宋書武帝紀

宋書武帝紀1 孫恩の乱

 南朝宋の高祖(武帝)劉裕は字を德與、幼名を寄奴という。漢高祖・劉邦の弟、楚元王・劉交の21代目の子孫である。祖先は彭城県の綏輿に住んでいたが、曽祖父・劉混の代の時に永嘉の乱から逃れるため南下、長江をわたり晋陵郡丹徒県の京口に居を構えた。混の息子が靖、孫が翹、そしてひ孫が裕である。

 生まれたのは晋の哀帝の御世・興寧元年(363年)3月17日の夜であった。成長すると身長7尺6寸(約171センチメートル)にまでなり、その体格はきわめて人並み優れていた。

 貧しい家に育ちながらもその胸には大志を抱いており、細かい礼儀などにこそあまりこだわらなかったものの、継母にはよく尽くしているということで近所の評判になっていた。



 はじめに晋の将軍孫無終の部下として仕えた。

 安帝の御世、隆安3(400)年11月に五斗米道を統べる孫恩が会稽において乱を起こしたので、晋の将軍・謝琰および劉牢之が掃討にあたった。このとき劉裕は劉牢之の要請を受け劉牢之軍に従軍していた。

 翌月、劉牢之は呉の近辺で反乱軍数千名が街道に沿って駐屯しているのに遭遇した。そこで劉牢之は劉裕率いる十数名の部隊に偵察を命じた。偵察の途中反乱軍に発見され攻撃を受けた。部下が次々と死んでいく中劉裕は戦意を失わず、それどころかますます盛んとし、手にした長刀を振るって多くの敵を打ち倒した。

 そこに劉裕の身を案じていた劉敬宣(牢之の子)が軽騎兵を駆って救援に駆けつけた。すると反乱軍が引き返し始めたので、そこに追撃をかけて千人あまりを斬り、捕らえた。更に余勢をかって山陰を陥とすと、孫恩は海上へと逃げていった。



 隆安4(401)年5月、孫恩は再び会稽へ攻め込み、謝琰を殺した。しかし11月に劉牢之をはじめとした将軍たち(桓不才、孫無終、高雅之、袁山松ら)が孫恩を倒すため動くと、孫恩はたちまち敗走した。

 その後劉牢之は上虞を守備し、劉裕には句章を守らせた。

 句章城は小さく、駐屯している兵士は数百人に満たなかった。しかし劉裕は常に鎧に身を固め手には長刀を持ち、兵たちの先頭に立って、戦いのごとに敵陣をおとしていったため、反乱軍はたちまち浹口に逃げ帰った。

 なお、このとき孫恩討伐に従事したどの軍も出征先で暴掠の限りを尽くし、人々はむしろ兵士たちのために苦しめられていた。ただ劉裕の軍のみが規律にのっとり動いていたので、民は劉裕の軍に親しみ、劉裕の軍を頼るようになったという。



 年が変わり隆安5(402)年になると、孫恩がしきりに句章城を攻めるようになった。しかし劉裕は敵軍をことごとく撃破、孫恩はまた海上へ逃れた。

 3月、孫恩は今度は北にある海鹽を襲撃した。劉裕も孫恩を追って海鹽へと出向き、防備のための砦を築いた。

 敵は日ごとに攻めてくるが砦内の兵力ははなはだ心もとない。そこで劉裕は数百人の決死隊を結成した。そして皆で甲冑を脱いで、短刀を取り、太鼓をたたき大声を張り上げながら討って出た。反乱軍は劉裕たちのその様子に恐れおののき、鎧兜も捨て逃げ出した。このとき反乱軍の将である姚盛を討ち果たす。


 しかし連戦連勝とはいえ所詮兵力の差は覆しがたい。状況を打破しなければと劉裕は一人思案に暮れ、そして一つの奇策を打った。

 ある夜旗を隠し、兵たちの姿も潜めて、部隊が海鹽から撤退したように見せかけたのだ。その上、明くる朝には疲れた者や病にかかった者を敵から見える場所に配しておいた。

 反乱軍が遠くから劉裕の様子を伺うと、果たして「これは夜のうちに逃げ出したな」と信じ込み、勢い込んで海鹽に攻め込んだ。劉裕はこの油断に乗じて奮戦、敵を大破した。


 そのようなこともあって孫恩は海鹽も諦め、進撃を滬涜に向けた。劉裕は城を捨て反乱軍を追った。

 追撃には海鹽の長官・鮑陋が息子の鮑嗣之を呉の兵一千とともに合流させていた。鮑嗣之は先鋒を申し出たが劉裕は「反乱軍は非常に強い。呉の人たちは戦いに慣れていない。先鋒が崩れたら間違いなく我々は負ける。どうかわが軍の後援に回ってはくれまいか」とそれを断った。鮑嗣之は従わなかった。


 夜になると劉裕は伏兵を至る所に配し、同時に旗と鼓も用意させたが、このとき伏兵一箇所あたり数名しか人員を割かなかった。明くる日反乱軍が数万もの兵を率いてやってきたのでこれを迎え撃った。先鋒の干戈が交わったところで伏兵たちが一斉に姿を現し、旗を振り鼓を叩いた。実際は虚勢にしか過ぎないのだが、しかし反乱軍は周りを政府軍に囲まれたかのように錯覚し、あわてて退却を始めた。


 ここで勝ちに乗じた鮑嗣之が反乱軍を追ったが、深追いをしすぎたため逆に反乱軍の手にかかって殺されてしまった。形勢は一気に逆転し、劉裕は敵の追撃をかわしながら撤退しなければならなくなった。

 しかし敵の勢いは増すばかり。手勢も次々に討ち果たされていく。このままでは逃れられないと悟った劉裕は先だって伏兵を配したところまで向かい、そこでいったん撤退を止め、部下たちに戦死者の衣服を脱がさせた。そして死者たちをまるで兵士たちがゆったり休息しているかのように見せかけた。

 反乱軍はその様子を見て、さてはまだ伏兵が潜んでいるのでは、と疑った。そこへ劉裕が意気を盛んとして逆襲に打って出たので、やはり伏兵があるのだと錯覚し、ここで追撃を諦めた。反乱軍の撤退を見届けると劉裕はおもむろに引き返し、ようやく形勢を立て直すことができた。


 5月になると孫恩は滬涜を陥落せしめ、呉の内史・袁山松をはじめとした四千人を殺した。一方劉裕は婁県でまた反乱軍を打ち破っていた。



 6月に孫恩は勝ちに乗じて船で丹徒へと至り、丹徒を包囲した。

 十余万の軍勢であったと言われる。このとき劉牢之はいまだ山陰に駐屯しており救援に駆けつけられる状態ではなかった。都のすぐ傍まで反乱軍が押し寄せたため人々は恐れおののいた。劉裕は急ぎに急いでこれの救援に駆けつけ、結局丹徒への到着は反乱軍とほぼ同時だった。

 しかし累戦を経て兵力は著しく削がれており、加えて強行軍により兵士たちの疲労は頂点にある。そのうえ丹徒の守備隊の士気はもはや消えうせていた。孫恩は数万の配下を従えて、鼓を打ちときの声を上げながら蒜山に登った。住民たちはみな荷を担いでこれに続いた。

 劉裕は部下を率いて孫恩の軍に駆け寄りざま瞬く間に撃破、このとき崖から川に身を投げて死んだ者が多く出た。孫恩は人々が水面に激突する音を聞いて敗北を悟り、僅かな手勢とともに船へと逃げ帰った。

 しかし孫恩は敗れてもなお民衆が持つ勢いを恃みに建康へと向かった。孫恩の乗るやぐら船は非常に大きかったが、向かい風にあってうまく進めなくなり、十日ばかりしてようやく白石(建康のすぐ北にある河港)に到着した。

 だがその頃にはすでに劉牢之も都へと帰還し、防備体制が整えられていた。孫恩は都への進撃をあきらめ、鬱洲へと逃亡した。


 8月、劉裕は建武將軍、下邳太守に任命された。

 水軍を率いて鬱洲へ出向き、孫恩を散々に打ち負かし南方へと追いやった。劉裕は追撃の手を緩めず、11月には滬涜と海鹽でそれぞれ大打撃を与えた。

 三度の戦いで多くの捕虜を得、多くの首級を上げた。逃亡を続ける孫恩の手勢にはやがて上や疫病などの追い討ちも加わり、死者は過半数を超すような有様となった。こうして孫恩は浹口を経て臨海へと逃れた。

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