しを蒙り、兄弟は上將、納言に布列せば、破滅を曰うと雖も、其の實は歸するがごとし。奈何ぞ王師の小敗に因り、便ち猖悖せること此のからんか! 垂は長蛇を關東に為し、泓、沖は兵を稱して內に侮る。泓の書は此くの如し、卿の去らんと欲さば、朕は當に相い資すべしと。卿の宗族は、人面獸心と謂うべし、殆ど國士を以て期するべからざるなり。」と。

 暐は叩頭して流血し、泣涕して陳謝す。堅は之を久しくして曰く:「《書》に云えらく、父子兄弟は相及ぶ無きなり、と。卿の忠誠は、實に朕の心に簡なり、此れは自ら三豎の罪にして、卿の過に非ざるなり。」と。

 其の位を復して之を待らすこと初めの如し。暐に命じて書を以て垂及び泓、沖を招喻し、兵を息めて長安に還らしむれば、其の反叛の咎を恕さんとす。

 しかして暐は密かに使者を遣りて泓に謂いて曰く:「今秦の數は已に終わらんとし、長安の怪異たるや特に甚だしかり、當に復た久しく立つる能わざるべし。吾は既に籠中の人なれば、必ずや還るるの理無し。昔に宗廟を保守する能わず、斯くの若き傾喪を致しめたる、吾は罪人也、復た吾が存亡を顧るに足らざるなり。社稷は輕からず、努めて大業を建て、興復を以て務めと為すべし。吳王を以て相國と為し、中山王を太宰と為して大司馬を領せしめ、汝は大將軍と為りて司徒を領し封拜を承制すべし。吾が死問を聽かば、汝は尊位に即くべし。」と。泓はこれに於いて長安に進みて向かい、年を改めて燕興と曰う。是の時鬼は夜に哭し、三旬して止む。


 泓の謀臣の高蓋、宿勤崇等は泓の德望の沖に後れ、且つ法を持すること苛峻なるを以て、泓を殺すや、乃ち沖を立てて皇太弟と為し、行事を承制して、自ら相い署置せり。

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