宋書武帝紀8 晋室落日

 平西將軍にして荊州刺史の司馬休之は宗室として重んぜられており、江漢の人心を得ていた。

 劉裕は司馬休之に謀反の意図があるのではないかと疑った。司馬休之の息子(兄、司馬尚之に養子として出した)、譙王・司馬文思が建康で軽俠の徒と連れ立っていたので、劉裕は司馬文思を捕え、司馬休之の元へ送り込んだ。この不逞の息子を裁け、という事である。司馬休之は司馬文思の譙王位を廃し、庶人に落とすことを表明、併せて劉裕に陳謝の文を送った。

 十一年一月、劉裕は司馬之の子、司馬文寶、および甥の司馬文祖を捕え処刑、そして司馬休之討伐の軍を起こした。改めて黃鉞を授かり、荊州刺史の地位を拝領した。建康を出発すると、中軍將軍の劉道憐に都の処務を任せた。


 劉裕のこの動きに対し、司馬休之は以下のように訴えた。


「常々聞き及んでおりました。治と乱とは常に入れ替わるものである、と。とは申せど、禍がひとたび起こったとしても、驍勇がおればそれを制することも叶うものでございます。

 過日に発生いたしました篡臣・桓玄による肆逆。ひとたびこそ皇綱が断ち切れ掛けましたものの、そのまま楚の世とはならず、改めて晋の威光は盛んなものとなりました。

 太尉・劉裕どのは威武明斷、義旗を翻され、桓玄めを滅ぼし、陛下を無事お連れ戻しになりました。微賤の出でありながらも社稷を復せしめたこと、南では盧循を討伐し、北では南燕を攻め滅ぼしたこと。これらはこの千年を見渡しても並ぶことのない壮挙であります。その働きによって国土は美しさを取り戻し、朝廷は再び人々からの尊敬を勝ち得た、とは申せましょう。

 しかるに位人臣を極め、権勢を一手に握った今、かの者は驕りたかぶり始めたようにございます。自らに与える酬賞の極まりたること、己より上の者などおらぬかのような有様でございますし、また刑戮も恣意的に執り行い、自らの意に染まぬ多くの者ものを次々と葬り去りました。

 そこに晋を奉じる気持ちはあるのでしょうか。人臣としての礼に欠けている、とは申せませんでしょうか。

 陛下に供される膳御にも事欠く有様、御身周りの諸費も十分の一以下に削られた、と聞き及びました。また皇后陛下御病気の際にも湯藥が手に入らず、側近が方々に駆け回られた、とも伺いました。皆朝廷に従事する者から聞いたことであり、傷懷憤歎せざる者はおりませんでしたが、劉裕どのに洩れればことでありますので、みな表立っては口を閉ざしておりました。

 前の揚州刺史・司馬元顯殿の第五男、司馬法興殿は、桓玄の専横から逃れるため亡命しておりましたが、晋室再興に当たって帰還いたしました。一度は絶え掛けた司馬元顕殿の系譜が再興となりましたこと、慶ばぬ者などいかほどおりましたでしょうか。

 しかしながら劉裕殿――いいえ、敢えてこう呼びましょう、逆臣・裕めは吞噬の心(呑み込む、乗っ取る、の意)をむき出しとし、司馬法興殿が聰敏明慧、民の心を集めかねないと見るや、表向きはその復帰を慶賀するよう振る舞いながらも内心では憎惡し、たちまち無実の罪を着せ、処刑してしまいました。大司馬・司馬德文様、および王妃公主の皆々様方もこの事態には大いに狼狽され、助命を乞いましたが叶いませんでした。

 劉裕めの行いはもはや禍毒と呼ぶべきものであり、到底許されるものではありません。その仕打ちの数々にて、私自身も胸を深く傷めずにおれません。

 また私めはいやしい立場にこそありますが、司馬德文様との縁戚を結ぶに至り、やはり劉裕めにとり邪魔者と見做されているようでございます。

 衞將軍・劉毅殿、右將軍・劉藩殿、前將軍・諸葛長民殿、尚書僕射・謝混殿、南蠻校尉・郗僧施殿。どなたも勳德盛んであり、社稷の輔弼に身を捧げて来られました。しかし無罪無辜であるにもかかわらず滅されました。劉裕が見せた猜忍の性の恐ろしさたるや、歴史を振り返りましてもそう見られたものではございません。

 私の家門は衰え、劉裕に頼らねばならなければなりませんでした。故に私はひたすら恭順の意を示して参ったつもりでございます。

 荊州刺史の地位につきましても、私には荷が重すぎるから、と再三の解任を願い出てまいりましたが、聞き入れられることはありませんでした。年老いた母やわずかの侍従とともに荊州へと出向き、それ以外の家族はみな建康にとどまらせておりました。

 我が兄の息子、司馬文思にいたしましても、若気の至りとでも申せましょうか、様々な者らと交遊を図るうちに風聞が広まり、不逞の者がらと連れ立っている、と話がねじ曲がって行ったにすぎません。

 劉裕は遂に人士を殺し、また私のもとに司馬文思を送り込んでまいりました。

 私はその意に従い、譙王の章節を返還、司馬文思を廃すよう請い、また譙王位を継がせるため息子の司馬文寶を建康に派遣いたしました。斯様に私めは平身低頭し、恭順の意を示し続けてきたのでございます。

 しかしながら劉裕めが私を見逃すことはございませんでした。司馬文思の些細な罪をさも大罪であるかのようにあげつらい、遂には討伐軍まで立ち上げた次第にございます。

 誰もが囁きあっております、仮に私めの振る舞いに手落ちがあったとしても、いくらなんでも不自然な成り行きなのではないか、と。

 私の府の司馬・張裕が慌てて東に帰ってゆきました。南平太守の檀範之もまた、今月の三日には突然叛意を表明、その軍も東に撤収しております。

 劉裕めの此度の行いは司馬氏宗族に対する翦滅の意の表れであり、その中で私めが最期の一人となったようなもので御座います。

 鎮北將軍・魯宗之殿、青州刺史・劉敬宣殿も劉裕のこの動きを深く憚っております。我々の殲滅が済んでしまえば、あとは天より日が沈むようなもの。およそ想像しうる最悪の事態がやってくることでしょう。

 今、荊州雍州の義徒は、特に呼びかけたというのでもなしに、私のところに多く集っております。

 私めは不才不徳の者に過ぎませんが、この晋室存続を願う気持ちはだれにも負けません。かくなる上は司馬文思を振武將軍に、魯宗之の子、竟陵太守・魯軌を輔國將軍につかせました。私と魯宗之殿とで大軍を率いて江津を出立、全軍をもって劉裕と対峙する所存でございます。

 滅ぼすべきは、ただ劉裕とその一族のみ。劉裕討伐ののちには速やかに軍を引く所存でございます。これ以上劉裕めのを許すわけにはまいりません。皇帝陛下にあられても、どうぞ奴めの意のままでおられませぬよう。」



 司馬休之の部下に、府錄事參軍・韓延之と言う人がいた。その才覚は劉裕の聞き及ぶところでもあったため、劉裕は出撃より前に韓延之に向けて密書をしたためた。


「司馬文思の無法はだれもが知っている事である。昨秋にかの者を司馬休之へと送り付けたのは、処刑せよ、という事であった。しかるに司馬休之の処置は極めて生ぬるいものであった。そのような軽微な処罰では世に示しがつかぬ。

 これより我らは陛下よりの命を賜り、司馬休之、文思らに厳正な処罰を下さねばならぬ。荊州に住まう者らを罪に問う、わけではないのだ。往年の郗僧施、謝邵、任集之らへの処罰については、劉毅を謀主に担ぎ上げ、謀反を起こそうとしたからに他ならぬ。

 そなたらにも軍を差し向けるような形になってしまってはいるが、そもそもそなたらには何の落ち度もない。我は分け隔てなく、多くの者を迎え入れたいと思っている。此度は正しき主に仕えるにあたっての好機である。干戈を交えるようなことにでもなって、そなたの麗才を失うのは惜しい。同胞とともに、投降せよ。」



 これに対し、韓延之は以下のように応じた。



「劉公の此度の遠征につきまして、近辺の士庶はだれもが怯えております。この遠征の理由がわからぬからです。文を頂戴いたしまして、司馬文思様の件によると知り、深く嘆息いたしました。

 司馬休之様は晋室に深く忠誠を尽くし、また配下の者ものらをよく慰撫なされます。そのありさまは、まさにいにしえの賢人がごとくでございます。劉公の晋室復興の功にも深く感じ入っておられておられました。司馬文思様の微罪に対する弾劾に接しても、まずは御自らが辞任を申し出られたほどでございます。そのような方が大過を犯されて、果たして平然としておられるでしょうか。

 司馬康之様のお言葉に要領を得ぬ点があったため、使者をお遣わせになりましたが、回答を得る前には司馬文思様をお廃しになりました。これは不忠者の行いと言えますでしょうか。いかなる不足があれば、兵が差し向けられるに至るのか、私にはまるで見当が付きません。

 桓玄打倒以来、晋室諸臣はまずは劉公に諮ったのちに天子へと上表してまいりました。司馬文思様が劉公よりの責めを受けて、譙王位を廃された件につきましても、まさにこの手続きにの取ったことではありませんでしたか。これでは、罪を着せる事が目的となっているようにしか見えません。

 劉裕足下。最早あなたの下心は誰の目からも明らかになっております。その上でなお、こうして国士を誑かして回っておられるのですか。このようなやり口、果たしてどれだけの者が受け入れられるのでしょう。

 先の書に、足下は「分け隔てなく、多くの者を受け容れたい」と書かれておられましたね。今まさにわが主を打たんとしているにもかかわらず、この私に向けては甘言を囁かれる。なるほど、確かにその手段はなりふり構わぬもので御座いますね。

 劉藩を閶闔の内に殺し、諸葛長民をその左右の手で処分なされた。甘言で誑かし、油断したところを斬り殺される、このような手口をしばしば取られる足下に、諸侯は表向きこそ従いましょうが、内心では常にいつ処分を受けるかがわからず恐れ、またそのような自分を恥じている事でしょう。足下の部下たち、また朝廷におられる賢德の方々も、どれだけ足下に心底の忠誠を誓っているのでしょうか。

 私は拙劣の身なれど、君子の道についてはわきまえているつもりでございます。司馬休之様は至德のお方。私は命を擲ってでも、司馬休之様にお仕えする所存です。足下と言う濁流が我らを押し流すことになろうとも、その点はゆるぎないとお考え下さい。」



 劉裕は韓延之の手紙を読むなり歎息し、

「これぞまさに人に仕えるものの気概だな」

 と周囲の人間に示した。



 三月、劉裕の軍は江陵に到着した。雍州刺史・魯宗之は劉裕に同調ができないという事で司馬休之についた。その為魯宗之の息子、竟陵太守・魯軌が同じく司馬休之軍として江陵に侵攻した。江夏太守・劉虔之は魯軌を討伐しようと出撃したが敗れ、殺された。

 劉裕は彭城內史・徐逵之と、その參軍・王允之に命じて夏口に派遣したが、やはり魯軌に敗れ、どちらも死んだ。

 このとき劉裕軍は馬頭に駐屯していたが、この日のうちに長江を渡河、また劉裕が自ら攻めようとすらしたため、誰もが我先に、と攻め上がった。

 司馬休之軍は大いに敗れ、魯軌らとともに襄陽まで撤退した。江陵は平定され、劉裕には南蠻校尉の官位が加えられた。



 佐史の鄭鮮之、褚裕之、王弘、傅亮は南蠻校尉叙任の日が不吉な日であるとして叙任式典を別の日にした方がよいのでは、と建議したが、劉裕は却下した。

「荊州の民は疲弊し、田畑は荒れ果てている。これ以上荊州雍州の民を酷使するのは忍びない」

 と表明した。



 四月、劉裕は改めて襄陽に進攻した。

 司馬休之は後秦に出奔した。

 安帝は劉裕に改めて昇進の打診をした。太傅、揚州牧。劍履上殿、入朝不趨、贊拜不名、前部羽葆、鼓吹,置左右長史、司馬、從事中郎四人の各特権を示された。また劉義隆を北彭城縣公に封じた。中軍將軍・劉道憐を荊州刺史に任命した。

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