宋書武帝紀7 綱紀粛正
この当時、諸州郡からの中央への人材推挙制度、いわゆる秀才、孝廉が形骸化していた。劉裕は安帝に上疎し、旧制の有実化のため、試験を復活させた。
征西將軍、荊州刺史・劉道規が病を得、帰還を乞うてきた。
義熙八年四月、劉道規に改めて豫州刺史の任を与えて帰還させ、代任として後將軍、豫州刺史・劉毅を派遣することになった。
劉毅は劉裕とともに桓玄打倒の軍を立ち上げ、晋室を復興させた同志である。自身では京口、廣陵での功績は劉裕に並ぶものである、と主張していた。大権こそ劉裕に委ねていたものの、内心では不服を抱えていた。
劉毅自身が雄才大志の者であり、またそのことに矜持も抱いていたので、朝廷では劉毅を主と仰ぐ者も多かった。尚書僕射・謝混、丹陽尹・郗僧施などはその代表格である。なので劉毅が荊州の州都・江陵へ赴任する際、豫州府での属僚であった者たちが多く随行を希望した。また劉毅派郗僧施を南蠻校尉の任につけるよう要請してきた。
もはや劉毅は劉裕の下についている事に我慢がならなくなり、ひそかに叛乱の計画を企てていた。劉毅は江陵に到着すると病が篤くなったと称し、從弟の兗州刺史・劉藩を補佐につけるよう申請した。
劉裕は表向きは受け入れるように装い、九月に劉藩が入朝すると、劉藩と謝混を捕えて獄につなげ、共に殺した。そして劉毅征伐を表明した。黃鉞を拝領し、諸軍を率いて西征に出た。
司馬休之をへ平西將軍、荊州刺史に任命し、兗州刺史・劉道憐を建康に鎮させ、豫州刺史・諸葛長民を太尉府の監督に充てた。また太尉府には太尉司馬、丹陽尹・劉穆之も併せて建威將軍として赴任させ、後事の監督を命じた。
參軍・王鎮惡、龍驤將軍・蒯恩を前峰として出撃し、江陵を襲撃した。
十月、王鎮惡が江陵を陥落させ、劉毅およびその郎党はみな誅された。
十一月、劉裕は江陵に到着すると、荊州のうち十郡を湘州として分割、劉裕がその監督に当たった。また西陽太守・朱齡石を益州刺史に任じ、蜀討伐の総帥とした。劉裕は太傅となり、また揚州牧、羽葆鼓吹、班劍二十人が加えられた。また以下のような表明文を発表している。
「悪弊を払拭し、民を助けるには、何よりも寛大な心が求められよう。様々なしがらみを捨て去り、秩序を修復させれば、煩瑣なルールもシンプルなものとなろう。
これまでに受けたダメージを、簡単に補填はしきれまい。苛斂誅求なる課税があった上、政府はまともに機能しなかった。この地を取り仕切っていたものは、あるいは才覚いたらず、あるいは身を慎むこともせずに、私欲を満たしていたやも知れぬ。我々はダラダラと、この状態を改められずにあった。ここ最近でも、兵役による労働人口の吸い上げが、この二州には為されていた。こうして初めてこの地に踏み入り、いよいよ諸君らの苦しむ様子を見、限り速やかに救いたいと思った。諸君らを苦境より救いたいのだ。
租税や労役については、全て各家庭の状況に合わせて調整。州内各所に存在する開墾地や水利にまつわる各所は、軍事利用に資するものでもない。これまで各地に上がる利益は役人に回っていたことと思うが、これらをすべて撤廃する。各地に配置する官吏については、改めて尚書省の調査に基づき再配置。中央が25日後に予定していた木材、22日後予定していた皮毛の徴収は、一旦取りやめとし、納付量を見直す。
義熙九年二月、劉裕は江陵から建康に向け出発した。
ところでこの頃、諸葛長民は貪淫驕橫の限りを尽くしており、士民を苦しめていた。これまで劉裕は、諸葛長民が義旗の同志であったこともあり、その振る舞いを見逃してきていた。ところが劉毅が滅ぼされたことにより、諸葛長民は近親者に漏らしていた。
「昔は彭越が塩漬けにされ、今年には韓信が誅された。次が俺でないという保証はどこにもない」
そして乱の計画を練った。劉裕も諸葛長民討伐の意を固めて建康に向かったが、長江の流れに阻まれてうまく進むことができなかった。諸葛長民は新亭の港で数日間、部下を連れて劉裕を待ったが到着しない。
その頃劉裕は軽船を駆って、内密に東府城に帰還していた。
諸葛長民は慌てて東府城に向かった。劉裕は諸葛長民の顔を見ると人払いし、しばし語らい合った。諸葛長民は普段よりの不満を思うさま劉裕に打ち明け、それらが聞き遂げられたことに喜んだ。
このときすでに壯士・丁旿らがカーテンの後ろに隠れており、長民が油断したところに襲い掛かり、床に組み伏せた。そのまま、殴り殺された。死体は廷尉に運ばれた。併せて弟、諸葛黎民も誅した。丁旿は驍勇剛力の者である,時の人は、口々に
「あまり悪さをするなよ、後ろには丁旿がいるぞ」
と囁き合った。
予てより山湖川澤の類は豪強の私有地のような扱いであった。庶民らは薪を採ろうが漁に勤しもうが、みな税として巻き上げられてしまうようなありさまだった。このような事態を食い止めたいと思い、劉裕は上表した。
「臣は聞いております。古代の帝王は、中国を九州に区画され、人民らをその土地に定着させたと。いにしえの徳盛んなる時代、人々は己の仕事を変えずにおりました。故に井田の土地制度が
しかし、あれからすでに五十年、かの現住地主義の方針はまたまた次第に崩れ出し、在来の江南人のあいだに流寓者が複雑にいりくんでいるために、人民の統治は
収拾がつかぬありさまにございます。政治が一向すっきりせず、人民の不満があいかわらず軽減しない原因は、ここにあります。王朝の大権を拝命している私といたしましては、かかる事態を憂慮せざるを得ません。抜本的対策を施さぬ限り、解決は難しいと察せられます。
人とはとかく、ひとところに留まり居りたいもの。
いま、流寓とされた者たちも世代を重ね、先祖代々の墓も、この地にございます。ならば彼らの思慕は、北地の奪回の先にはございません。
伏して拝察いたしまするに、陛下が万民を思われ、また彼らの喪失を憐れまれたのは、長らく詩経「
ここにおいて土斷が改めて施行された。ただし徐、兗、青三州に住む晉陵郡に本籍のある者は例外とされた。これまであった喬県制度は廃止され、江南の土地区画に吸収された。
劉裕に鎮西將軍、豫州刺史の地位が加えられた。太傅、州牧及班劍については固譲し、黃鉞を返却した。
七月、朱齡石が蜀を平定、蜀王譙縱を斬り、その首を建康に持ち帰った。
九月,劉裕の次男、劉義真が桂陽縣公に封じられた。南燕討伐、盧循征伐の功である。安帝は劉裕にも太傅、揚州牧,加羽葆、鼓吹、班劍二十人を授けることを打診した。劉裕は羽葆、鼓吹、班劍は受けたが、他は固辞した。
義熙十年、民の労役を軽くした。東府城を再建し、府舍を立ち上げた。
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