宋書武帝紀9 京邑奪還

 八月、劉裕は江陵より建康に戻ると、黃鉞を返還、太傅、州牧、前部羽葆、鼓吹については固譲し、その他は受けた。朝廷は劉裕をさらに重んじるよう議した。世子の劉義符を兗州刺史に任じた。


 義熙十二年の正月、劉裕に配下任官の権限が付与された。また平北將軍、兗州刺史にも任ぜられた。また南秦州も加わった、凡そ二十二州の都督にも任ぜられた。劉裕は平北将軍府の属官が少ないことから、敢えて平北府を独立した存在とはせず、太尉府としてまとめ上げた。

 劉義符を豫州刺史に任じた。三月、劉裕に中外大都督の座が加えられた。


 南燕征伐ののち、劉裕はそのまま洛陽まで攻め落とす心積もりでいた。しかし盧循の侵攻に遭遇したため叶わなかった。

 荊州、雍州を平定し、遂に外征の準備が整ったのである。

 また後秦では姚興が死んで子の姚泓が立たったところ、兄弟が殺し合い、関中は擾乱のさなかに陥った。この機を逃すまいと劉裕は北討に打って出た。征西將軍、司豫二州刺史を拝領した。

 また劉義符を徐、兗二州刺史とした。


 劉裕は中外都督及び司州都督を授かり、大司馬にして琅邪王司馬徳文に並ぶ禮敬を得た。劉裕は己が声望を更に高めるためにも、司馬徳文を奉じて北伐に打って出るべき、と考えていた。

 五月に後秦の黃門侍郎・尹沖が兄弟と共に帰順した。劉裕に北雍州刺史,前部羽葆、鼓吹が与えられ、班劍は四十人に加増された。そのかわり、中書監は解任された。

 八月、大軍が建康を発った。劉義符を中軍將軍として、太尉府の留守を任せた。尚書右僕射・劉穆之を左僕射とし、監軍府、中軍府の顧問とした。更に東府城に詰めさせ、内外の総取り締まりを任せた。

 九月、劉裕が彭城に到着すると、徐州刺史の位が加えられた。


 先発隊として、冠軍將軍・檀道濟、龍驤將軍・王鎮惡の歩兵隊が許都や洛陽に至る道を進んでいたが、後秦からの大きな抵抗はなかった。それどころか後秦の兗州刺史・韋華は倉垣を拠点としていたが、兵ともども降伏してきた。

 劉裕はまた北兗州刺史・王懿に水軍を率いさせ、黄河を遡上させた。王懿は東郡涼城で北魏軍を破り、更に滑台をも平定した。十月にはその軍が洛陽に到着、金墉(※洛陽城北西にある城砦)を囲んだ。

 姚泓の弟、平南將軍・姚洸が投降してきたので建康に連行した。

 洛陽にある晉代々の陵墓を修復、守衞を配した。


 この功績に対し、安帝が詔勅を下す。


「この晋に天命が下って後、諸侯が各地を守ることで、初めて王は務めを成し遂げた。の時代には昆吾こんごが、いんの時代には彭祖ほうそが地方を守っていたし、東周とうしゅう王朝が斉桓公せいかんこう晋文公しんぶんこうに守られていたのも、これらのことを裏付けている。これら前例を踏まえ、また長く後世を導くためにも、治世を助け、危地を助けてくれる者は欠くべからざる存在である、と言えよう。

 太尉、劉裕殿。そなたは天意に導かれ、その類い希なる指導力で、天下に聖なる光をもたらし、よく照らし出して下さった。微細なる立場より立ち上がられ、この国に身を投じ、邪悪なる妖賊を焼き払い、国家の命運を保たれた。これによりお国を守る任がそなたの肩に掛かり、国内の誰もがそなたを頼るようになった。桓玄かんげんが簒奪の逆をなし、天下を乱したときも、公は大義を掲げ、その霊武にて稲妻のごとく馳せ来たられ、朕の身を救い出し、晋室を再興してくれた。

 公の功績、威徳を思う度、我が心は感動に満たされる。北には斉の地に至る海岸線、併せて泰山たいざんを奪還され、南には蛮族を平定、西のかた荊州けいしゅう雍州ようしゅうの民もまた公に敬服の心を抱き、漢中かんちゅう庸山ようざん周囲の民、益州えきしゅう岷江みんこう周辺の民もまた、公に従った。地方に起こる困難も平らげられ、押し寄せる外敵をも退けられた。

この晋という国の戦略をサポートし、また国内の秩序を正したること、まさに仰ぎ見るべき、空前絶後の功と言えよう。そして礼節でもって世俗をも正し、王の心の元、世に良き教訓をもたらした。そなたの指導は国内隅々に行き渡ろう。浸透せぬことなどあり得まい。

 これらにより木の家に住む蛮族、海に浮かぶ島々で暮らす蛮族、ざんばら頭の蛮族、入れ墨を体に彫り込む蛮族どもが、その地の険阻なるも、遠方なるも差し置き、参内して参った。これはまこと公が周辺国家に振るわれた威徳のゆえであり、公以外にはなしえぬ境地であったろう。

 昔、永嘉えいかの乱にて中華は千々に裂け、歴代の皇帝たちの終の家は、蛮族どもに踏みにじられてしまった。かの方々の陵墓の修復は、我らの悲願であった。公はこれらの悲しみを背負われ、そして稲妻のごとく出征、自ら名士らを率いられ、その武威を大いに示して蛮族討伐を成し遂げられた。その旗が道になびけば各地は打ち震え、その遠征軍が姿を現せば敵軍は霧散。こうして洛陽らくようは公によって清められ、先帝らの陵墓は修復された。百の城が降伏し、千の集落が帰服した。歴史書が記載を始め、民が国を意識するようになって以来、この華やかなる威徳、この壮烈なる功績は、公以上に盛んであった者などおらぬであろう。

 昔、周王しゅうおうには周公旦しゅうこうたん太公望たいこうぼうがおり、この三者で軍権を分け合っていた。そしてひとたび動き出せば、三者ともに大きく領土を獲得し、こうして周は覇を唱えた。後の世にはせい桓公かんこうしん文公ぶんこうが覇を唱えるも、やはり時の周王より栄誉を得ている。そこから遙か百代を重ねた後の今、先人の例に倣わぬ訳に参ろうか!

 朕は多くの先例を鑑み、そなたの功にどう報いるべきかを考えてきた。なにぶん、公はこれまでも多くの大権を辞退してこられた。そのため、国家単位での祭礼でもって、公の功績を讃えたことはない。天帝もまた、そろそろ公を慶賀したいと心待ちにしておられよう。況してして今、公は王の残された功績の跡をたどり、天下を従えた。讃えられるべき功績はうずたかく積もり積もっておる。そう、公はこの国の大いなる過ちを正してくださったのだ。天地の霊、一門を代表し、朕はここに、公への畏敬の念を包み隠さず、申し上げたい。

 ならば公も、この辺りで人々よりの声に応え、より高みにつくのがよろしかろう。故に相国として万民を統べ、揚州ようしゅう牧となり、且つ、豫章よしょう郡より彭城ほうじょう郡を中心とした十郡に転封、その地をそう国とし、九錫の礼を授けよう。併せて璽綬 遠遊冠を与える。その地位を諸侯諸王のさらに上とし、相國の役割を受け取られよ」


 宋國に侍中、黃門侍郎、尚書左丞、郎を設置し、大使を従え奉迎した。


 西秦の乞伏熾槃が遣使、劉裕の後秦討伐への助力を願い出た。

 平西將軍、河南公の地位を授けた。


 十三年正月、劉裕は船にて彭城を進発。彭城公・劉義隆に彭城の守りを任せた。

 軍が留城に至ると、張良廟を詣でた。


 安帝は劉裕の祖父に太常を、父に左光祿大夫を追贈しようと諮ったが、固譲した。


 二月、冠軍將軍・檀道濟らが潼關に到着した。

 三月、大軍が黄河周辺に陣を布いた。北魏の步騎十万が対岸に同じく陣を張った。劉裕は諸軍に命じ、黄河を渡り、北魏軍を撃破した。

 劉裕は洛陽に到着。更に七月、陝城に到着した。

 龍驤將軍・王鎮惡は木を伐採して船を建造。黄河より渭水を進んだ。八月、藍田にて扶風太守・沈田子が姚泓を大破した。王鎮惡は長安を落とすと、姚泓を捕えた。

 九月には劉裕も長安に到着した。長安は大きな戦火に遭うこともなく、藏には宝物が盈積していた。劉裕はこれらを接収すると、重大な祭器等は建康へと献上した。それ以外の珍宝珠玉は配下武将に分配した。

 姚泓は建康に送られ、市中で斬られた。

 劉裕は漢高帝・劉邦の陵墓を詣でたのち、未央殿にて文武百官との宴を開いた。

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