「紫微垣」晋書孝武帝本紀他

巻九 孝武帝本紀


 太元9(384)年。

 1月、武陵王の孫、司馬宝を臨川王に封じた。司馬晞の子、司馬遵を新寧王に立てた。孝武帝は建平陵など四つの陵墓を参拝した。劉牢之が譙城を陥落させた。桓沖の部將・郭寶が新城、魏興、上庸の三郡を攻め、いずれも下した。

 2月、桓沖が死んだ。慕容垂が洛陽から鄴へ進撃、翟遼と共に苻堅の子・苻丕を攻めた。

 3月、謝安を太保とした。前秦の慕容泓と慕容沖が共に反旗を翻した。

 4月、太學生を百人新たに増やした。仇池の張天錫を西平公に封じた。趙統に襄陽を攻めさせ、陥落させた。姚萇が苻堅に背き、北地にて王を自称した。国号は秦を名乗った。

 6月のある朝方、皇太后・褚氏が崩御した。慕容泓が弟の慕容沖に殺された。慕容沖は皇太弟を自称した。

 7月、司空にして高密王の司馬純之を洛陽に派遣、五つの陵墓を修復、参拝させた。褚氏を崇平陵に葬った。百濟の遣使が来貢した。苻堅は慕容沖と鄭西で戦ったが、敗北した。

 8月、郗愔が死亡した。

 9月、謝玄は鄄城を守る前秦の将・張崇を攻め、勝利した。謝安に揚江荊司豫徐兗青冀幽幷梁益雍涼の計十五州諸軍事を督させた。

 10月のある朝、日蝕が起こった。間もなくして河間王・司馬曇之が死んだ。天文の異常を理由に大赦を行った。前新蔡王・司馬晃の弟、司馬崇を新蔡王に立てた。前秦の将・苻朗が兵士を連れて晋に投降した。

 12月、呂光が河右で独立、酒泉公を自称した。慕容沖が阿房宮で皇帝即位を僭称した。


原文:

 九年春正月庚子,封武陵王孫寶爲臨川王。戊午,立新寧王晞子遵爲新寧王。辛亥,謁建平等四陵。龍驤將軍劉牢之克譙城。車騎將軍桓沖部將郭寶伐新城、魏興、上庸三郡,降之。

 二月辛巳,使持節、都督荊江梁寧益交廣七州諸軍事、車騎將軍、荊州刺史桓沖卒。慕容垂自洛陽與翟遼攻苻堅子丕於鄴。

 三月,以衛將軍謝安爲太保。苻堅北地長史慕容泓、平陽太守慕容沖並起兵背堅。

 夏四月己卯,增置太學生百人。封張天錫爲西平公。使竟陵太守趙統伐襄陽,克之。苻堅將姚萇背堅,起兵於北地,自立爲王,國號秦。

 六月癸丑朔,崇德皇太后褚氏崩。慕容泓爲其叔父沖所殺,沖自稱皇太弟。

 秋七月戊戌,遣兼司空、高密王純之修謁洛陽五陵。己酉,葬康獻皇后于崇平陵。百濟遣使來貢方物。苻堅及慕容沖戰于鄭西,堅師敗績。

 八月戊寅,司空郗愔薨。

 九月辛卯,前鋒都督謝玄攻苻堅將兗州刺史張崇于鄄城,克之。甲午,加太保謝安大都督揚、江、荊、司、豫、徐、兗、青、冀、幽、幷、梁、益、雍、涼十五州諸軍事。

 冬十月辛亥朔,日有蝕之。丁巳,河間王曇之薨。乙丑,以玄象乖度,大赦。庚午,立前新蔡王晃弟崇爲新蔡王。苻堅青州刺史苻朗帥衆來降。

 十二月,苻堅將呂光稱制于河右,自號酒泉公。慕容沖僭卽皇帝位于阿房。


訓読文:

 太元九年春正月の庚子、武陵王の孫、寶を臨川王に封じるを為す。戊午、新寧王・晞の子、遵を新寧王に立つるを為す。辛亥、帝は建平陵等四陵を謁す。龍驤將軍・劉牢之が譙城を克す。車騎將軍・桓沖の部將郭寶が新城、魏興、上庸の三郡を伐ち、之を降す。

 二月の辛巳、使持節、都督荊江梁寧益交廣七州諸軍事、車騎將軍、荊州刺史の桓沖が卒す。慕容垂は洛陽より翟遼と共に、鄴にて苻堅の子・丕を攻む。

 三月、衛將軍・謝安を以て太保と為す。苻堅の北地長史・慕容泓、平陽太守・慕容沖が並び起兵し堅に背く。

 夏四月己卯、太學生百人を増置す。張天錫を西平公に封じて為す。竟陵太守・趙統に襄陽を伐たしめ、之を克す。苻堅の將・姚萇が堅に背き、北地にて兵を起し、自ら王として立つ、国の号は秦なり。

 六月癸丑の朔、崇德皇太后・褚氏が崩ず。慕容泓は叔父の沖に殺さるる所と為り、沖は自ら皇太弟を称す。

 秋七月戊戌、司空兼高密王・純之を遣わせ、洛陽の五陵を修し謁せしむ。己酉、康獻皇后を崇平陵に葬る。百濟の遣使が來て方物を貢す。苻堅が慕容沖と鄭西にて戦うや、堅の師は敗績せり。

 八月戊寅,司空・郗愔が薨ず。

 九月辛卯,前鋒都督・謝玄は鄄城の苻堅將・兗州刺史・張崇を攻め、之を克す。甲午、太保・謝安に大都督揚、江、荊、司、豫、徐、兗、青、冀、幽、幷、梁、益、雍、涼十五州諸軍事を加す。

 冬十月辛亥の朔、日に蝕あり。丁巳,河間王・曇之が薨ず。乙丑,玄象の乖度を以て大赦す。庚午、前の新蔡王・晃の弟、崇を新蔡王に立つるを為す。苻堅の青州刺史・苻朗の帥衆が來たりて降ぜり。

 十二月,苻堅の將・呂光が河右にて稱制し、酒泉公と自ずから号す。慕容沖は阿房にて皇帝位に即けりと僭す。



  ◆  ◆  ◆


 太元10(385)年。

 1月、孝武帝が諸陵墓を参拝した。

 2月、國學が立った。任權が前秦の李平を斬り、益州を平定した。

 3月、滎陽人の鄭燮が投降してきた。前秦は大いに乱れ、苻堅は使者を遣わせ、晋に救援を請うてきた。劉牢之と慕容垂が黎陽で戦ったが、劉牢之は敗北した。

 4月、劉牢之と周次が五橋澤で慕容垂と戦ったが、やはり敗北した。謝安は軍を率いて苻堅の救援のため出征した。

 5月、洪水があった。苻堅は太子の苻宏を長安の守りとして留め、自らは五將山に逃亡した。

 6月、苻宏が慕容沖に投降、慕容沖が長安入りした。

 7月、苻丕は鄴を脱出、枋頭から洛陽方面へ逃亡。檀玄は追撃をかけ、苻丕を破った。旱、飢饉が起こった。老人星(カノープス)が姿を現した。

 8月、大赦を為した。謝安が薨去した。謝安に代わり、司馬道子を都督中外諸軍事とした。またこの月、姚萇が苻堅を殺害。皇帝と僭称した。

 9月、呂光が姑臧に拠点を置き、涼州刺史を自称した。苻丕が晉陽で皇帝と僭称した。

 10月、淝水の戦いの功績が論じられ、謝安を廬陵郡公に追封、また謝石を南康公に、謝玄を康樂公に、謝琰を望蔡公に、桓伊を永脩公にそれぞれ封じた。他の者もそれぞれ功績に応じた爵位に封じられた。

 この年、乞伏國仁が大單于、秦河二州牧を自称した。


 太元11(386)年。

 1月、慕容垂が中山にて皇帝と僭称した。翟遼が黎陽を襲撃、太守の滕恬之を捕えた。孝武帝は諸陵墓を参拝した。慕容沖の將・許木末が長安で慕容沖を殺した。



原文:

 十年春正月甲午,謁諸陵。

 二月,立國學。蜀郡太守任權斬苻堅益州刺史李平,益州平。

 三月,滎陽人鄭燮以郡來降。苻堅國亂,使使奉表請迎。龍驤將軍劉牢之及慕容垂戰于黎陽,王師敗績。

 夏四月丙辰,劉牢之與沛郡太守周次及垂戰于五橋澤,王師又敗績。壬戌,太保謝安帥衆救苻堅。

 五月,大水。苻堅留太子宏守長安,奔于五將山。

 六月,宏來降,慕容沖入長安。

 秋七月,苻丕自枋頭西走,龍驤將軍檀玄追之,爲丕所敗。旱,饑。丁巳,老人星見。

 八月甲午,大赦。丁酉,使持節、侍中、中書監、大都督十五州諸軍事、衛將軍、太保謝安薨。庚子,以琅邪王道子爲都督中外諸軍事。是月,姚萇殺苻堅而僭卽皇帝位。

 九月,呂光據姑臧,自稱涼州刺史。苻丕僭卽皇帝位于晉陽。

 冬十月丁亥,論淮肥之功,追封謝安廬陵郡公,封謝石南康公,謝玄康樂公,謝琰望蔡公,桓伊永脩公,自餘封拜各有差。

 是歲,乞伏國仁自稱大單于、秦河二州牧。


 十一年春正月辛未,慕容垂僭卽皇帝位于中山。壬午,翟遼襲黎陽,執太守滕恬之。乙酉。謁諸陵。慕容沖將許木末殺慕容沖于長安。


訓読文:

 太元十年春正月、諸陵を謁す。

 二月、國學が立つ。蜀郡太守・任權が苻堅の益州刺史・李平を斬り、益州は平らぐ。

 三月、滎陽人の鄭燮が郡を以て來降す。苻堅の國は亂れ,使を奉じて表し迎うるを請わしむ。龍驤將軍・劉牢之と慕容垂が黎陽にて戦い、王師敗績せり。

 四月丙辰、劉牢之と沛郡太守・周次が垂と五橋澤にて戦い、王師は又た敗績せり。壬戌、太保・謝安は衆を帥し、苻堅を救わんとす。

 五月、大水あり。苻堅は太子の宏を長安の守りとして留め、五將山に奔る。

 六月、宏が來降し、慕容沖は長安に入る。

 秋七月、苻丕は枋頭より西に走り、龍驤將軍・檀玄は之を追い、丕の敗する所と為る。旱、饑あり。丁巳、老人星が見ゆる。

 八月甲午、大赦す。丁酉、使持節、侍中、中書監、大都督十五州諸軍事、衛將軍、太保謝安が薨ず。庚子,琅邪王・道子を以て都督中外諸軍事と為す。是の月、姚萇は苻堅を殺し、皇帝位につくを僭せり。

 九月、呂光は姑臧に拠し、涼州刺史を自ずから称せり。苻丕は晉陽にて皇帝位に即すを僭せり。

 冬十月丁亥、淮肥の功を論じ、謝安を廬陵郡公に追封し、謝石を南康公に、謝玄を康樂公に、謝琰を望蔡公に,桓伊を永脩公に封じ、餘封の拜さるや、自ずから各れ差あり。

 是の歲、乞伏國仁が大單于、秦河二州牧を自ずから称す。


 十一年春正月辛未、慕容垂が中山にて皇帝位に即せりと僭す。壬午、翟遼が黎陽を襲い、太守・滕恬之を執らえる。乙酉、諸陵を謁す。慕容沖の將・許木末が長安にて慕容沖を殺す。



  ◆  ◆  ◆


卷一一一 載記第一一 慕容暐


 苻堅は前燕を攻め滅ぼしたのち、慕容暐とその係累、並びに鮮卑40000戶あまりを長安に移住させた。慕容暐を新興侯に封じ、尚書とした。苻堅が淝水の戦いに向けて出征する時、慕容暐を平南將軍として別動隊の司令官に任じた。淝水での大敗後、苻堅と共に長安に帰還したが、この頃慕容垂は苻丕の守る鄴を攻めており、また慕容沖が長安のすぐそばで挙兵していた。そこで慕容暐も苻堅を殺すことでこれらの動きに合流しようとしたが、計画が発覚し、苻堅に殺された。この時慕容暐は35歳。慕容德が南燕を建てた時、慕容暐に幽皇帝と諡した。



原文:

 堅徙暐及其王公已下並鮮卑四萬餘戶于長安,封暐新興侯,署為尚書。堅征壽春,以暐為平南將軍、別部都督。淮南之敗,隨堅還長安。既而慕容垂攻苻丕于鄴,慕容沖起兵關中,暐謀殺堅以應之,事發,為堅所誅,時年三十五。及德僭稱尊號,偽諡幽皇帝。


訓読文:

 堅は暐、及び其の王公以下、並びに鮮卑四萬餘戶を長安に徙し,暐を新興侯に封じ、署して尚書と為す。堅は壽春に征し、以て暐を平南將軍、別部都督と為す。淮南にて敗するや堅に隨い長安に還る。既にして慕容垂は苻丕を鄴に攻め、慕容沖は關中にて起兵せり。暐は堅を殺して以て之に應ぜんと謀るも、事發し、堅の誅される所と為る,時に年三十五。德が尊號を僭稱せるに及び、幽皇帝と偽諡さる。



  ◆  ◆  ◆


卷一一六 載記第一六 姚萇


 苻堅は慕容沖に攻め立てられると単身敗走、五將山に逃げ込んだ。主を失った長安城は間もなく陥落、慕容沖は長安城入りした。苻堅の配下であった權翼、趙遷、皇甫覆、薛贊、段鏗ら文武数百人は姚萇の元に逃げ込んだ。姚萇は呉忠に騎兵を率いさせ

五将山へ派遣、苻堅を包囲した。姚萇は新平にて待機した。間もなく呉忠は苻堅を捕縛、姚萇の元に連行した。



 慕容沖は高蓋に50000の兵を率いて遣わせ、秦に攻撃を仕掛けた。しかし新平の南にて戦い、大敗した。このため高蓋は麾下数千人を率いて投降した。散騎常侍を拝領した。



原文:

・時苻堅為慕容沖所逼,走入五將山。沖入長安。堅司隸校尉權翼、尚書趙遷、大鴻臚皇甫覆、光祿大夫薛贊、扶風太守段鏗等文武數百人奔於萇。萇遣驍騎將軍吳忠率騎圍堅,萇如新平。俄而忠執堅,送之。


・慕容沖遣其車騎大將軍高蓋率眾五萬來伐,戰于新平南,大破之,蓋率麾下數千人來降,拜散騎常侍。


訓読文:


・時に苻堅は慕容沖に逼らる所と為り、走りて五將山に入る。沖は長安に入る。堅の司隸校尉・權翼、尚書・趙遷、大鴻臚・皇甫覆、光祿大夫・薛贊、扶風太守・段鏗ら文武数百人は萇に奔る。萇は驍騎將軍・吳忠に騎を率いさせ遣わし堅を圍み、萇は新平に如す。俄に忠は堅を執え、之を送る。


・慕容沖は其の車騎大將軍・高蓋に衆五万を率いて遣わせ來伐し、新平の南にて戦わしむも、之れ大いに破れる。蓋は麾下数千人を率いて來降、散騎常侍を拝す。



  ◆  ◆  ◆


卷一二四 載記第二四 慕容盛


 慕容盛は字を道運と言う。慕容宝の庶長子である。幼少にして寡黙にして聡明、謀略を講ずるに長けていた。苻堅が長安にて慕容暐の暗殺計画発覚に伴う慕容氏の誅殺を為した時、慕容盛は慕容沖の元へと密かに亡命を果たした。しかし慕容沖は皇帝即位を自称すると、その権限を自分の得のためにしか用いなかった。賞罰は均等ではなく、政令は公正感に欠けている。このとき慕容盛は12歳だったが、叔父の慕容柔に「慕容沖は賢いとは言えませんし、その才も悪すぎない、と言った程度でしかありませんね。褒賞を人に施すと言ったこともなく、ひたすらに驕横の振る舞いが目立つばかり。わたしには、間違いなく敗亡するようにしか思えません。」と話した。間もなく慕容沖は段木延に殺された。慕容盛は慕容永に従って東に下り、長子に移住した。



原文:

 盛字道運,寶之庶長子也。少沈敏,多謀略。苻堅誅慕容氏,盛潛奔於沖。及沖稱尊號,有自得之志,賞罰不均,政令不明。盛年十二,謂叔父柔曰:「今中山王智不先眾,才不出下,恩未施人,先自驕大,以盛觀之,鮮不覆敗。」俄而沖為段木延所殺,盛隨慕容永東如長子。


訓読文:

 盛は字を道運、宝の庶長子なり。少なくして沈にして敏,謀略多し。苻堅が慕容氏を誅するや、盛は潛み沖へと奔す。沖の尊號を稱するや、自得の志あり、賞罰は均らかならず、政令は明らかならず。盛は年十二、叔父の柔に謂いて曰く「今、中山王の智は衆に先さず、才は下に出でず、恩は未だ人に施さるることなく、先に自ずから驕大となり、以て盛は之を觀るに、鮮ち敗るるは覆らず」と。俄に沖は段木延の殺さるる所と為り、盛は慕容永に従い、東し、長子に如す。

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