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「祭已畢焉」晋書諸葛長民伝

晋書巻八十五列伝第五十五 諸葛長民伝


(全四段)


 諸葛長民は琅邪郡陽都県の人である。文武に才を示したが、素行の悪いこと甚だしく、親族よりは疎まれていた。


 桓玄が平西軍府の軍事に携わるよう招聘したが、間もなくその素行ゆえに免職となった。


 404年、劉裕が桓玄打倒のクーデターを起こすとき、諸葛長民もともに計画に加わった。この頃の諸葛長民は揚武將軍であった。

 クーデターの功績から輔國將軍、宣城內史となった。


 逃亡する桓玄を守るため、桓玄の兄、桓歆が軍を編成、曆陽に進軍してきた。諸葛長民は桓歆を破り、敗走させた。

 また劉敬宣と共に追撃、芍陂にて桓歆を倒した。

 この功から、新淦の県公(食邑二千五百戶)に封じられ、また淮河北部の諸軍事を総督する立場として、山陽に拠点を構えることとなった。


 410年、南燕の慕容超が、下邳を荒らして回った。

 諸葛長民は部將の徐琰を派遣、南燕軍を撃退させた。

 この功績から使持節、青州及び揚州諸軍事の総督、青州刺史兼晉陵太守となり、拠点を丹徒に移した。すなわち、京口周辺の軍の総取締役となった。

 輔國將軍、新淦県公であることは以前のままだった。



原文

 諸葛長民,琅邪陽都人也。有文武幹用,然不持行檢,無鄉曲之譽。桓玄引為參軍平西軍事,尋以貪刻免。及劉裕建義,與之定謀,為揚武將軍。從裕討桓玄,以功拜輔國將軍、宣城內史。于時桓歆聚眾向曆陽,長民擊走之,又與劉敬宣破歆於芍陂,封新淦縣公,食邑二千五百戶,以本官督淮北諸軍事,鎮山陽。義熙初,慕容超寇下邳,長民遣部將徐琰擊走之,進位使持節、督青揚二州諸軍事、青州刺史,領晉陵太守,鎮丹徒,本號及公如故。


書き下し文

 諸葛長民、琅邪郡陽都県の人なり。文武の幹用あり、然れども行檢を持せず、鄉曲の譽れ無し。桓玄は引きて參軍平西軍事と為し、尋いで貪刻を以て免ぜらる。劉裕が義を建ずるに及び、之と謀を定め、揚武將軍となる。裕の桓玄を討つに従い、その功を以て輔國將軍、宣城內史を拝す。時に、桓歆、衆を集め、曆陽に向かうも、長民は之を擊ちて走せしめ、又た劉敬宣と共に歆を芍陂にて破り、新淦縣公(食邑二千五百戶)に封ぜられ、本官を以て淮北諸軍事を督し、山陽に鎮ず。義熙の初、慕容超が下邳を寇し、長民は部將の徐琰を遣じて之を撃ちて走せしめ、使持節、督青揚二州諸軍事、青州刺史に進位し、晉陵太守を領し、丹徒に鎮し、本號及び公、故の如し。



  ◆  ◆  ◆



 410年、五斗米道の廬循が決起。参謀の徐道覆が何無忌(桓玄討伐の盟友)を敗死させ、その勢いのまま建康に向けて進軍した。


 このニュースに建康の人々は恐れおののいた。諸葛長民は兵を率いて建康の防備を固めた。また朝廷には「妖賊どもは造船のために多くの木を伐採していたが、南康相・郭澄之は数年もの間その事実を隠蔽していた。水面下で五斗米道と繋がり、何無忌を欺いていたのだ。その罪は斬罪に値する」と表明した。

 しかし、郭澄之が罪に問われることはなかった(諸葛長民の表明が、根拠なき讒言として取り扱われた)。



 五斗米道軍は廬循と徐道覆の足並みが余り揃ってはいなかったのだが、それでも劉毅を破り、共に長江を下り、建康に迫った。

 建康の人々の恐慌ぶりは甚だしく、諸葛長民も、安帝を長江の北に避難させた方が良いのではないか、と劉裕に提案した。

 しかし劉裕は却下し、諸葛長民と劉毅を石頭城防衛として北陵に布陣させた。


 五斗米道の乱が平定されると、諸葛長民は豫州、及び揚州の六郡にまつわる諸軍事の総督とされ、豫州刺史として転任、淮南太守を兼任することとなった。


原文

 及何無忌為徐道覆所害,賊乘勝逼京師,朝廷震駭,長民率眾人衛京都,因表曰:「妖賊集船伐木,而南康相郭澄之隱蔽經年,又深相保明,屢欺無忌,罪合斬刑。」詔原澄之。及盧循之敗劉毅也,循與道覆連旗而下,京都危懼,長民勸劉裕權移天子過江。裕不聽,令長民與劉毅屯於北陵,以備石頭。事平,轉督豫州揚州之六郡諸軍事、豫州刺史,領淮南太守。


書き下し文

 何無忌が徐道覆に害さる所と為るに及び、賊は勝ちに乗じて京師に逼り、朝廷震駭す。長民は眾人を率いて京都を衛し、因りて表して曰く:「妖賊が船を集めて木を伐せしも、南康の相の郭澄之、隠蔽すること年を經、又た深く相い保明し、屢ば無忌を欺けり。その罪、斬刑に合す。」詔して澄之を原す。盧循の劉毅を敗るに及ぶや、循は道覆と旗を連ねて下り、京都は危懼せり。長民は劉裕に勸めていわく、權に劉裕に天子を権して江を過せよ。裕は聽さず、長民と劉毅をして北陵に屯して以て石頭に備えさしむ。事が平ぐと、督豫州揚州之六郡諸軍事、豫州刺史に転じ、淮南太守を領す。



  ◆  ◆  ◆


 劉裕が劉毅を討つために長江を遡り、江陵に向かうにあたって、諸葛長民を太尉府に留めてその諸事の監督をさせ、また参内の折には甲杖五十人を引き連れることを認めた。


 しかし諸葛長民は驕って贅沢を好み、政事も顧みず、財宝美女をかき集め、豪勢な邸宅を造営するなど、好き放題に振る舞っていた。また殘虐な振る舞いも多く、庶民らを苦しめていた。


 とは言え自らの行いが無法なものであることは理解しており、常に国からの処罰に怯えていた。


 そして劉毅が滅ぼされると、諸葛長民は親しい者に

「漢の高帝劉邦は、配下武将の彭越を殺し、韓信を攻め殺した。以前には彭越(桓玄戦時に命令違反の咎で殺された魏欣之(魏詠之の兄)のことか)が、そして昨年には韓信(劉毅のこと)が殺された。禍いが、遂にやってきたのだ」

 と語っていた。


 諸葛長民は謀反を立ち上げようと決意したが、一方では太尉府で勤務していた劉裕の参謀・劉穆之には

「皆々が、おれと劉裕殿が不和であると噂しているのだが、いったいこれはどうしたことだろうな」

 と訊ねていた。すると劉穆之は返答した。

「劉裕様は劉毅討伐に際して、かれの老いたお母様、病に伏せられた弟御(劉道規。武将として大功を上げていたが病に伏し、この直後辺りに死亡している)を将軍にお任せになったではありませんか。そのようなこと、不和の間柄の人間になどお任せできるでしょうか!」


 諸葛長民の弟・諸葛黎民は、小狡い人柄であり、目先の小利を好んだ。かれは諸葛長民に

「黥布や彭越は、お互いに連携を取ると言ったことができず、そのために劉邦に滅ぼされ、勢を全うできなかったのだ。劉毅を滅ぼされたのは、おれたち諸葛氏にとっても危機だ、と言える。劉裕が建康に戻ってくる前に決起するべきだ」

と強く勧めた。


 しかし諸葛長民は逡巡し、結局決起をすることができなかった。ついには嘆息しつつ

「貧しかった時には金持ちになりたいと思っていたが、いざ金持ちになってみれば、こんな危機に陥ろうとは。今さら京口の一庶民に戻りたいなどと願っても、もはや叶いもすまい」

 と呟いた。


 そもそも劉裕は諸葛長民のことを警戒していた。

 前もって帰還の日時を知らせ、大急ぎで軍を引き返させた。その日になって東晋の百官が劉裕の出迎えに出た。だが、劉裕自身は軍に先行し小舟を駆って、密かに東府に帰還していた。


 翌日、諸葛長民は劉裕が既に東府城に戻っていることを聞き、慌てて東府城に向かった。劉裕は、武将の丁旿をカーテンの中に潜ませ、諸葛長民と引見、それまでに抱えていた不満などを皆打ち明けさせた。

 不満が聞き入れられたことに諸葛長民は喜んだが、直後丁旿に背後から押し倒され拘束、そのまま殺された。その屍はかごに乗せられ、廷尉に運ばれた。


 諸葛黎民にも捕獲のための兵を派遣。

 諸葛黎民の武勇は人並み外れたものであったため兵らは苦戰、捕えることが叶わず、殺さねばならなかった。


 また別の弟である諸葛幼民は、大司馬・司馬徳文(のちの恭帝)の部下であったが、山に逃げこんでいた。追撃の手は諸葛幼民にも伸び、捕らわれ、殺された。


 諸葛長民らの誅殺について、人々はむしろ裁かれるのが遅すぎた、と恨み言すら漏らす始末であった。誰もがこの経緯を当然のことと受け入れていた。



原文

 及裕討毅,以長民監太尉留府事,詔以甲杖五十人入殿。長民驕縱貪侈,不恤政事,多聚珍寶美色,營建第宅,不知紀極,所在殘虐,為百姓所苦。自以多行無禮,恆懼國憲。及劉毅被誅,長民謂所親曰:「昔年醢彭越,前年殺韓信,禍其至矣!」謀欲為亂,問劉穆之曰:「人間論者謂太尉與我不平,其故何也?」穆之曰:「相公西征,老母弱弟委之將軍,何謂不平!」長民弟黎民輕狡好利,固勸之曰:「黥彭異體而勢不偏全,劉毅之誅,亦諸葛氏之懼,可因裕未還以圖之。」長民猶豫未發,既而歎曰:「貧賤常思富貴,富貴必履機危。今日欲為丹徒布衣,豈可得也!」裕深疑之,駱驛繼遣輜重兼行而下,前克至日,百司於道候之,輒差其期。既而輕舟徑進,潛入東府。明旦,長民聞之,驚而至門,裕伏壯士丁旿于幕中,引長民進語,素所未盡皆說焉。長民悅,旿自後而殺之,輿屍付廷尉。使收黎民,黎民驍勇絕人,與捕者苦戰而死。小弟幼民為大司馬參軍,逃於山中,追擒戮之。諸葛氏之誅也,士庶咸恨正刑之晚,若釋桎梏焉。


書き下し文

 裕の毅を討つに及び、長民を以って太尉留府の事を監せしめ、詔して甲杖五十人を以って殿に入らしむ。長民は驕縱貪侈にして政事を恤えず、珍寶美色を多く聚め、第宅を營建し、紀極を知らず、所在殘虐、百姓の苦しむ所と為る。自ら多く無禮を行うを以って、恆に國憲を懼る。劉毅の誅さるに及び、長民は親しき所に謂って曰く「昔年に彭越を醢とし、前年に韓信を殺す。禍い其れ至らんか」と。謀りて亂を為さんと欲し、劉穆之に問うて曰く「人間の論者の謂えらく『太尉は我と平らかならず』と。其の故は何ぞや?」と。穆之曰く「相公西へ征するに、老母弱弟、之を將軍に委ねゆ、何をか平らかならざると謂わんや!」長民の弟黎民、輕狡にして利を好み,之に固く勸めて曰く「黥・彭は異體にして勢は偏に全きを得ず。劉毅の誅は亦た諸葛氏の懼なり、裕の未だ還らざるに因りて以て之を圖るべし。」と。長民は猶豫して未だ發たず、既に歎じて曰く「貧賤にあれば常に富貴を思うも、富貴となれば必ず機危を履む。今日、丹徒の布衣為らんと欲すれど、豈に得可けんや!」と。裕は之を深く疑い、駱驛に繼ぎ遣い、輜重兼行して下れり。前に至る日を克め、百司は道に之を候するも、輒ち其の期に差えり。既にして輕舟にて徑進し、潛みて東府に入れり。明旦、長民は之を聞き、驚き而して門に至れり。裕は壯士の丁旿を幕中に潜ませ、引きて長民に語を進め、素より盡さざる所を皆說けり。長民は悅ぶも、旿は後より拉して之を殺し、屍を輿せて廷尉に付す。黎民を收めしむるに、黎民の驍勇人に絕ち、捕うる者と苦戰して死す。小弟の幼民、大司馬參軍と為るも、山中に逃げ、追って擒え、これを戮す。諸葛氏の誅さるるや、士庶は咸な刑を正すの晚きを恨み,桎梏を解かるるが若し。



  ◆  ◆  ◆


 さて、諸葛長民が立身して後、一月の内数十夜ほど、眠中に突然起き出しては暴れ回るようになっていた。その様子は誰かと争い合っているかのようであった。


 ある日毛修之が、宿所を諸葛長民と同じくした。そこで諸葛長民のこの様子に遭遇したため驚き、その訳を問うた。


 諸葛長民は

「何かが忍び寄ってくるんだ。

 それは黑い剛毛を生やし、足がどのようになっているのかはよくわからないんだが、とにかく恐ろしく強い。

 おれでなければ奴を抑え切れない。

 奴は姿を変え、ちょくちょくおれの元に現れている。

 たとえば柱や天井の隙間のあらゆるところから蛇頭のようなものを見せてきたりとか。部下に命じて切り殺してやろうとすれば奴はすぐに闇に引っ込み、部下が去った後にまた出てきやがった。

 また、擣衣杵どうしが、何かを喋ってたりしたこともあった。何を言っているのかはわからなかったが。

 他にも奴は、壁にはりついた巨大な手として現れたこともあった。

 長さは七、八尺くらい、その全長を考えれば、腕だけで俺を取り囲めそうなほどだ。この時もやはり部下に切り殺させようとしたが、ぱっと消えやがったんだ」

 と毛脩之に語った。


 その数日後、諸葛長民は殺された。



原文

 初,長民富貴之後,常一月中輒十數夜眠中驚起,跳踉,如與人相打。毛修之嘗與同宿,見之駭愕,問其故,長民答曰:「正見一物,甚黑而有毛,腳不分明,奇健,非我無以制之。其後來轉數。屋中柱及椽桷間,悉見有蛇頭,令人以刀懸斫,應刃隱藏,去輒復出。又擣衣杵相與語如人聲,不可解。於壁見有巨手,長七八尺,臂大數圍,令斫之,豁然不見」。未幾伏誅。



書き下し文

 初、長民が富貴たるの後、一月の中、輒ち十數夜、眠中に驚きて起し、跳ね踉り、人と相打つが如きを常とす。毛修之は嘗て同宿し、之を見て駭愕し、其の故を問えば、長民の答えて曰く「正に一物を見る。甚だ黑く毛を有し、腳は分明ならざるも奇しく健なり。我の以って之を制する無きに非ず。」其の後、來たること轉た數あり。屋中の柱及び椽桷の間に悉く蛇頭の有るを見る。人をして刀を以って懸斫せしめれば、刃に応じて隱藏し、去れば輒ち復た出る。又た擣衣杵の相い與に語ること人聲の如きも、解すべからざるなり。壁に巨手の有るを見る。長七、八尺、臂の大なること數圍、之を斫らしむれば豁然として見えず。」と。未だ幾ばくもせず、誅に伏す。

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