宋書武帝紀4 南燕討伐

 義熙元年三月、盧循が海伝いで廣州を破り、廣州刺史・吳隱之をとらえた。盧循を廣州刺史とし、郎党である徐道覆を始興相に任命した。



 二年三月、劉裕は交州、廣州の都督にもなった。

 十月、劉裕は

「桓玄打倒の折、我々は晋国のために粉骨砕身の働きをしました。京口、廣陵の二城を平定した時には、私や撫軍將軍・劉毅ら272人が、また健康に至り、実際に干戈を交えた折には1566人余りとなりました。また輔國將軍・諸葛長民、王元德ら10名の郎党も加わり、合わせて1848人が、こたびの義挙に対する恩賞を乞うております。現在西征の途についている諸軍についての恩賞も、同じくご検討ください。」

 と上奏した。そこで尚書が謀主である鎮軍將軍・劉裕に豫章郡公,食邑萬戶,絹三萬匹を封じるべし、と上奏した。郎党への封賞については、功績に応じて差がついた。鎮軍府佐吏には,謝安が開府した府の官僚たちがそのままもたらされた。


 義熙二年十一月、安帝は、改めて劉裕に侍中、車騎將軍、開府儀同三司の昇進を打診したが、劉裕は固讓した。安帝は敦勸を派遣した。


 三年二月、劉裕が建康に戻り、廷尉に詣でようとすると、安帝は先に獄官を招しており、これを受けず、宮廷前の門にて接見、上奏を聞いた。劉裕は京口に戻った。


 閏月、府將・駱冰が謀反を起こそうとたくらんでいたが即露見し、逃走した。その後捕まり、斬られた。

 誅冰の父は永嘉太守・駱球である。駱球は元々東陽郡史であり、孫恩の乱の折、長山にて反孫恩の軍を立ち上げたことがあった。その為桓玄に重用されていた。桓玄が敗北すると桓冲に忠誠を誓い、桓冲の孫、桓胤に属した。駱冰が桓胤を謀主として推戴すると、東陽太守・殷仲文がこれに共謀した。

 殷仲文とその弟二名は速やかに誅殺された。

 桓玄残党は、この件をもって掃討された。


 十二月、司徒・錄尚書、揚州刺史の王謐が亡くなった。


 四年正月、劉裕は健康に召し出され、侍中、車騎將軍、開府儀同三司、揚州刺史、錄尚書の地位を授与された。徐兗二州刺史の地位は保たれたままだったが、表向きは兗州刺史の座を解任となった。

 その前に冠軍将軍・劉敬宣が蜀を拠点とする譙縱の討伐に出たが為し得ず、撤退していた。九月、劉敬宣は退官の意を示したが、許可されなかった。劉裕は中軍將軍に降格され、開府はそのまま認められた。



 さて、偽燕王、鮮卑の慕容德が青州で王位を僭称していた。慕容德が死ぬと、兄の子、慕容超が跡を継いだ。

 この頃晋と燕との国境付近でしばしば侵略があった。五年二月、淮北で大規模な略奪があった。陽平太守・劉千載、濟南太守・趙元を捕え、千余の家に対して掠寇を働いた。

 三月、劉裕は南燕を討伐することを表明、丹陽尹・孟昶に中軍の監督、建康の警護を任せた。四月、水軍は健康を出発し、淮水より泗水に入った。五月、下邳に至り、船艦輜重を停泊させ、陸路にて琅邪に進んだ。途中で戦闘はなかった。南燕の梁父、莒、二城の城主はともに逃走していた。


 晋軍が迫っていると聞くと、大將・公孫五樓は慕容超に

「ここは、大峴に陣を布いて待ち構え、その侵攻を阻むべきです。粟苗を刈り取らせる事によって、敵の現地調達を不可能にするのです。つまり、守りを固めて補給を断ち、その釁を窺うのです」

 と説いたが、慕容超は従わなかった。

「晋軍には遠征の疲労があり、その勢いもやがて衰えよう、大峴は通過させて構わぬ、わが軍の戦車鉄騎で踏み躙れば、たやすく打ち破れることであろう。食料を手に入れたとて、かの者らは遠征の末に弱り果てることであろう」


 劉裕が遠征に出ようかと言うときに、注進するものがあった。

 晋軍の到来を燕が聞き、あえて大峴山までは抜かせて廣固にて守りを固め、そこまでの道のりの糧秣となるものをすべて焼き払ってしまっていたら、軍にいきわたらせるための資源に窮し、その後の合戦の勝利も危うくなるのではないか、と。

 劉裕は答えた。

「俺もそれについては熟慮した。だが鮮卑どもに遠望はない。進めば乱獲ばかりをし、退けば粟苗を惜しむことだろう。我らは今孤軍にて敵地に深く踏み込んでいる。持久戦を展開されれば危うい。臨朐を拠点とし、廣固に退いて守られては抜くことも難しかろう。大峴山さえ獲得してしまえば、不退転は衆人の知るところとなろう。死地を乗り越えんとする我が兵らが、敵を前にまともに身動きも取れずにいる鮮卑どもに対して、どうして戦果を憂える必要があろうか。見よ、奴らは穀倉を焼き払って堅守に努めることすらできずにいる。そのために諸君らの軍も無事に保てているではないか。」

 劉裕は大峴山を獲得すると、天を指さして言った。

「吾が志は、ここに果たされた!」



 六月、慕容超は公孫五樓と廣寧王・賀賴盧を臨朐城に派遣、守備に充てた。大軍が近づいてきたと聞くと、病人老人らは中で留めて廣固を守らせ、それ以外の者はことごとく打って出た。

 臨朐には巨蔑水が、城から四十里のところを流れている。慕容超は公孫五樓に

「急行し、河岸を防衛せよ。晉軍に渡られたら、いよいよ倒すのは難しくなるぞ」

 と告げた。公孫五樓は進軍した。龍驤將軍・孟龍符が騎馬隊を従えており、河岸で戦うと、公孫五樓は撤退した。


 晋軍は徒歩での進軍と、また四千両の車がともにあった。車は両翼に配置されていた。各車とも物資を満載しており、御者は長柄の武器を携えていた。また軽騎兵が遊軍として周囲を警護していた。

 軍令はよく行き届いており、その行軍は厳粛であった。

 臨朐まで數里のところで南燕の鉄騎兵一万余が襲撃、交戦となった。

 劉裕は兗州刺史・劉藩、并州刺史・劉道憐、諮議參軍・劉敬宣、陶延壽、參軍・劉懷玉、慎仲道、索邈らに命じ、これらを迎撃した。

 夕方頃、劉裕は諮議參軍・檀韶を臨朐城に急行させた。

 檀詔は建威將軍・向靖、參軍・胡藩を率いて攻撃、城を落とし、輜重を獲得した。慕容超は臨朐が抜かれたと聞くと撤退を開始した。そこへ劉裕が意気も盛んに鬨の声を上げたので、南燕軍は大いに逃乱した。

 慕容超は廣固に籠城した。慕容超の馬、偽輦、玉璽、豹尾を手に入れたので、それらは建康に送った。大將・段暉ら十数人の将軍をはじめとした約千名ほどの捕虜を斬った。


 翌日晋軍は廣固にまで進み、大城を即落とした。

 慕容超は小城に退き、守りを固めた。小城には三丈(約5.5メートル)の城壁と、外には三重の塹が穿たれていた。劉裕は長江、淮水域の物資を陣中に回すと、降伏してきた南燕人に振る舞った。これに南燕人は喜んだ。

 七月、朝廷より劉裕に北青、冀二州刺史の地位が与えられた。慕容超の将軍、垣遵、およびその弟垣苗がともに帰順した。劉裕が攻城兵器を取り寄せると、城の上より「張綱もいないのに、何ができるというのだ」と言う声があった。

 張綱とは、慕容超の尚書郎であり、攻城兵器の運用に長けている者であった。このとき慕容超は、張綱を姚興、すなわち後秦に使わせ、援護の要請をしていた。姚興はこの要請を受け入れるふりをしたが、実際には劉裕を憚り、援軍を出そうとは思っていなかった。

 張綱が長安より戻ってきたところを、泰山太守の申宣がとらえ、劉裕の元に連行した。張綱は樓車を構築し、城に向けてみせた。それを見て絶望しない者はいなかった。張綱はこれによって攻城兵器の責任者となった。

 慕容超は救援が得られなかった、どころか張綱が晋に寝返ったことを知り、いよいよ憂懼を深めた。劉裕に宛てて大峴山より南を割譲し、千頭の馬を献上するので服属したい、と願い出たが、聞き入れられなかった。城攻めはますます苛烈なものとなった。

 河北の住民が晋軍の持つ物資を頼ってやってくること、日ごとに千余もの数に上った。


 錄事參軍・劉穆之は計略に長け、その智謀をもって劉裕の参謀として仕えていた。軍略のほとんども、この劉穆之に諮っているほどだった。

 この時姚興からの遣使が劉裕に

「隣国の南燕の危機を受け、鉄騎十万を洛陽に配備した。晉軍がこのまま退かないというのであれば。この鉄騎が貴様らに襲い掛かるものと思え」

 と伝えて来ていた。劉裕は遣使に対し

「ほざくな姚興、燕を片付けたら、三年の休息ののち、関中洛陽も攻め落としてくれる。鉄騎とやらを寄越せるものなら、すぐにでも寄越してみるがいい」

 と答えた。劉穆之は後秦からの使者が来たことを聞き、慌てて劉裕のもとに駆け付けたが、もう使者は追い払われてしまっていた。どのようなやり取りをしたのかと劉裕が語ると、劉穆之は

「常日頃から事の大小もなく、私めに相談してくれていたではないですか。この件につきましても、私めに良策がございましたのに。主上の受け答えでは秦を威圧はし切れず、徒に怒らせるのみでございます。もし燕を落とせぬまま秦の援軍が来てしまっては、我々はどう抗えるというのですか?」

 と劉裕に言った。劉裕は笑って答えた。

「用兵の機微、と言う奴でな。お前には解らぬことだったのだ。故に話さなかった。兵は神速を貴ぶ。もし仮に秦が実際に援軍を寄越せるというのであれば、そもそも援軍が来ることを俺に知られてしまう事のほうがまずかろう。だと言うのにわざわざ知らせてくるのだ。俺に燕を落とされてしまうことに内心で怯え返りながら、はったりを仕掛けてきているのさ。」


 九月、劉裕の地位は太尉、中書監に進められることになったが、固讓した。


 北魏の徐州刺史・段宏が十月、河北より帰順してきた。



 張綱の攻城兵器は様々な奇想が織り込まれていた。

 飛樓、木幔などの付属品類にも不備はなかった。城上より射かけられる火石や弓矢も一切通さなかった。

 六年二月、ついに廣固は落ちた。慕容超は城から逃れようとしたが、征虜賊曹・喬胥がこれを捕えた。多くの将兵が切られ、万余の住民を捕虜として得た。馬二千頭を得た。慕容超は建康に送られ、建康の広場にて斬られた。

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