宋書武帝紀5 五斗米道

 劉裕が北伐をしている期間を、徐道覆は好機だと考えていた。盧循にその隙を突くべきと説いていたが、盧循は従わなかった。そこで徐道覆は番禺に出向いて盧循に

「我らは今僻地におり、劉裕の警戒網から逃れ得ています。そして建康からは今、わずかな期間ではありますが、劉裕が出払っております。そこで死士を動員し、何無忌、劉裕の軍を強襲すべきと考えております。この機会を逃せば、燕滅亡ののち一、二年もたたず、劉裕は我らを討伐するための軍を起こしてくるでしょう。劉裕が自ら指揮を執って豫章より嶺を通過し、ここまで攻め込んできてしまえば、もはや盧循様の神武をもっても敵うものではありますまい。この機を逃すわけにはまいりません。今のうちに建康を落としてしまえば、本拠地を失った劉裕に何ほどのことができましょう」

 と説いた。盧循はこの言葉に従い、兵を率いて嶺を通過した。

 そしてこの月、南康、廬陵、豫章に侵攻した。諸郡守は皆逃げ去った。

 南燕征伐の報が建康に届くや届かぬやの間に、劉裕の元に盧循強襲の報が届いた。劉裕は南燕征討後一旦下邳に滞在したのち後秦を討つ心積りであったが、急報を受け、即建康に取って返した。



 鎮南將軍・何無忌と徐道覆が豫章で戦った。

 何無忌は敗死した。国内は震駭した。

 朝廷では安帝を奉じて北方に逃亡、劉裕の元に身を寄せるべきと言う意見も持ち上がったが、すぐには五斗米道の軍勢が建康にまで至るわけでない事を知ると、人々は一安心した。

 劉裕は下邳に至ると、輜重は船で運搬させ、精鋭を選抜して陸路にて建康に向け急行した。山陽に至って何無忌が殺されたことを聞き、これはもしや建康も落ちているのではないかと憂慮し、鎧も脱ぎ捨てて行軍の速度を速めたが、わずか数十人の伴とともに淮水にて旅人と出会い、建康の状況を聞くことができた。

 その人は

「五斗米道の軍はまだ到着しておりません、劉公が帰還さえできれば、憂いはなくなるでしょう」

 と語った。劉裕は大いに喜び、一隻の船にて京口に帰還した。人々は劉裕の帰還を聞き、大いに安堵した。

 四月、劉裕は建康入りし、ようやく一息つくことができた。



 撫軍將軍・劉毅が五斗米道征伐のため南征したいと願い出た。劉裕は劉毅に対し

「俺は何度か奴らと戦ったことがあるから、奴らのことはよく知っている。ただでさえ手強かったのに加え、どうにも更に勢力を増しているようなのだ。決して軽んじることのないように。備えを厳重に整えた上で、道規と共にことに当たるべきである」

 と指示を出し、また劉毅のいとこ劉藩を派遣して制止をかけようとした。劉毅は劉裕の言を聞かず二万の水軍を率いて姑孰より進軍を開始した。

 盧循は進軍を開始すると、手始めに徐道覆を尋陽に向かわせ、自らは湘州の諸郡を攻撃した。荊州刺史・劉道規は長沙に軍を差し向けたが、盧循に敗れた。盧循は巴陵を経て江陵に向かおうとした。徐道覆は劉毅の軍が迫ってきたと聞くと盧循に報告の文を飛ばした。

「劉毅の兵は非常に強力です。この戦の勝敗が今後の局面に大いに関わって参ります、共にこれに当たりましょう。ここさえ乗り越えてしまえば、盧循様の天下はすぐそこです。不服かとは思いますが、どうかこの要請だけはお聞き遂げ下さいますように」

 盧循はこの知らせを受け、即座に巴陵を発ち,徐道覆と合流した。五斗米道軍には帆が九枚、内部構造が四層、全高にして十二丈(約22メートル)と言う規模の船が8隻あった。

 劉裕は南方の敗報を受け、改めて建康周辺の軍を動員するための許可を求めたが、返答を聞かぬうちに動員の号令をかけた。五月、劉毅が桑落洲にて敗北、船を捨て陸路にて逃亡した。逃げ遅れた者は皆五斗米道軍に捕らえられた。



 盧循は尋陽に至った時、劉裕が帰還していたことを知らなかった。しかし劉毅を破って勝鬨を上げていたまさにその時に劉裕が戻ってきたことを聞き、周りにいた者共々顔色を失うのだった。

 盧循はいったん尋陽に退いて江陵を落とし、揚州荊州の二州に拠って晋に抗しようと考えた。一方で徐道覆はあくまで勝ちに乗じて進むべきであると主張し、お互いに譲らなかった。両者の議論は多日に及んだが、最終的には進軍、と言う事での一致を見た。


 劉毅の敗北は内外を洶擾させた。

 北伐軍が帰還したとは言っても、誰もが創痍疾病甚だしいありさまであった。建康で戦える戦士は数千名にも満たない。五斗米道は既に江州、豫州を破り、十余万もの兵力を擁し、最早その軍勢は百里もの近きにまで迫ってきていた。

 逃げ帰ってきた者たちは、誰もがその恐るべき強さを口にする。孟昶や諸葛長民は賊軍の接近を恐れ、安帝を奉じて北に逃れるべきと主張した。劉裕はそれらを一顧だにもせず、孟昶の再三の要請をも撥ね退けた。

「晋の重鎮らが散々に破られ、強敵がいよいよ迫っている、と言うこのとき、人々が危機を覚え、不安になるのは当然である。だがここで帝を逃がしてみろ、それこそ建康の秩序は崩壊し、たちまち長江一帯をすべて失陥することになるぞ。奴らとの決戦は、もはやこれ以上先延ばしにはできんのだ。今兵士が少ないとは言えども、それでもなお一戦を構えるには足る。ここさえ乗り切ってしまえば、誰もが安らうことができよう。この危地において、俺は死力を尽くして社稷を守らねばならん。死してもなお、その屍をもって廟門を護ってみせよう。我が身をもって許國の志を体現し、活路は何としてでも切り開いてみせる。我が決意を揺るがせにすることはできんのだ、もう君も、何も言ってくれるな!」

 その言葉を聞いても孟昶はなお恐れを抱いたままでいた。そして

「劉裕どのの北伐を皆が諫めたが、その中で臣だけが劉裕どのに行け、と告げた。故に五斗米道どもに付け入る隙を与えてしまったのだ。この社稷の危逼は臣の罪である。我が身をもって、天下に謝罪せねばならぬ」

 と表明の上、薬を仰ぎ、死んだ。


 建康において大いに義勇兵を募った。彼らを一度城内に集めると、石頭城へと集め、厳重な防備を固めた。このとき各港湾に守りを配備した方がいいのでは、と提案するものがあった。劉裕は

「賊軍は多、わが軍は寡。この状態で兵力を分散させでもすれば、我々の防備の手薄さを即見抜かれてしまうだろう。この状態で利を失えば、それは即全軍の士気にもかかわってくる。いったん全軍を石頭城に集め、状況に応じて各拠点に派遣する。賊軍もこちらの兵力を把握してはいないだろうが、どのみち今の兵力を大きく分けることはできない。奴らがこちらの守りを配していないところを攻めてきたら……、その時になって、考えるしかあるまい」

 と答えた。石頭城に駐屯すると、防護柵を構築させた。そしていよいよ盧循の軍が接近してきた。劉裕はひとりごちた。

「奴らがもし新亭を直進してきたら、もはやその勢いを止めることなぞできまい。できれば回避したいものだが、とは言え戦ごとは常に先が見えないもの。もし奴らが西岸で停泊さえしてくれれば、きっと奴らを捕らえられようにな」



 徐道覆は新亭、白石に停泊している船を焼き払ったうえで上陸しようと思っていた。盧循は優柔不断であり、何事に対しても万全を要求してきた。その上で、

「晋軍の軍容はいまだ整わず、聞けば孟昶も自殺したと言うではないか。多くの者が、晋軍の自壊も時間の問題だ、と言っている。今ここで敢えて決戦を急ぐのは常道とは言えない。多くの兵を死傷させることになるだろう。ここは持久戦の構えを取るに越したこともない」

 と指示を下してきた。

 このとき劉裕は石頭城から盧循の軍勢を眺め、はじめその矛先が新亭に向いたのを見て、顔色を失いかけた。しかし五斗米道軍は蔡洲に停泊した。徐道覆はそのまま溯上を求めたが、盧循がそれを禁じたのだ。

 これを好機と見た劉裕は軍勢を分け、越城を修繕し查浦、藥園、廷尉の各所に壘を築き、それぞれに防備の軍勢を出した。冠軍將軍・劉敬宣は北郊に。輔國將軍・孟懷玉は丹陽郡の西に。建武將軍・王懿は越城に。廣武將軍・劉懷默は建陽門の側に。寧朔將軍・索邈には鮮卑の具裝虎班突騎、千騎を与えた。それぞれに練五色を与えた。劉裕自身は淮北から新亭に移動した。

 五斗米道軍の威容に誰もが恐れ怯えたが、この頃には冀州、京邑、三吳からの応援が駆けつけていた。五斗米道軍は十余艦にて石頭柵を抜こうと試みたが、劉裕は神弩にて応撃、射撃のごとに大きく打撃を与えた。

 盧循は石頭への攻撃を諦めた。一方で南岸に伏兵を配しておき、病人老人の乗った船を白石に進めさせた。劉裕は警戒のため劉毅、諸葛長民を連れて白石へ急行した。參軍・徐赤特を南岸に駐屯させ、堅守の上持ち場を離れぬようにせよと厳命した。

 劉裕が立ち去ったところで五斗米道軍は查浦を焼き上陸、攻め上がった。徐赤特の軍は敗北し、数百余もの死者を出した。徐赤特は残存の兵らを捨てて、一人秦淮河を渡った。

 数万もの五斗米道軍は、ついに丹陽郡にまで押し寄せてきた。劉裕は諸軍を引き連れ、急ぎ帰還した。人々は五斗米道軍が建康に押し寄せることにおびえでいたが、しかし誰もが劉裕がその行く手を阻んでくれる、と励まし合っていた。

 劉裕は軍を一部分けて石頭に帰還させたが、誰もが疲労困憊の態だった。そこで装備を外させ、湯浴みをさせ、食事を与え、その上で改めて南塘に配備した。徐赤特は命令違反を為したと言う事で、斬った。

 參軍・褚叔度と朱齡石に命じ、千余人の選抜隊を編成、秦淮河を渡った。

 数千の五斗米道軍は皆長刀矛鋋をもち、精甲は日の光に輝き、猛然と進軍していた。朱齡石が率いた軍は多くが鮮卑で、徒歩にても矟を巧みに操り、陣形を組んで待機した。五斗米道軍の武器とではおよそ間合いが比べ物にならず、瞬く間に数百人を殺した。五斗米道軍は退散した。

 間もなく日没を迎え、そのまま五斗米道軍は撤退した。



 劉毅の敗北を受け、豫州主簿・袁興國が反旗を翻し、歷陽にて五斗米道と結んだ。琅邪內史・魏順之は謝寶を派遣し、これを斬った。袁興國の司馬が謝寶を襲撃したが、魏順之は謝寶を見捨てて撤収した。

 劉裕はこれに怒り、魏順之を斬った。

 魏順之と言えば魏詠之の弟である。功臣たちも震懾し、以降劉裕の命令に背くものはいなくなった。


 六月、劉裕にはさらに太尉、中書監の地位が打診され、更に黃鉞も与えられた。黃鉞のみを受け、他は固譲した。司馬の庾悅を建威將軍、江州刺史となし、東陽から豫章へ出向させた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る