宋書武帝紀6 盧循誅滅

 七月、五斗米道軍は蔡洲より南下し尋陽を占拠した。

 劉裕は輔國將軍・王懿、廣川太守・劉鍾、河間太守・蒯恩を派遣し、追撃させた。

 劉裕は東府城にもどり、水軍編成に取り掛かった。帆柱が幾つも立つ、高さ二十メートルほどもの高さの船ばかりである。

 盧循は荀林に江陵を攻撃させた。いっぽう桓玄の残党である桓謙が、先に江陵より後秦に逃亡し、更にそこから蜀入りし、譙縱によって荊州刺史に任命されていた。桓謙及び譙縦の息子、譙道福が二万の軍を率い江陵を襲撃、荀林と合流して百里ほど離れた。

 荊州刺史・劉道規は枝江で桓謙を斬り、江津で荀林を破り、追撃の上竹町にて斬った。


 劉裕は盧循が江陵に攻撃を仕掛けるであろうと考え、淮陵內史・索邈に陸路からの援軍を率いさせていた。また建威將軍・孫處には兵三千にて、海伝いに番禺を襲撃させた。

 江州刺史・庾悅が五畝嶠にまでやってくると、五斗米道軍千人あまりが五畝嶠を占拠し、道を塞いでいた。庾悅は鄱陽太守・虞丘進に攻めさせ、これを破った。

 劉裕は大々的な練兵ののち、十月には兗州刺史・劉藩、寧朔將軍・檀韶らを率いて水軍を率い、南伐に出た。

 後將軍・劉毅に太尉府に就かせ、後事をすべて委ねた。



 同じく十月、徐道覆は三万の兵力で江陵に攻撃を仕掛けた。荊州刺史・劉道規はこれをまた大いに破り、一万余もの首級を挙げた。徐道覆は盆口に逃げ帰った。

 この頃劉裕が派遣した索邈は五斗米道軍の退路を遮断していた。盧循が東に向かってより江陵と建康の間は遮断されており、伝者はみな建康は落ちた、と伝えていた。しかし索邈が姿を現したのを見て、盧循が建康攻撃に失敗したのだと悟った。


 盧循は蔡洲より南方に向け逃れようとした時、側近の范崇民に兵五千、高艦百余りを与え、南陵に駐屯させた。王懿らがこれらに攻撃を仕掛け、十一月には范崇民の軍を大いに破った。舟艦を焼き、逃散した兵卒を捕えた。



 五斗米道の軍の内廣州を守っていた兵らは、海伝いの攻撃に対して警戒をしていなかった。

 十一月、建威將軍・孫處が到着し、攻撃を仕掛けた。城の防備は整ってこそいたが、兵力はほんの数千ほどである。孫處は五斗米道軍の船を焼き、上陸の上四面より攻撃を仕掛け、その日の内には城を落とした。

 盧循の父は輕舟で始興に逃れた。

 孫處は兵士や民についてはあくまで慰撫し、幹部たちのみ処断した。

 なお孫處の海伝いの派兵について、人々は海伝いは遠すぎるので成果は望めないのではないか、しかも敢えて兵力を二分三分する必要なのではないか、と反対した。劉裕は従わず、孫處に宛てて

「十二月までに、奴らはほぼ壊滅しているだろう。お前がこのとき広州に到着していて、奴らの根城を叩いてさえいれば、奴らの逃げ帰る先がなくなるわけだ」

 と告げた。孫處は劉裕のこの企図を見事に実現したわけである。



 盧循は船団を再編成し、晋軍よりの攻撃に備えた。劉裕は長期戦を想定し、雷池に駐屯した。五斗米道軍は雷池に向け牽制こそ仕掛けてきたものの、流れに乗じて下ろうとした。

 劉裕は五斗米道側の応戦の意図に気付き、万が一の敗北にも備えて、王懿に水艦二百で吉陽を封鎖させた。

 十二月、盧循と徐道覆は数万の兵を率い、攻めてきた。前後はほぼ密着の状態、ともすれば船同士が接触してもおかしくないほどである。劉裕は軽利闘艦を悉く出撃させ、自ら号令をかけた。そのため晋軍の士気はいや増した。

 また西岸には歩兵騎兵を配備した。右軍參軍・庾樂生は船に乗りながらも進撃しようとしなかったので、斬って従わせた。そのことを知った晋軍は我先にと攻撃に参加した。

 軍中には多くの萬鈞神弩があり、あらゆる箇所で五斗米道の艦に損害を与えた。劉裕は川の流れ、風を利用して五斗米道軍に接近し、五斗米道の軍を西岸に追い詰めた。岸上の軍には火攻めの用意がなされており、船は焼かれ、その煙は空一杯に立ち込めた。五斗米道軍はほうほうの態で、夜のうちに逃亡した。

 盧循らは尋陽に逃げ込んだ。

 ところではじめ西岸に派遣された部隊は、劉裕の命令の意図がつかめず疑念にとらわれていた。しかし五斗米道の船を大いに焼いた後には意図を知り、大いに喜んだ。

 王懿を召喚すると追撃の先鋒に指名した。輔國將軍・孟懷玉を雷池の守りに任じた。盧循は晋軍が攻め上がってきたのを聞くと、豫章に逃げようとした。左里に防備柵が設置し、備えとした。

 いよいよ決戦、というときに、劉裕の陣の旗が折れ、河中に沈む、と言う事があった。人々は凶兆だと恐れたが、劉裕は笑って

「往年の桓玄戦、覆舟山でも同じようなことがあった。今また同じことがあったのだ、これは賊どもが敗れる、と言う事さ」

 と告げた。

 戦いが始まると、盧遁の兵は死も恐れず全力で立ち向かいはしたものの、およそ敵うものではなかった。諸軍は勝ちに乗じて追撃、盧循は身ひとつ船ひとつで逃げた。およそ一万人余りが川に投げ出されて死んだ。また多くの者が投降した。

 劉裕は劉藩、孟懷玉に足回りの速い水軍を任せ、追撃させた。

 盧循は散り散りになった軍勢を回収し、それでも数千人規模までには立て直すことができた。廣州へと撤退する道すがら、徐道覆は始興に戻り、防備に当たった。

 劉裕は左里より引き返した。

 安帝は侍中、黃門を派遣し、帰途にて兵士らをねぎらった。



 義熙七年正月、劉裕は建康に帰還した。

 改めて大將軍、揚州牧、給班劍二十人が打診され、元々の官職はそのまま保持、と言う運びとなったが、すべて固辞した。

 南燕戦、五斗米道戦での戦没者を並べて特進させた。遺体の見つからなかった者の家については神官を派遣し、招霊の儀式を執り行った。


 二月、盧循は番禺にて孫處に破られた。盧循は残党をかき集め、更に南へ逃れた。劉藩、孟懷玉は徐道覆を始興で斬った。



 晋が建康に逃れて以来、治綱は大いに弛み、門閥貴族らが台頭し、弱きは強きにより押さえつけられ、多くの家族が流亡の憂き目に遭い、まともな産業も為せないありさまだった。

 桓玄はこのありさまを正そうとしたが為し得なかった。劉裕が晋国内で実権を握ってからはそのありさまが正され、多くの既得権益者から権勢を剥奪した。會稽・餘姚の虞亮はこうして行き場を失った亡命者千人余りを匿っていた。劉裕は虞亮を誅し、併せて會稽內史の司馬休之を秘匿を見逃していた咎により免職させた。



 安帝は先日の昇進要請を再び持ち掛けたが、劉裕はまたも固辞した。そこで太尉、中書監昇進の打診が持ちかけられたので、これは受諾した。黃鉞を返却し、冀州刺史の地位が解任となった。



 交州刺史・杜慧度が盧循を斬り、その首を建康に送った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る