こんばんは。
ざっと読み下してみました。「鮮不覆敗」が一番読みにくいですね。一応、全部説明はできそうに思いますので、疑義などあればご指摘ください。むろん、間違っている可能性は大いにあります。。。
▼巻九 孝武帝本紀
九年春正月庚子,封武陵王孫寶爲臨川王。
九年春正月庚子、武陵王の孫の寶を封じて臨川王と爲す。
戊午,立新寧王晞子遵爲新寧王。
戊午,新寧王晞の子の遵を立てて新寧王と爲す。
辛亥,謁建平等四陵。
辛亥、建平等の四陵に謁す。
龍驤將軍劉牢之克譙城。
龍驤將軍の劉牢之は譙城を克くす。
車騎將軍桓沖部將郭寶伐新城、魏興、上庸三郡,降之。
車騎將軍の桓沖の部將の郭寶は新城、魏興、上庸の三郡を伐ちて之を降す。
二月辛巳,使持節、都督荊江梁寧益交廣七州諸軍事、車騎將軍、荊州刺史桓沖卒。
二月辛巳、使持節、都督荊江梁寧益交廣七州諸軍事、車騎將軍、荊州刺史桓沖、卒す。
慕容垂自洛陽與翟遼攻苻堅子丕於鄴。
慕容垂は洛陽より翟遼とともに苻堅の子の丕を鄴に攻む。
三月,以衛將軍謝安爲太保。
三月、衛將軍の謝安を以て太保と爲す。
苻堅北地長史慕容泓、平陽太守慕容沖並起兵背堅。
苻堅の北地長史の慕容泓、平陽太守の慕容沖は並びに兵を起こして堅に背く。
夏四月己卯,增置太學生百人。
夏四月己卯、太學生百人を增し置く。
封張天錫爲西平公。
張天錫を封じて西平公と爲す。
使竟陵太守趙統伐襄陽,克之。
竟陵太守の趙統をして襄陽を伐たしめ、之を克くす。
苻堅將姚萇背堅,起兵於北地,自立爲王,國號秦。
苻堅の將の姚萇は堅に背き、北地に起兵して自立して王と爲る。國を秦と號す。
六月癸丑朔,崇德皇太后褚氏崩。
六月癸丑朔、崇德皇太后の褚氏、崩ず。
慕容泓爲其叔父沖所殺,沖自稱皇太弟。
慕容泓は其の叔父の沖の殺す所となり、沖は皇太弟を自稱す。
秋七月戊戌,遣兼司空、高密王純之修謁洛陽五陵。
秋七月戊戌、兼司空、高密王の純之を遣りて洛陽の五陵を修め謁す。
己酉,葬康獻皇后于崇平陵。
己酉、康獻皇后を崇平陵に葬る。
百濟遣使來貢方物。
百濟は遣使して來り、方物を貢ず。
苻堅及慕容沖戰于鄭西,堅師敗績。
苻堅は慕容沖と鄭西に戰い、堅の師は敗績す。
八月戊寅,司空郗愔薨。
八月戊寅、司空の郗愔、薨ず。
九月辛卯,前鋒都督謝玄攻苻堅將兗州刺史張崇于鄄城,克之。
九月辛卯、前鋒都督の謝玄は苻堅の將、兗州刺史の張崇を鄄城に攻め、之を克くす。
甲午,加太保謝安大都督揚、江、荊、司、豫、徐、兗、青、冀、幽、幷、梁、益、雍、涼十五州諸軍事。
甲午、太保の謝安に大都督揚、江、荊、司、豫、徐、兗、青、冀、幽、幷、梁、益、雍、涼十五州諸軍事を加う。
冬十月辛亥朔,日有蝕之。
冬十月辛亥朔、日の之を蝕する有り。
丁巳,河間王曇之薨。
丁巳、河間王の曇之、薨ず。
乙丑,以玄象乖度,大赦。
乙丑、玄象の度を乖れるを以て大赦す。
庚午,立前新蔡王晃弟崇爲新蔡王。
庚午、前の新蔡王の晃の弟の崇を立てて新蔡王と爲す。
苻堅青州刺史苻朗帥衆來降。
苻堅の青州刺史の苻朗は衆を帥いて來降す。
十二月,苻堅將呂光稱制于河右,自號酒泉公。
十二月、苻堅の將の呂光は河右に稱制し,自ら酒泉公を號す。
慕容沖僭卽皇帝位于阿房。
慕容沖は皇帝位に阿房にて僭卽す。
◆◆◆
十年春正月甲午,謁諸陵。
十年春正月甲午、諸陵に謁す。
二月,立國學。
二月、國學を立つ。
蜀郡太守任權斬苻堅益州刺史李平,益州平。
蜀郡太守の任權は苻堅の益州刺史の李平を斬る。益州平ぐ。
三月,滎陽人鄭燮以郡來降。
三月、滎陽の人の鄭燮は郡を以て來降す。
苻堅國亂,使使奉表請迎。
苻堅の國は亂れ、使をして表を奉じて迎えを請う。
龍驤將軍劉牢之及慕容垂戰于黎陽,王師敗績。
龍驤將軍の劉牢之は慕容垂と黎陽に戰い、王師は敗績す。
夏四月丙辰,劉牢之與沛郡太守周次及垂戰于五橋澤,王師又敗績。
夏四月丙辰、劉牢之は沛郡太守の周次とともに垂と五橋澤に戦い、王師は又た敗績す。
壬戌,太保謝安帥衆救苻堅。
壬戌、太保の謝安は衆を帥いて苻堅を救う。
五月,大水。
五月、大いに水あり。
苻堅留太子宏守長安,奔于五將山。
苻堅は太子の宏を留めて長安を守らしめ、五將山に奔る。
六月,宏來降,慕容沖入長安。
六月、宏は來降し、慕容沖は長安に入る。
秋七月,苻丕自枋頭西走,龍驤將軍檀玄追之,爲丕所敗。
秋七月、苻丕は枋頭より西に走り、龍驤將軍の檀玄は之を追い、丕の敗る所と爲る。
旱,饑。
旱あり、饑う。
丁巳,老人星見。
丁巳、老人星、見る。
八月甲午,大赦。
丁酉,使持節、侍中、中書監、大都督十五州諸軍事、衛將軍、太保謝安薨。
丁酉、使持節、侍中、中書監、大都督十五州諸軍事、衛將軍、太保の謝安、薨ず。
庚子,以琅邪王道子爲都督中外諸軍事。
庚子、琅邪王の道子を以て都督中外諸軍事と爲す。
是月,姚萇殺苻堅而僭卽皇帝位。
是の月、姚萇は苻堅を殺して皇帝位に僭卽す。
九月,呂光據姑臧,自稱涼州刺史。
九月、呂光は姑臧に據り,涼州刺史を自稱す。
苻丕僭卽皇帝位于晉陽。
苻丕は晉陽にて皇帝位に僭卽す。
冬十月丁亥,論淮肥之功,追封謝安廬陵郡公,封謝石南康公,謝玄康樂公,謝琰望蔡公,桓伊永脩公,自餘封拜各有差。
冬十月丁亥、淮肥之功を論じ、謝安を廬陵郡公に追封し、謝石を南康公に、謝玄を康樂公に、謝琰を望蔡公に、桓伊を永脩公に封じ、自餘の封拜は各々差有り。
是歲,乞伏國仁自稱大單于、秦河二州牧。
是の歲、乞伏國仁は大單于、秦河二州牧を自稱す。
十一年春正月辛未,慕容垂僭卽皇帝位于中山。
十一年春正月辛未、慕容垂は中山にて皇帝位に僭卽す。
壬午,翟遼襲黎陽,執太守滕恬之。
壬午、翟遼は黎陽を襲い、太守の滕恬之を執う
乙酉、謁諸陵。
乙酉、諸陵に謁す。
慕容沖將許木末殺慕容沖于長安。
慕容沖の將の許木末は慕容沖を長安に殺す。
卷一一一 載記第一一 慕容暐
堅徙暐及其王公已下並鮮卑四萬餘戶于長安,封暐新興侯,署為尚書。
堅は暐及び其の王公已下、並びに鮮卑の四萬餘戶を長安に徙し、暐を新興侯に封じ、署して尚書と為す。
堅征壽春,以暐為平南將軍、別部都督。
堅の壽春を征するに、暐を以て平南將軍、別部都督と為す。
淮南之敗,隨堅還長安。
淮南之敗あり、堅に隨いて長安に還る。
既而慕容垂攻苻丕于鄴,慕容沖起兵關中,暐謀殺堅以應之,事發,為堅所誅,時年三十五。
既にして慕容垂は苻丕を鄴に攻め、慕容沖は關中に起兵し、暐は堅を殺して以て之に應ぜんと謀る。事發し、堅の誅する所と為る。時に年三十五。
及德僭稱尊號,偽諡幽皇帝。
德の尊號を僭稱するに及び、幽皇帝を偽諡す。
卷一一六 載記第一六 姚萇
・時苻堅為慕容沖所逼,走入五將山。
時に苻堅は慕容沖の逼る所と為り,走りて五將山に入る。
沖入長安。
沖は長安に入る。
堅司隸校尉權翼、尚書趙遷、大鴻臚皇甫覆、光祿大夫薛贊、扶風太守段鏗等文武數百人奔於萇。
堅の司隸校尉の權翼、尚書の趙遷、大鴻臚の皇甫覆、光祿大夫の薛贊、扶風太守の段鏗ら文武數百人は萇に奔る。
萇遣驍騎將軍吳忠率騎圍堅,萇如新平。
萇は驍騎將軍の吳忠を遣りて騎を率いて堅を圍み、萇は新平に如く。
俄而忠執堅,送之。
俄にして忠は堅を執え、之を送る。
・慕容沖遣其車騎大將軍高蓋率眾五萬來伐,戰于新平南,大破之,蓋率麾下數千人來降,拜散騎常侍。
慕容沖は其の車騎大將軍の高蓋を遣りて眾五萬を率て來伐し、新平の南に戰い、大いにを破る。蓋は麾下數千人を率いて來降し、散騎常侍を拜す。
卷一二四 載記第二四 慕容盛
盛字道運,寶之庶長子也。
盛、字は道運、寶の庶長子なり。
少沈敏,多謀略。
少くして沈敏、謀略多し。
苻堅誅慕容氏,盛潛奔於沖。
苻堅の慕容氏を誅するや、盛は潛かに沖に奔る。
及沖稱尊號,有自得之志,賞罰不均,政令不明。
沖の尊號を稱するに及び、自ら得るの志有り。賞罰は均しからず、政令は明らかならず。
盛年十二,謂叔父柔曰:「今中山王智不先眾,才不出下,恩未施人,先自驕大,以盛觀之,鮮不覆敗。」
盛は年十二にして叔父の柔に謂いて曰わく「今、中山王は智眾に先んじず、才は下を出ず、恩は未だ人に施されず、先に自ら驕大たり,盛を以て之を觀るに、覆敗せざること鮮し」と。
俄而沖為段木延所殺,盛隨慕容永東如長子。
俄にして沖は段木延の殺す所と為り、盛は慕容永に隨いて東のかた長子に如く。
【返信を受けて】
訓読を読ませて頂く限り、意味が違いそうなところは、ほとんどないと思います。こうなると、あとは漢文よりも訓読に触れて言い回しを身に付ける方が近道です。
なので、今回は相違箇所じゃなくて全文を訓読してみた次第です。原文と訓読が併記された『後漢書』の本紀あたりを一冊買って訓読を通読するのがいいかも知れません。
※
副詞節と主節は気をつける必要がありますね。個人的には副詞節の主語は助詞を「の」にして区別しやすくしてます。で、「堅の壽春を征するに」ですね。
「如く」は「ゆく」です。「之」との相違はナゾです。長子は地名ですね。たしか山西南部にあるはず。
雲臺いいですよねー。『呉漢』早く文庫にならないかなー。來歙の死を読んで泣きたい。。。
作者からの返信
こんにちは!
まずは取り急ぎ、ありがとうございます!
(返信編集機能のお陰で気軽にお礼コメントが出来、ありがたい。)
ざっと拝見した感じ、
諸葛長民の時よりは基本を踏まえられたようですね。
踏みこむと、まだ甘さがありますが。
具体的な内容は、のちほど、
それぞれを並べて比較したいな、と思います。
(比較中)
立てる、封ずる、の取り扱いが杜撰でしたね。
この辺り新しく設けるか継承させるかの
違いとかもありますし、
もう少し丁寧に扱わないとです。
>苻堅の子の丕を鄴に攻む
この辺りは順序にものすごく悩みました。
変にこねくるより、素直に行く方がいいですね。
「~は」「~が」の違いは、
文型をもっと意識しないと、と思いました。
>苻堅の國は亂れ、使をして表を奉じて迎えを請う。
あぁ、こうすればいいのか。
結構ムムムと悩んでいました。
>自餘の封拜は各々差有り。
変に開かない方がいいんですね、この辺り。
>堅の壽春を征するに、
自分が書いた奴、地味に意味が通らなくて
笑ってしまいました。
主格の扱いがどうしても杜撰になってしまいますね。
ここは今後の訓読でも要注意ポイントかも。
>盛を以て之を觀る
そうなるのか、と手を打ちました。
>覆敗せざること鮮し
「すくなし」に辿り着けなかったのが悔しい……
進研ゼミに出てた奴なのに!
>如く
しく、ですね。その用法かー、と。
全文拝見して、
やっぱり細かい所への不注意が目立つな、
と言う印象でした。
>後漢書
正直今までの本、だいたい訓読文すっ飛ばしてました。
自分でチャンスを棒に振ってたんだなあ。
まぁ、こんな遊びしようなんて想定していませんでしたがw
この辺りは歴史書ならではの言い回し、みたいなところも多そうですもんね。
自分のやりたいことも割と歴史書表現チックにしたい、ですし、
後漢書も一冊、訓読表現の勉強に持っておきたいと思います。
うっかり雲台二十八将とか始めちゃいそうですがw
改めて、ありがとうございます!
わーい、気付いたときには既に河東さんが全部やっておられたという……。
(゚∇゚;A ナントイウショクニンワザ
改めてお邪魔して、本文から応援コメントまで、じっくり読ませていただきました。
紀伝体の中でも「紀」の部分にはフォーマット(立てる、封ずるのくだりとか、各々差有りとか)がある格好なので、慣れたらすぐだと思います。
副詞節と主節の書き分けは、河東さんのスタイルがカッコいいと私も思います。
訳文「佐藤さんが漢文を読むに当たって」
訓読「佐藤の漢文を読むに当たりて」←この「の」にすると古めかしさが出て大変よろしい
「如く・之く」の「ゆく」はつまずきまくった記憶がありますね。
そのへんが南宋の『襄陽守城録』では全くなくて、現代中国語と同じ「去」が「ゆく」として使われています。すごく口語。
『晋書』の漢文は綺麗で正統派です。
作者からの返信
作者からの返信
ね、これも「わが目を疑う」ですよw
まさか全文やっていただけるとは……
お陰でつぶさな対比ができて、
ここに書いてない部分でも
「ほうほう、こうなるのか、ううむ……」とw
ありがたい限りですw
紀の部分は、プロローグとかインタールード的な
持って回った言い回しで遊べる部分で
使えそうな気がしているんですよね。
劉裕の武帝紀なんか思いっきり伝でしたがw
>古めかしさ
重要なキーワードですね……!
「如」のこの用法は今回初めて出会って、
ものすごく戸惑いました。
と言うか見慣れてる漢字には
ほぼ見慣れない用法が隠されてるもんだ、
と覚悟するべきなんだ、と学びました……(今更)
「晋書」は綺麗なぶん、知識人特有の
持って回った言い回しでだるい、と、
同じくこの時代を調べていらっしゃる方が仰っていました。
そんなもんなんですね……(驚くほど宋書晋書引きこもりマン)