宋書武帝紀10 京邑失陥

 十月、安帝より王位進爵を諮る詔が下った。


 十一月前將軍・劉穆之が死去。前軍左司馬・徐羨之が職務を引き継いだ。重大な案件についてはほぼ全てが劉穆之の決済に委ねられていた。劉裕は長安を足がかりとして北魏を征討する心積もりであったが、劉穆之の訃報を受け、急遽帰途についた。

 十二月長安を発つと、桂陽公・劉義真を安西將軍、雍州刺史とし、また腹心らを補佐につけた。洛陽より船に乗り、黄河、開汴渠を伝って建康に戻った。


 十四年正月、劉裕は彭城に到着すると暫しの休息を取った。輔國將軍・劉遵考に并州刺史、河東太守の座を与え、蒲坂を守らせた。劉裕は司州刺史の座を解任し、徐、冀二州刺史となった。進爵は固譲した。


 六月、相國宋公として九錫を与える旨の勅が下った。


「朕の愚昧により、畏れ多くも拝受した宗祖よりのこの国の大業にの時代の羿げいのごとき男、桓玄かんげんに乗っ取られる隙を与え、一度この王室を転覆させてしまった。そしてこの身も南のかたに移された。しん室をまつる祭祀も絶え、祖霊たちは神としての立場を失い、悪人どもに引きずり回され、長江のほとりで命を長らえるのみであった。祖先より承ってきた業の光輝なるを地の果てへとおとしめ、その思いはさながら深淵のそばを恐る恐る歩むかのよう。一体どうすれば、この苦境より脱出できるのか。そのようにばかり、考えていた。

 しかし、天は晋を見放してはおらず、新たに晋室を補佐するに値する英傑、劉裕りゅうゆう殿を育てておられた。そして英傑により帝室は再建された。暗闇に、再び明かりが差し込まれたのだ。晋室再建の元勲は徳の至りであり、朕はまこと元勲殿を頼りにしている。

 ここに、公へ典策を授けたく思う。謹んで聞き入れられよ。

 桓玄が簒奪の大逆をなし、国家を転覆させた。これによって国の秩序は粉砕され、官僚は眉をひそめ、庶民で嘆かぬ者はなかった。公の精は朝日をも貫き、公の気は銀河をも凌がん勢い。その霊武にて、あまたなす悪を打ち払われた。こうして晋室は蘇り、公は天帝を奉じ、国の祖霊をも祀り直された。これぞ公の大業、王者の歩みの始まりであったと言えよう。

 建康けんこうを取り戻した後、長江ちょうこうを遡上し、崢嶸洲そうえいしゅう江陵こうりょう桓玄かんげんを破り、その首級を挙げ、謀反者らを平らげた。三人の英雄が国体の祭祀者を奪還したわけであるが、これもそもそもは、公の手柄であろう。

 いざ宮城入りすれば、広く我が政を助け、宮城の資産を用い、庶民らの生活を改善された。民の戸籍が明らかとなるにより、税収もまたうるおい、国土も栄えた。信賞必罰の徹底により、国内の風紀もまた粛然とした。これもまた、公の功績である。

 鮮卑せんぴどもがおのが兵力を頼みとし、青州せいしゅう近郊にて我が物顔で振る舞い、地域の民が虐げられ続けていた。そこへ公は軍資を背負い遠征、広固こうこ城を包囲、鮮卑を撃滅。中でもより罪深き首謀者どもに厳格なる裁きをくだされ、三千里四方の地を、見事解放された。これもまた公の功績である。

 凶賊盧循ろじゅん番禺ばんうより公の不在を狙い、攻め上れば、たちまち各地は凶賊の害を被った。各地で将軍たちが打ち破られ、その矢はついに王城にまで届かんばかりの勢い。誰しもが凶賊の前に打ちひしがれ、宮中では遷都すべきではないか、とまで囁かれていた。しかし公は神速にて北土より帰還され、その断固たる意志で撃滅を表明、そして見事打ち払われたこと、まこと英略の極みであられた。凶賊共はたちまち尻尾を巻いて逃げ出したわけであるが、その直前までの絶望からの逆転、まさに公の功績、というべきである。

 劉毅りゅうきが反旗を翻し、荊州けいしゅうに盤踞。お国や帝を軽んじる態度に出、横暴の限りを尽くすようになった。そして仲間を引き立て、建康けんこうに牽制してくる。公は電光石火のごとく打って出られ、たちまちにこの者を処罰された。こうして荊州は清められた。これもまた公の功績である。

 譙縱しょうじゅうが一地方の緩みを突き、益州えきしゅうの統治を紊乱した。公は配下将に命じ、また素晴らしき作戦をも授け、水軍でもって成都せいとにまで進まれた。譙縱はたちまち刑に伏され、益州にも公の威風が及ぶに至った。まこと、公の功績と言えよう。

 司馬休之しばきゅうし魯宗之ろそうしの両名が兵力を頼みに結託し反乱。公はすぐさま打倒に決起され、戦略をお立てになった。長江ちょうこうを進む軍の勢いは、風や雷すら超えるものであった。沔水べんすいにもまた翻された旗はふたりを追い払うことに成功。荊州雍州ようしゅうは平穏を取り戻した。河川は恵みを取り戻し、暖かな風が吹き付けられた。これもまた、公の功績である。

 永嘉えいかの乱にてなすすべもなく破られ、蛮族どもが中原を荒らし回った。五つの都は荒らされ、先祖代々の墓は陵辱を受けた。先祖の霊は住処を荒らさて怒り、残された民は救いを望んだ。公は、遠くはいん伊尹いいんのごとき民の苦しみへの憐れみを抱かれ、また近くにはせい桓公かんこうが味わった滅亡に陥る屈辱をも存じていた。かくて旧都奪回の軍を立ち上げられ、意気盛んに出陣された。先遣隊に司州ししゅう兗州えんしゅうを進ませれば、きょていきょう洛陽らくようの各地は即、降伏。洛陽にはびこっていた蛮族も帰順し、その罪を乞うてきた。蛮族の蹂躙による百年の汚辱が一日にして掃き清められた。まこと、公の功績である。

 公は天下を収めた功により、明徳持てる重鎮としての存在感を示された。その歩んできた軌跡には古今類を見ぬ妙計奇計があり、恐るべき凶賊を討ち果たしてきたその武威に立ち向かえる者などおらぬ。かくしてこの江東の地を安んじ、庶民の身から上り詰められた。そうしてずさんな政府の財政を再び潤沢なるものとし、危うきより我が身を助け、また多くの争乱を鎮められ、この国の道筋をお固めになった。朝廷内に秩序をもたらし、煩瑣苛烈なるルールを撤廃し、法令には一本筋の通った基準がもたらされた。整えられた芳醇なる風紀は、この天下にあまねく満ちた。ゆえにこそ秘境の蛮夷は珍宝を献上し、辺境の胡族も朝貢をなしてきた。この国の威風が、あまねく行き渡った証である。王や、初めて法律を作ったとされる皋繇こうようですら、ここまでの規律は生み出せなかったことであろう。

 朕は聞いている。過去、王たちが世を司るに、勲貴を抱え、賢者を抱え、諸侯には封爵地を授け、また彼らの栄誉をよく称えたという。これにより彼らは帝の家を助け、藩屏として長く栄えたのだ、と。このため国土は拡大し、また荒れ地も人々の住まう地へと変わっていった、と。

 思い出すのは、東周とうしゅう襄王じょうおうである。王は一度王の座を追われかけたが、しん文公ぶんこうの功績により、王位を守ることが叶った。そして王は、文公に大いなる栄誉を授けたものである。思えば、公の功績は万古にも類を見ないものであるのに、それを讃えるだけの顕彰をなせておれずにいた。これは朕の不明であるとしか言えぬ。

 そこで公には相国の地位を授け、また十郡を宋国そうこくとし、公の新たな封地とする。十郡とはすなわち彭城ほうじょうはい蘭陵らんりょう下邳かひ淮陽わいよう山陽さんよう廣陵こうりょう(以上徐州)、高平こうへい泰山たいざん(以上兗州) である。これらの地を公の徳で輝かせ、公の住まう地として定め、先祖代々の墓地、霊廟を建てられよ。

 昔、しん公やてい公は封土を得つつもしゅう王の下に馳せ参じ、扶翼した。周公旦しゅうこうたん邵公奭しょうこうせきは周王の弟であるが、周の地、邵の地を統べた。公はこれら内外を統べる重責を、一手に司ってこられた。いま、袁湛えんたん范泰はんたいに命じ、相國の印綬と宋公の璽紱、宋の地の祭壇に盛るべき土、金虎符の左半分を第一~第五、竹使符の左半分を第一~第十まで持たせた。相国とは全ての者を統べるべき地位。その扱いは他の朝臣とは隔絶する。常日頃より、朕の政務にともに与っていただきたい。

 相国位にて万民を統べるのであるから、錄尚書号は重複するため、省く。併せて假節、侍中の貂蟬、中外都督、太傅、太尉の印綬、豫章よしょう公の印策についても返却されよ。位を揚州ようしゅう牧に進め、征西將軍を兼務、北徐きたじょようの四州刺史は現状のままとする。

 公が定めたルール、儀礼は万国が従うところ。皆がそれに則り、違えることもない。よって公には馬車と戦車一台ずつと、黒毛の牡牛四頭二組を賜う。

 公は末端を抑え、根本を重んぜられた。これによって収穫力は高まり、税収は改善された。よって公には天子の礼服および冕冠と、併せて赤き靴を賜う。

 公は悪しきを鎮め正しきを納め、風俗を改善された。こうして治まった天下は、調和の取れた音楽のごとし。よって公には、天子にのみ許された音楽、六名六列の舞踊団を賜う。

 公は天下に王の徳を広め、幸いの風を吹かせた。国内外の者はひざまずき、遠くよりも人がこぞり来た。よって公には、朱塗りの門を賜う。

 公は政府を有能なものに任せ、隠れていた問題、滞っていた問題を解消して回られた。遠方の地、片田舎にも有能な者が配されることになった。よって公には天子の座にも特段の許可無しに登壇しても構わぬ権利を賜う。

 公は政権の中枢において義を以て臣下を束ねられ、迫り来る外敵を討ち果たし、国内の病巣を取り除かれた。よって公には近衛兵三百を賜う。

 公は明確な基準によって罪を裁かれ、そこには一切の不公平もなかった。身命を賭して裁判に当たられ、悪人の跳梁を許されなかった。よって公には銀の斧と金の鉞一本ずつを賜う。

 公の天下を龍や鳳のごとく駆けること、遠方ですら近隣の地のごとくであった。ゆえにこそ天下をよく統制し、外国はあえて公と戦おうともせなんだ。よって公には朱塗りの弓を一と矢を百、黒塗りの弓を十と矢を千、賜う。

 公は温和にして恭しく、孝行者。先祖の祭祀も敬虔に行われる。その祖霊への忠義心は、万民をも教化するに足る。よって公には神酒をひと壺、併せて専用のひしゃくを賜う。

 公が統べる宋国には丞相以下、一通りの官職を晋と変わらずそろえるようにされよ。あぁ、なんとも敬服すべきお方よ。公が天命によく従われたからこそ、天も応えになったのであろう。常に国を、国民を思われ、敬意を、徳行をあらわとされた。これらを公に賜うことで、我が先祖もまた公をよく祝福してくださったことであろう」



 豫章公太夫人(張氏、出自不明、劉義符の生母)を宋公太妃となし、中軍將軍・劉義符には相國府の補佐役とさせた。太尉軍諮祭酒・孔靖を宋國尚書令と、青州刺史・檀祗を領軍將軍と、相國左長史・王弘を尚書僕射とした。またそれ以外の劉裕の配下についても、ほぼ晋の朝廷と変わらぬ形での配属がなされた。また宋國所封十郡外での任命権をも拝領した。


 安西中兵參軍・沈田子が、安西司馬・王鎮惡を殺した。

 この事件を起こした沈田子らは安西長史・王脩に殺された。

 にわかに関中の統率は乱れた。十月、劉裕は右將軍・朱齡石を劉義真に代わる雍州刺史として派遣した。劉義真が帰還しようとしたところに夏の赫連佛佛が強襲、劉義真は身一つで逃げねばならない有様だった。多くの将軍が、また朱齡石までもがこの強襲によって死んだ。

 いっぽう広陵では領軍将軍・檀祗が病死した。中軍司馬・檀道濟が檀祗の軍府を継承した。

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