宋書武帝紀2 桓玄専横
元興元(402)年1月、驃騎将軍・司馬元顕が荊州刺史の桓玄を討つため兵を挙げた。桓玄もまた荊州および楚州の軍勢を率い司馬元顕に対抗した。司馬元顕側の大将は劉牢之だったが、このとき劉裕も劉牢之軍の幕佐に加わっていた。
両軍は溧洲にて相対した。
劉裕は攻撃許可を求めたが受け入れられず、それどころか劉牢之は桓玄との講和を考えていた。劉裕と劉牢之の甥の何無忌が懸命にそれを諌めたが結局劉牢之は息子を桓玄の元に講和の使者として派遣してしまうのだった。
やがて桓玄はたやすく建康を落とし、司馬元顕を殺した。
この後劉牢之は兵権を奪われ、会稽内史に任ぜられた。ここに来て劉牢之はようやく桓玄の意図に気付き、劉裕に
「奴はおそらくわしが抱えていた兵をよからぬことに利用するだろう。高雅之が広陵で挙兵するというので、わしはそれにつこうと思っている。劉裕よ、わしについてきてくれるか?」
と告げた。だが劉裕は
「将軍は数万もの精兵とともに桓玄殿のもとに降った。桓玄殿はこれによって大きな力を得、その野望を達成したのだ。ここに天下は大きく揺らぐに至った。すでに兵たちの心はこんな事態を招いたあなたから離れている。このような状態では、あなたはもはや一都市広陵すら物することもできまい! 将軍には従いませんよ。俺は桓玄殿に帰服し、京口に戻るつもりです」
と答えた。
その後劉牢之は叛旗こそ掲げたものの結局兵力もろくに集めることかなわず逃げ出し、そして首を吊って死んだ。
何無忌が劉裕に
「私はこれからどうしたらよいのだろう」
と問うと、劉裕は
「劉将軍が亡くなったとはいえ、桓玄殿が将軍の親戚である君を見逃すとは到底思えない。君は俺と一緒に京口に来るべきだろう。俺と一緒ならばおいそれと桓玄殿も手は出してこれないだろうしな。桓玄殿が臣節を貫くというのであれば仕えていればいいだろうし、そうでなかったら倒せばいい。桓玄殿はいまこのまま晋室を乗っ取るかどうかでえらく頭を抱えていることだろうが、まぁ、どっちにしろ俺たちにはお呼びがかかるだろうさ」
と答えた。
桓玄が従兄弟の桓脩を撫軍将軍として丹徒に配属すると、劉裕は桓脩の中兵参軍として取り立てられた。建武将軍、下邳太守の地位は保たれたままだった。
さて、孫恩は敗走し南下するうち付き従う者も徐々に散り散りとなり、遂には見つかって捕まるのを恐れ、臨海で海に身を投げた。
残された配下たちは孫恩の嫁婿・盧循を主として推戴した。
桓玄は建康以東の地も手中に収めんがため、盧循を永嘉太守に任じた。
しかし盧循は拝命しながらも反乱を収めようとはしなかった。そこで桓玄は5月、劉裕に賊軍鎮圧を命じた。この時盧循は臨海から東陽に進出していた。元興2(403)年1月、桓玄は再び劉裕を派遣し、東陽で盧循を破った。盧循は永嘉へと逃れたが劉裕は追撃の手を緩めず、軍団長の一人張士道を斬った。
追撃の手は結局晋安にまで伸び、盧循は船に乗って南へと逃れた。6月、劉裕には彭城内史の地位が加えられた。
桓玄は楚王となり、いよいよ簒奪の意図を明らかとした。桓玄の従兄弟である桓謙が人払いをした後劉裕に
「楚王はいまや天下一の徳をそなえ、もはや彼のお方に従わぬものはない。朝廷内でも皆そろそろ桓玄様が登極すべきではないかと囁きあっているようなのだ。この件について貴公はどう思う?」
と尋ねた。このとき劉裕はすでに桓玄打倒の意図を固めていたのだが、しかしその問いには恭しく
「楚王は宣武公(桓温のこと)の御子として、その威徳はあまねく世に浸透しております。対して晋帝の威厳ははなはだ微弱であります。民とて禅位の儀がなるのを久しく待ち望んでおりましょう。王がその流れに乗るのに、何の不都合がありましょうか」
と答えた。すると桓謙は喜び
「貴公が大丈夫だというのであれば、これはもう事は済んだようなものだ」
と言った。
そして12月、ついに桓玄は帝位に上り、安帝を尋陽へと遷した。
桓脩が入朝すると、劉裕は桓脩に従って建康に入った。桓玄はここにいたって初めて劉裕を目の当たりとし、司徒の王謐に
「昨日劉裕を見たのだが、いかにも只者でない風貌であった。きっと人傑とはあのような者の事を言うのだろうな」
と告げた。後日遊びやらで劉裕が招集されたとき、桓玄の態度は極めて慇懃で、また種々の贈り物についても膨大な量に上った。しかし劉裕はそういった桓玄の態度にまったく辟易していた。
あるとき桓玄の妻が
「劉裕とはまさに竜虎のごとき存在、目つきからして非凡なものを感じさせます。およそ人の下につくとは思えません。早めに排除なさったほうがよろしいのでは?」
と桓玄を説得にかかった。すると桓玄は
「わしは中原も平定したいのだ。劉裕なしでこの大事業はなしえまい。関中の平定がなってからそのことは考えるしかない」
と答えた。後日桓玄は以下のように劉裕に語った。
「貴公は少を以って多を制し、五斗米道の乱をことごとくおさえた。しかも海にまで追い詰め、賊徒十のうち八もを葬った。部下たちも力戦し、怪我などを負ったものも多かろう。貴公以下部下たちにも厚く褒賞を与える。以後も忠勤に励めよ」
さて桓玄による簒奪がなされるより以前のこと、劉裕が盧循を征伐するため何無忌とともに山陰へといたったとき、何無忌が会稽で挙兵してはどうか、と持ちかけてきたことがあった。
劉裕は桓玄がいまだ簒奪をなしていないこと、また会稽が建康から遠いこと、といった理由を挙げ、ここで事を起こしても成し遂げるのは難しいと答えた。桓玄が簒意を明らかとしたところで京口でいきなり決起すれば、失敗する恐れも無いだろう、というのである。
そしてここにきて桓脩が都へと戻った。すかさず劉裕は古傷が痛み出してたと偽って何無忌とともに舟で京口へと戻り、晋室復興の計画を立ち上げた。
この計画には劉道規(劉裕の弟)、劉毅、孟昶、魏詠之、檀憑之、諸葛長民、王元徳、辛扈興、童厚之、等が参画した。
この当時、桓脩の弟・桓弘が征虜将軍・青州刺史として広陵に封ぜられていた。そこには劉道規が中兵參軍として、孟昶が州主簿としてそれぞれ幕僚に加わっていた。そこで劉裕は劉毅に命じて孟昶にひそかに連絡を取らせ、長江の北岸で兵力を集め、起兵して桓弘を倒すよう申し伝えた。
諸葛長民は豫州刺史刁逵の左軍府参軍となっていたので、歴陽で挙兵させる事にした。王元徳および童厚之は建康で兵を集め、桓玄を攻めさせるようにした。そしてこれらの挙兵が一斉に起こるよう示し合わせるのだった。
そして元興3(404)年2月1日早朝、劉裕は狩猟に出かける振りをして何無忌とともに兵を召集した。
なおこの謀議に加わったのは劉裕と何無忌のほか、以下の26名が挙げられている。「魏詠之」「魏欣之」「魏順之」の3兄弟。「檀憑之」とその甥「檀韶」「檀祗」「檀隆」「檀道済」の4兄弟、別筋の甥「檀範之」。劉裕の弟「劉道憐」。「劉毅」とその従兄弟「劉藩」。「孟昶」とそのはとこ「孟懐玉」。「向彌」。「管義之」。「周安穆」。「劉蔚」及びその従兄弟「劉珪之」。「臧熹」およびその従兄弟「臧宝符」、甥「臧穆生」。「童茂宗」。「周道民」。「田演」。「范清」。
この朝劉裕と共にいたのは何無忌と、集められた兵士たち100人強である。
一刻ほどののち集団は都の前に姿を現した。集団の中で何無忌は朝服を身にまとい「勅使である」と称して衛兵に門を開けさせた。そこに兵たちがなだれ込み、場内で一斉に大声を張り上げた。
すると城内にいた官吏たちは驚き散り散りに逃げ出した。抵抗を試みる者もなく、たちまちのうちに桓脩は斬って捨てられた。敵味方になったとはいえ劉裕に取り桓脩は一度仕えた主、殺さねばならなかったことに対し劉裕は深く悲しみ、その遺体を手厚く葬ることにした。
同日広陵では、孟昶が桓弘に猟に出かけてはどうかと勧めていた。そこで桓弘はその日の未明に門を開け放ち、猟へと出かけた。桓弘の出かけた隙を突いて孟昶、劉道規、劉毅らが率いる五、六十名ほどの兵士たちは直ちに広陵の内部へと入り込んだ。桓弘はそのとき粥を啜っており、抵抗する暇もなく斬られた。その後孟昶達は手勢を引き連れて長江を渡った。
劉裕らが京口を落とすと桓脩の司馬・刁弘が文官や武官、佐吏などを連れてやって来た。劉裕は城壁から刁弘らを睥睨し
「すでに天子様は郭銓殿に助けられ、いま尋陽より戻られつつある。我等は皆密かに天子様よりの勅を賜り、逆賊どもを打ち果たさんとこの場にやって来た者だ。逆臣桓玄の首ももはや船にてここへと運ばれている最中。諸君らは晋の臣ではなかったはずだな。何のためにこんなところにやってきた?」
劉裕の言葉はまったくの空言でしかなかったのだが、しかし刁弘らはそれを信じ、手勢を連れて退散していった。やがて劉毅らが広陵からはせ参じると、劉裕は直ちに刁弘らを誅滅するよう命じた。
劉毅の兄劉邁が建康にいた。義軍が立つその数日前、劉裕は同志の周安穆にこのことを伝え、内応するよう働きかけさせた。
劉邁はいったん応じる素振りこそしてみせたものの、内心では激しく震懼していた。周安穆はその惶駭する様子を見て、これは劉邁から今回の件が露見するだろうと確信し、慌てて京口へと帰還した。
その頃桓玄は劉邁を竟陵太守に任じていた。劉邁はどう対応するべきか迷った末、船を下り、徒歩にて竟陵に向かおうとした。その出立前夜、桓玄より書面にて
「北府の様子はどのようであろうか。そう言えば、卿はどこかで劉裕殿より何か言われたかね?」
との問い合わせがあった。劉邁は、桓玄が既にこの謀事に気付いてるのだと思い込み、桓玄にすべてを打ち明けてしまった。桓玄は驚懼し、密告の功で劉邁を重安侯に封じた。しかし周安穆を捕えることができず逃がしてしまったことを知り、すぐさま劉邁を殺した。また、合わせて王元徳、辛扈興、童厚之を誅した。
そして桓謙、卞範之らを招集し、どう劉裕を防ぐかを協議した。桓謙らは
「速やかに派兵して攻めるべきです」
と言ったが、桓玄は
「駄目だ。劉裕軍は精強だ。打って出れば万余が死ぬことになる。また、もし水軍を派兵すれば、ろくに抵抗もかなわず、壊走させられるだろう、そうして劉裕の軍は勢いづき、我々のはかりごとは打ち砕かれることになる。覆舟山に大軍を配し、劉裕の軍を待ち受けるに越したことはない。二百里をただ行軍させ、その鋭気をくじき、そこに突然大軍が現れる、と言うのであれば、驚懼駭愕すること確実であろう。余は堅固な陣を敷き、交戦せず、戦いを挑まれたら散開するよう仕向ける。これが上計である。」
しかし桓謙らがしきりに要請をかけたので、頓丘太守の呉甫之、および右衛将の軍皇甫敷が劉裕軍を防ぐため進軍した。
桓玄は部下が勝手に軍を動かしたと聞きつけ、はかりごとが瓦解することになる、と憂懼した。或る者が
「劉裕どもの手勢ははなはだ弱く、わが軍の勝利は間違いないでしょうに、陛下はなぜそうも恐れられるのですか?」
と問うと、桓玄は
「劉裕は一世の雄と呼ぶに足る男、劉毅は生まれこそ卑しいが、博打で百万もの財貨を投じることのできる度胸を持った男。そして何無忌は劉牢之の甥だが、その才覚は叔父譲りと言って差し支えない。これらが共に立ち上がったのだ、出来ぬことなどあろうはずがない。」
と答えた。
人々は劉裕を盟主とした。檄文にはこのように記されている。
そもそも治と乱とはそれぞれを原因とする。理とは常に不安定な物であり、狡き者もある時は悪逆非道の徒として扱われるが、ある時は聖明なる者として扱われることもある。我らが大いなる晋国においても、陽九の厄、即ち災いがしばしば生じ、隆安(※元年に王恭が反乱を起こしている)以来、皇室は常に奸臣に恣とされ、忠臣は虎口に噛み砕かれ、貞良なる者は豺狼のごとき者がらに虐げられている。逆臣桓玄、祖先の霊を虐げ、荊州は郢の都に集めた兵力により、都邑を荒らして回っている。天はいまだ亡難の危機のさなかにあり、凶力は繁興し、そして年が明ければ、遂には皇祚が傾いた。帝は追放され、辺鄙な地へと追いやられ、神器の権威は失墜し、皇室の御霊屋はことごとく打ち壊された。夏の時代には(羿を殺した)「浞」やその息子「豷」が、漢の時代には王莽や董卓などがいたが、、桓玄の悪事たるや、これらと比してもまだ足りるものではない。桓玄が纂逆して後、今日に至るまでに、亢旱の禍が続き、民からは生気が失われている。桓玄主導の移住政策で士庶は疲弊し、御殿の建築事業では文武百官が苦しめられ、父と子は離れ離れとなり、本家分家も結束を断たれた。それはあたかも詩経「大東」にある杼軸の悲(※衰乱あるいは収奪により、機織機にかかる糸もなく空しく遊んでいることを嘆いた歌)、あるいは「摽梅」にある傾筐の既(いにしえの婚活で、女子が籠の中の梅を意中の男性に投げるという風習があった。その中の梅が尽きた、と言うのだから、男手、父親のなり手が減ったことを示すのだろう)の世界ではないか。天文を仰ぎ見、人事を俯して眺めれば、ここまでは何とか耐え忍んでこそいるものの、このままでは衰亡は免れ得まい。およそ心あるものであれば、誰もが扼腕せずにおれまい。我々は叩心泣血し、心やすらう事もなかった。そのため宵闇に紛れて忠烈の徒を支援し、伏して大過をしのぎ、事が漏れぬよう慎重にことを進めた。輔国将軍劉毅、廣武将軍何無忌、鎮北主簿孟昶、兗州主簿魏詠之、寧遠将軍劉道規、龍驤将軍劉藩、振威将軍檀憑之らは忠烈斷金、精貫白日、戈をもって袖を奮い、命尽きてもこの志を果たす覚悟である。益州刺史毛璩は万里をかけて諸士を結び付け、荊楚を掃定した。江州刺史郭昶之は皇帝陛下をお迎えし、尋陽に匿った。鎮北參軍王元德らは部曲を率い、石頭城を占拠。揚武将軍諸葛長民は義士を集め、歷陽を守っている。征虜參軍庾賾之らは水面下にて相結び、内応の手助けをした。皆々が協力し合い、己の持ち場にて蜂起し、速やかに徐州刺史・安城王を偽称した桓脩、青州刺史を偽称した桓弘の首を斬った。ここに義の徒は集まり、文武が先を争い、たとえその心がひとつところに集まっていないとは言えども、いま我々はこうして集っている。私はやむを得ず、この軍要を統べることとなった。祖宗の霊を、義夫の力を借り、逋逆の徒の首を取り、都を蕩し、清めようではないか。 公侯諸君、忠貞を示すもよし、立身出世の機会にするでも、また物事の道理を弁えぬ愚か者を誅したい、というのでも構わない。衰微した周朝の歴史にこの晋が倣うのでは、あまりにも悲しきことではないか! 今日の蜂起は、諸君らが銘々に抱えた志を果たす好機でもある。私は非力で、古人のような才覚は持ち合わせていないが、今こうして義挙の機運を高めた諸君を目の当たりとし、この晋朝の危地を救うべく、諸君らの前に立とう。真心はいまだ明らかとならぬが、感慨憤躍し、大いなる青天に臨んで思い久しく、山川が厲に増すのを見届ける。この檄を受け、神が駆けつけ、賊は裁かれることになるだろう。
孟昶を長史となし、後事を委任した。また檀憑之を司馬に任じた。士庶のうち従軍を願い出るものは千余にのぼった。
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