宋書武帝紀3 義軍起つ
三月一日、江乗で、呉甫之と遭遇した。
呉甫之は桓玄軍の驍将で、将兵ともに強力であった。そこで劉裕は手ずから長刀を取り、咆哮とともに自ら敵陣に切り込んだ。敵兵は劉裕に恐れおののき瓦解したので、劉裕はたちまち呉甫之を斬った。
また羅落橋まで進むと、皇甫敷が数千の手勢をもって反撃してきた。寧遠将軍檀憑之と劉裕がそれぞれ一隊を率いていたが、檀憑之が戦死するや、その手勢が敗走した。一方劉裕はますます奮戦進撃し、敵兵を次々撃破、そしてついには皇甫敷の首を取った。
さて、劉裕と何無忌らが今回の計画を練っていた時、よく当たると評判の占い師に占ってもらったことがあった。占い師は劉裕と何無忌がともに富と栄誉を手に入れる、しかもそれはすぐ先のことだ、と見た。
しかし、檀憑之については何も見えない、と言った。
劉裕と何無忌はひそかに
「我々はすでに同じ船に乗っているのだから、結果に差が出るのはおかしなことではないか。我らみな栄達できるというのに、檀憑之ひとりが見えないなどとは到底受け入れられないことだ」
と、結局占い師の言葉を一笑に付した。しかし檀憑之が戦死するに及び、劉裕はようやく占いの意味を悟り、この戦いの勝利を確信した。
桓玄は皇甫敷らがともに倒されたと聞き、いよいよ恐れた。
桓謙を派遣し東陵口に、また卞範之を覆舟山の西に、合わせて二万の兵で布陣させた。
三月二日の朝、劉裕らは食事を終えると、余った食料を捨て去った。覆舟山の東に進軍し、幾人かの兵士を派遣、覆舟山のそこかしこに旗を掲げさせ、疑兵となした。桓玄は更に武騎将軍・庾禕之に精兵、上質な武具を持たせ、桓謙らを助けるため派遣した。
劉裕が兵たちの先頭に立って突撃したため、将兵関わらず皆この戦いを死戦とみなし、誰もが一人で百の敵をも打ち倒さんほどの勢いを得た。その咆哮は天地をも揺るがしかねないほどのものであった。
この時東北の風が強く吹いていたため、覆舟山に火を放った。その煙は天を覆い、鼓噪の音は京邑を揺るがした。桓謙らの諸軍は、一時のうちに崩壊した。
桓玄は軍を派遣したとは言っても、すでに逃走するつもりでいた。更に領軍将軍・殷仲文を船で石頭城に向け派遣すると、その裏では子や姪を船に乗せ、南方へと逃がすのだった。
三月三日、劉裕は石頭城に赴くと、神官を呼び寄せ、宣陽門の外で桓温の位牌を焼き捨て、太廟を建立、改めて晋の歴代皇帝の位牌をまつった。
また諸将を桓玄追討のため派遣した。尚書・王嘏が百官を率い、神官の乗る輿を出迎えた。司徒・王謐らが詮議し劉裕に揚州刺史の地位を与えると申し出たが、劉裕は固辭した。代わりに王謐を錄尚書事、揚州刺史に推挙した。そして劉裕には、改めて持節、都督揚、徐、兗、豫、青、冀、幽、并八州諸軍事、領軍将軍、徐州刺史――すなわち北府軍の首領の地位が与えられた。
過日、司馬道子らが専横していたころ、朝廷で奉職する百官は弛み切り、桓玄が綱紀を正そうとしたが従う者はいなかった。しかし劉裕が入朝するや綱紀を身をもって示し、威厳をもって内外を引き締めたため、皆肅然と職務につき、二、三日のうちに風紀は改められた。
また桓玄が雄豪を中央に推挙し、ひとときとは言え極位にあったわけだが、晉に元々いた地方長官、大臣らは、ことごとく本心を隠して桓玄に仕えていた。そのような中、当時微賤の者にすぎなかった劉裕が、ひとり敢然と、逆境をものともせず、大義をもって皇祚を復すべし、と唱えていた。そのため王謐ら諸人は民からの声望を失い、愧じて憚ぜずにおれない者はいなかった。
ところで諸葛長民は挙兵する機会を逸し、刁逵に捕えられていたため桓玄の敗走劇に参加できなかった。
桓玄が尋陽に到着したとき、江州刺史・郭昶之が安帝の乗る輿や諸物資を守っていた。桓玄はこれを攻めて二千余人を捕虜として得、安帝を捕えて江陵へと逃亡した。冠軍将軍・劉毅、輔國将軍・何無忌、振武将軍・劉道規の諸軍が追った。
尚書左僕射・王愉や、その息子である荊州刺史・王綏らは江左の名門である。特に王綏は小さな頃からその名を重んぜられていたのだが、劉裕が庶民上がりだと言う事で、手ひどく侮蔑していた。特に王綏は桓氏の甥でもあったので、また桓玄に協力するであろうことを疑い、劉裕は王愉ら一族を悉く誅した。
四月、武陵王・司馬遵を奉じて大将軍となし、安帝の代理として立てた。大赦が布告されたが、桓玄の一派親族については例外とされた。
さて、劉裕の家は貧しく、かつて刁逵に三万銭もの借金を負ったことがあった。返済の見込みが立たなかったため刁逵は劉裕を捕え、厳しく尋問を行った。
王謐はこれを見て、密かに借金を返済し、劉裕を助け出した。当時無名の劉裕は当然名の盛んな者らとの交流はなかったが、唯一王謐とは交流があったのである。
桓玄がまさに簒奪をせん、と言うときのこと、王謐はその手で安帝から印璽を抜き取り、それによって功臣と位置付けられた。劉裕が決起したことにより、人々は皆おそらく王謐にも死が下されるのではないかと囁き合っていた。
しかし劉裕はそうはしなかった。印璽の話を知っていた劉毅が、王謐に朝廷でその所在を問うたため、王謐はさらに恐れた。王愉父子が誅されるに及び、王謐のいとこ王諶が
「王愉は無罪だったというのに、義旗のもとに誅された。我々はことごとく排除されるかもしれない。兄上は桓氏の黨附を受けており、民からも楚の重臣として見なされている。許しを求めて、果たして受け入れてもらえるものだろうか?」
と言った。王謐は恐れ、曲阿へと逃亡した。
そこで劉裕は司馬遵に
「王謐とは親交深く、ぜひとも復位の上で迎えたい」
と上奏した。光祿勳・卞承之、左衞将軍・褚粲、游擊将軍・司馬秀が役人を利用して、御史中丞・王禎之に取り調べを行った。王禎之が書き残した符の言辞には怨憤が込められていた。卞承之は大きな蔵を構えていた。劉裕は改めて司馬遵に
「褚粲らは大臣の位惜しさに、異図を持っているようです。これは法に対し不公平であると言わざるを得ません、しかるべく訴状を処理せねば怨忿が横行することとなり、有司に咎が着せられましょう。かの者らを公正に裁くことで、風通しを良くしましょう」
と上奏した。よって彼らは罷免された。
桓玄の兄の子・桓歆は、手勢を引き連れて歴陽に向かっていた。劉裕は輔國将軍・諸葛長民に追撃を命じた。何無忌と劉道規が桓玄軍の大将郭銓らを桑落洲で破ると、その軍はそのまま尋陽に陣を張った。
劉裕に都督江州諸軍事の権利が加えられた。
桓玄は荊州の郢に帰還すると、手勢を増やし、水軍に樓船を製造させ、器械を作った。合計二万余の軍勢で、安帝をとらえたまま江陵を発し、船にて長江を東下したが、冠軍将軍・劉毅らと崢嶸洲でまみえ、彼らに惨敗を喫した。
桓玄は兵を見捨て、再び安帝とともに江陵に帰還した。
桓玄の配下である殷仲文が安帝の皇后二人を奉じて建康に帰還した。桓玄は江陵に至ると、更に西へと逃亡した。南郡太守・王騰之、荊州別駕・王康產が安帝を奉じて南郡府に入った。
さて、征虜将軍、益州刺史・毛璩が、從孫の毛祐之と參軍・費恬を遣わせ、葬列を行うふりをしていた。毛璩の弟の子、毛脩之は桓玄の屯騎校尉だったのだが、桓玄を誘って蜀入りした。
枚回洲に至ると、費恬と毛祐之が桓玄に弓矢を射かけた。益州督護・馮遷が桓玄の首を斬り、建康へ送った。また桓玄の子、桓昇は江陵の市場にて斬首された。
さて、桓玄が崢嶸洲にて敗死し、劉裕らの勝利がほぼ確定してはいたのだが、掃討戦は順調ではなかった。
桓玄の死後十数日が経っても、残党を掃討することはかなわずにいた。桓玄の從子・桓振は華容の涌中に逃れ、数千人の手勢を集めて再起し、早朝に江陵城を強襲、住民らは先を争って城内から逃げ出した。王騰之、王康產は殺された。
桓謙は沮川に匿われていたが、桓振の挙兵に呼応して挙兵した。
桓振は桓玄の死を悼み、喪廷を建てた。
桓謙は配下とともに安帝に璽綬を返還した。何無忌、劉道規は江陵に到着し、桓振と靈溪にて戦った。桓玄の郎党である馮該が楊林に潜んでおり、伏兵として襲い掛かったため何無忌らは奔敗、尋陽まで撤退した。
兗州刺史・辛禺は謀反を企んでいた。
北青州刺史・劉該の謀反を受け、辛禺は劉該を討つ素振りをして淮陰に入り、叛意を明らかとした。しかし辛禺の長史・羊穆之が辛禺を斬り、首を建康に送った。
十月、劉裕には青州刺史の座が与えられた。甲仗百人を引き連れての入殿が許された。
劉毅らの軍は夏口まで再び進軍した。劉毅は魯城を攻め、劉道規は偃月壘を攻め、ともに落とした。十二月には巴陵まで進軍した。
義熙元年正月、劉毅は江津に進み、桓謙、桓振を破り、江陵を平定、安帝を迎え入れた。三月、安帝は江陵に到着。詔勅を下す。
「古より、最も偉大なものが天地であり、その次に君主や家臣が来る。それは太陽、月、星の序列であったり、神と人との序列に同じい。この世が混沌の中にあった頃から、その理屈は明らかであったし、万年に渡り、世は巡ってきた。故に大いなる邪悪の襲来を霊獣たちは察知したし、王室の権威が揺らぐ時、良く賢き人々は王室を助けんと立ち上がった。ゆえに天命は永く堅固、人心は平和に帰趨したのである。
義士らは朝廷に公認されておらぬ軍権を振るった。その功績は従来であれば認められぬものであったとしても、なお詩や書はそなたらを讃えよう。木簡や竹簡にはこの義挙が美談として記されよう。
いまだ民を安んじ切れてはおらぬが、そなたらの忠誠心の発露により、正しき道理が改めて示された。すでに傾いてしまった権威をそなたらが支えてくれたため、今日こうして復正が叶ったのである。
朕の不徳により、国家に苦難がもたらされた。父帝の死後、苦難はついにここにまで至ってしまった。逆臣
しかし、
また
その道義心の気高さは天地開闢以来のあらゆる道義に冠じ、また未来を見渡しても類を見ないものであろう。少なくともこれまで、文字にてこのような功績があったと書かれたのを見たことがない。
その功がどれだけ高かろうとも、敬おうとするものは多からざろう。理屈で言えば、その功績を文で表すのが至難なためである。しかし物事の道理を深く知るいにしえの哲王らは、大道の理屈を正確に用いることで、国家の盛衰を深く見抜かれた。そのため
そこに照らせば、劉裕殿は謙虚にその誠意をしばしば顕とした。朕はここに
劉裕は昇進を辞退し、京口に戻りたい旨をしばしば乞うたが受理されなかった。安帝は多くの下僕を遣わせて劉裕を篤く歓待し、また自ら劉裕の屋敷に赴きさえした。劉裕は畏れ多いことと歓待を断ろうと思ったが叶わなかった。
後日丹徒に劉裕が赴任すると、安帝はそちらにも大使を遣わせて歓待しようとしたが、それは受けなかった。改めて荊、司、梁、益、寧、雍、涼七州の諸軍事を、それまでの九州を合わせて、合計十六州ぶん都督するよう任じられた。もともとの官位は保たれた。青州刺史の任務は解されたが、代わって兗州刺史の地位に就いた。
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