宋書武帝紀 終 高祖武帝

 永初元年六月、南郊に祭壇が組まれた。劉裕が皇帝となったことを柴の煙が天に告げた。


「皇帝たる臣、裕が上古よりの儀礼に従って黒毛の牛を捧げ、明らかに、天帝に申し上げる。

 しんの皇帝は裕へと天命が移行した旨に気付かれ、つつしみて天命に従い、裕に即位をお命じになられた。

 君子を立てて世を統べるに、子でなく臣下に継承をなさるは、徳に満ちた帝王を民が喜んで推挙し、その声が募るからである、と言う。遙かな昔の、堯や舜。時が下れば、漢や魏。最も優れた哲人が帝王の廟を継ぎ、最も際立った臣下が帝位に就く。これらは覆しようのないこと。ならば我も、大いに民を助け、すべての民を導かねばなるまい。

 しんがこの建康けんこうに移って以来、道徳は退潮となり、宰相らがこれをなんとか補うことで、そして安帝あんてい即位直後に難局は極まり、ついに桓玄かんげんによる簒奪と、帝の城外追放を招いた。これにより、一度晋の祭祀は絶えてしまった。

 この劉裕りゅうゆう斉桓公せいかんこう晋文公しんぶんこうのごとき地盤を持たず、配下もいなかったが、主上の味わわれた苦難に憤激し、世の中に災いが横溢するのに悲しみ、旗一本を振るって立ち上がり、晋室の回復をなしえた。苦難が迫れば帝を守り、混乱がもたらされればよく補佐した。法を犯し、乱を興さんとする者はみな討ち滅ぼし、王位の僭称者もまた討伐した。

 それにつけても、まこと、天運の衰亡とは、否応なしに生じてしまうものである。再び晋室が盛り立てられ、乱を平らげ、民を救ううち、徐々に世の重心が傾き始めたようである。また、異郷の民も通訳を伴い、宮廷に謁見に訪れるようになった。皇帝の威儀の前に、皆が服するようになった。

 これらを太陽・月・星が慶賀し、山や川の神も祝福を兆した。祖先の霊たちよりも幸福がもたらされ、それは歳月を追うごとに募った。これらの現象を目の当たりとし、公爵以下多くの臣民から、塞外の地に住まう蛮族に至るまでが、みな口を揃え、言い出した。天上では天帝が見守られており、地上では晋の霊が誠を尽くす。これ以上天命を疎かとはできず、これ以上極位を荒らさせるわけにもゆかぬのです、と。

 彼らの声を、これ以上退けるわけにもゆかず、かくて裕は、かたじけなくも即位の大礼を実施するに至った。

 畏れ多くも、この徳少なき者に民草を統べる役が与えられた。天よりの霊威を恐れつつも、なおも儀礼の細々としたところは省略せずにおれぬ状態ではあるが、霊威を恐れること実に深く、それはあたかも雷を恐れるがごとくである。

 かくて良き日取りを定め、壇上に登りて受禅の旨を天帝にご報告申し上げ、天下万民の声に応えた次第である。下された天命をより盛んとし、宋に永らくの福がもたらされるよう、ここに神霊のため、祭祀をなす」


また、即位後の詔勅に言う。


「世代が移り、天子が変わるのには、状況により、様々な交代の事情が発生するものだ。ただし、国土を救い、民を盛り立てたものが先の天子に代わり立つ、と言う点に関しては、世が移ろうが、変わるものでもない。

 朕は非才の者に過ぎぬが、国難の時代に巡り会い、多くの人々らの力により、苦難に溺れる者らを救い、世を正し、乱を治めて参った。国を、民を安んじるための道は未だ上古の王の業績に比べて半ばにも届くまい。しかし功績だけで言えば、なんとか顔向けできる程度にはなったであろうか。

 晋の国は多くの難題に直面し、ついに天命を喪うに至った。かくて先帝は謹んで古よりの規範に則り、朕に天命を受けるよう、お命じになられた。

 この身が天命を継承するに相応しい徳を抱いているとは到底思えず、辞退したのだが、認められず、かくて天地人の神霊にご報告すべく南郊にて柴を焼き、黄帝こうてい以来の系譜に名を連ねたのである。

 多くの賢人らよりの推挙、人々よりの心底の推薦。これらを受け、今ここに新たなる国の始まりが大いに祝福されている。瑞祥にもまた事欠かぬ。よって天下に大赦をなし、晋の元熙げんき二年を改め、宋の永初えいしょ元年とする。

 民はそれぞれ爵位を二階級昇進。家族と死別した者のうち、自力での生活が難しい者にはひとりあたり五斛の穀物を与える。生活苦のため租税を納めきれぬ者についても、ここまでの未納分は解消とせよ。また、ここまでに発生した諸犯罪を犯して発生した罰も、一律で放免とせよ。遠流を受けている者も故郷に帰し、失脚者失爵者、幽閉者などについてもこの段階で解放とせよ」


 恭帝は零陵王に降格となった。諸制度は晋朝のものを引き継いだ。劉裕の発言は表でなく、詔として表されるようになった。父劉翹には孝穆皇帝と、生母趙安宗には穆皇后とそれぞれ追贈、継母蕭文寿には皇太后位を与えた。


また、晋の功労者の扱いに関し、以下の詔勅が下された。


王のごとき聖徳は、子々孫々の世に至るまで感嘆を禁じ得ぬものである。故にその聖徳には祭祀がなされるべきであり、百世代の子孫に至るまで聖徳によって道義が示されよう。

 しんの時代の封爵は、その状況により様々な改変が加えられた。例えば管仲かんちゅうのごとく帝を補佐したり、その功績によって民草を救ったり、人民を愛し国の安定化をなした者はその徳が喪われることはない。たとえ時代が下り、国姓が変われど、彼らが示した義は消滅しない。晋の名臣らへの祭祀の規模は減損されねばならぬが、その基準は、過去の基準に従う。

 王導おうどう様を祀る始興しこう郡公は始興県公に。謝安しゃあん様を祀る廬陵ろりょう郡公は柴桑さいそう県公に。食邑はそれぞれ千戸とする。温嶠おんきょう様を祀る始安しあん郡公は荔浦れいほ県侯に。陶侃とうかん様を祀る長沙ちょうさ郡公は醴陵ほうりょう県侯に。謝玄しゃげん様を祀る康樂こうらく郡公は康樂縣侯に。食邑はそれぞれ五百戸とする。

 おのおの、新たな封爵にて、晋の世にて大功をお挙げになった名臣がたを祀られよ。

 なお義熙ぎき年間、この劉裕りゅうゆうとともに艱難辛苦をくぐり抜けた者たちの爵位食邑は、減損無しとする。

 また晋の世にて臨川りんせん王であらせられた司馬宝しばほう様については 西豐せいほう縣侯、食邑千戶とする」


 司空・劉道憐を太尉とし、また長沙王に封じた。劉道規には臨川王位を追封、伴い爵位を継いだ南郡公・劉義慶が臨川王となった。尚書僕射・徐羨之には鎮軍將軍位を加えた。右衞將軍・謝晦には中領軍、宋國領軍・檀道濟には護軍將軍、中領軍・劉義欣には青州刺史をそれぞれ与えた。


 桂陽公・劉義真を廬陵王に、彭城公・劉義隆を宜都王に、第四皇子・劉義康を彭城王とした。


 己卯、晉の泰始曆を永初曆に改めた。


 秋七月、戦乱にて荒れ果てた地より逃げ延びてきた者たちを元の土地に戻した。また市稅を軽減した。後秦討伐の戦傷者及び家族、戦死者遺族に補償を行った。

 己丑、陳留王・曹虔嗣が死んだ。(※曹操の子孫。晋へ禅譲して以来、曹氏は代々陳留王位を継承している。)


 辛卯,五校及び三將官を置き、殿中將軍を二十人増員、他の者も員外とした。戊戌,後將軍にして雍州刺史・趙倫之を安北將軍とし、征虜將軍にして北徐州刺史・劉懷慎を北平將軍に、征西大將軍にして開府儀同三司・楊盛(※後仇池)を車騎大將軍とした。甲辰,鎮西將軍・李歆(※西涼)を征西將軍に、平西將軍・乞伏熾盤(※西秦)を安西大將軍に、征東將軍・高璉(※高句驪)を征東大將軍に、鎮東將軍・扶餘映(※百濟)を鎮東大將軍とした。東宮には冗從僕射、旅賁中郎將官を置いた。


 戊申,神主を太廟に移すと、劉裕は車駕に乗って参拝した。


 八月戊午,西中郎將にして荊州刺史の宜都王・劉義隆を鎮西將軍とした。


 青州を廃し、兗州に統合した。


 辛未,臧愛親(※劉裕の最初の妻、408年に夭折)に敬皇后と追贈した。癸酉、劉義符を王太子から皇太子とした。


 丁酉,特進、左光祿大夫・孔靖に開府儀同三司を加えた。


 九月壬子,東宮に殿中將軍十人,員外二十人を配置した。壬申,都官尚書を設置した。


 冬十月辛卯,晉が用いていた王肅祥禫二十六月儀を、鄭玄二十七月に改めた。


 十二月辛巳朔,劉裕は延賢堂で聴訟した。


 二年春正月辛酉,劉裕は南郊の祠を参拝、大赦を行った。丙寅,金銀の塗装を禁じた。揚州刺史にして廬陵王・劉義真を司徒とし、尚書僕射にして鎮軍將軍・徐羨之を尚書令、揚州刺史とした。丙子,南康の揭陽蠻が反乱を起こした。郡県の諸将らが平定した。己卯,喪事に銅釘を用いるのを禁じた。會稽郡府を解散させた。

 二月己丑,劉裕は延賢堂で諸州の郡秀才、孝廉選抜試験を観覧した。揚州の秀才・顧練、豫州の秀才・殷朗が優秀な成績を収めたので、著作佐郎に任じた。戊申、中二千石を公田一頃とした。


 三月乙丑,荊州府には将が二千人、吏が一万人を超えないよう制定していたが、その制限を上げ、将五百人、吏五千人以下とした。兵士についてはこの限りではなかった。


 戊申,劉裕は華林園で聽訟した。己亥,左衞將軍・王懿を冀州刺史とした。


 五月己酉,東宮に屯騎、步兵、翊軍三校尉官を置いた。

 甲戌,劉裕はふたたび華林園で聽訟した。


 劉裕はふたたび華林園で聽訟した。甲辰、四品以下の官吏が不正を為した場合には杖打ち四十回の刑が科されると定めた。


 秋七月、地震があった。


 八月、劉裕は華林園で聽訟した。


 九月、司馬徳文が死んだ。劉裕は百僚を率いて朝堂にて哭葬を行った。魏の明帝が山陽公(※後漢献帝・劉協)に官位追贈を行ったことに倣い、太尉持節監護を追贈、葬儀は晉の禮によって執り行われた。


 己亥,沮渠蒙遜(※北涼)を鎮軍大將軍、開府儀同三司、涼州刺史に任じた。癸卯,劉裕は延賢堂で聽訟し、員外散騎常侍・應襲を寧州刺史に任じた。


 三年正月、大赦を行った。

 壬子、王懿を徐州刺史とした。癸丑,尚書令にして揚州刺史・徐羨之を司空、錄尚書事とし、刺史の地位はそのままとした。撫軍將軍にして江州刺史・王弘を衞將軍、開府儀同三司とし、太子詹事・傅亮は尚書僕射に、中領軍・謝晦は領軍將軍につけられた。乙卯、輔國將軍・毛德祖を司州刺史とした。


 豫州刺史にして彭城王・劉義康を南豫州刺史とした。征虜將軍・劉粹を豫州刺史とした。また、荊州のうち十郡を湘州とし、左衞將軍・張邵を湘州刺史に任じた。戊寅、徐州の梁郡を豫州に戻した。


 三月、劉裕が病を得た。

 劉道憐、徐羨之、傅亮、謝晦、檀道濟らが医薬を持って侍った。群臣は神祇への祈祷を行おうとしたが、劉裕は許さなかった。ただし侍中・謝方明だけは祈祷を行った。

 丁未,劉義真を車騎將軍、開府儀同三司、南豫州刺史とした。

 劉裕の病状は悪化した。己未,大赦がなされた。

 この頃秦州や雍州の難民が梁州へと流入していた。庚申、紵絹や米などを支援物資として送った。辛酉、亡命者の刁彌が建康城に攻め込み、侵入を許したが、太尉府の太尉司馬・陸仲元が討ち果たした。


 四月、楊盛を武都王に、楊撫を安南將軍に任じた。丁亥、車騎司馬・徐琰を兗州刺史とした。庚寅、孔靖が死んだ。


 五月、劉裕の病状はさらに悪化した。劉義符を招き

「檀道濟に幹略はあるが、大きな戦略を描けるような人間ではない。兄の檀韶のように統御しがたい人間ではない。徐羨之や傅亮にはまず叛意などないだろう。謝晦は何度か従軍させたが、非常に機略に通じている。叛意が芽生えるとしたら、おそらくこの男からだ。會稽か江州辺りに左遷しておいた方がいいだろう。」

 と語った。またこのようにも語った。

「朝廷のほかに幾つも府がある必要はない。宰相には揚州刺史を兼ねさせ、甲士千人を配備するように。要職を負う大臣に護衛が必要であれば、台城より派遣させよ。征討を為す際には同じく台城の兵を用い、事が済めば再び台城に戻すこと。後世に幼主が立つようであれば、政は宰相に委ね、くれぐれも母后を臨朝させ政務を煩わせるなどと言ったことがないように。帯刀のまま宮中に入れぬように。要職に就くものには班剣を支給せよ。」


 癸亥,劉裕は西殿で死んだ。六十歳であった。


 七月、丹陽郡建康県の蔣山にある初寧陵に葬られた。



 劉裕は己を厳しく律し、法度をもまた厳正に整えた。彼の馬には余計な飾り物などなく、けばけばしい楽奏などにうつつを抜かすこともなかった。

 あるとき寧州からきらびやかな虎魄の枕が献上されたことがあった。この時劉裕は北伐を期していた。虎魄が刀傷に良いと聞いていたため、劉裕は大喜びで枕を砕き、諸将に配った。

 後秦討伐の折には姚興の妓女に大いに入れあげ、諸事をおろそかにこそしかけたが、謝晦に諫められると、すぐに暇を出した。

 財貨はすべて外府に預けており、私藏することはなかった。

 皇帝となったのちにも、調度品に銀の塗装を為そうという提案を却下し、鉄の釘にて作成させた。

 娘たちを他家に嫁がせる際にも二十万銭以上の出費はしなかったし、無論錦繡金玉にて飾り立てるなどと言ったこともしなかった。

 何事にも簡素を好み、履物は常に木のわらじ、神虎門から散歩に出ることを好んだが、從者は多くとも十数人ほどであった。

 徐羨之が西州に住んでいたため徐羨之の家までひょっこり歩いて出たりなどもした。追従が慌てて追ったが、その時はすでに城外に出ていってしまった後だった。

 自室では子らと共に過ごし、ひとたび公務を離れれば公服を擲ち、家族らと親しんだ。

 のちに孝武帝・劉駿が劉裕の居宅を取り壊して、その跡地に玉燭殿を建築しようと考えた。そこで群臣らとともにそこに入ってみれば、土がむき出しの壁に、挂葛の粗末な燈籠や、麻の繩拂が掛かるのみであった。侍中・袁顗は劉裕の倹素の德をしきりに褒め称えたが、劉駿はそれには応じず、ぼそりと「田舍者が、ずいぶんご立派になったものだ」とつぶやいた。しかし、このようであったからこそ劉裕は大業を成し遂げたのである。



 当書編纂者が申し上げる。

 かんりゅう氏は四百年もの間、国を保った。その偉大さはしゅうにも比較すべきであろう。たとい全土が戦乱に満ちたとて、人々は劉氏以外に、天下の主無し。斯様な思いを抱いていた。曹操そうそうはその武威で人々を従えたが、つまるところはただの威圧で皇位を得たに過ぎぬ。人々が漢を忘れたわけではない。故に曹氏の威信が揺らげば、たちまち世には怨嗟が溢れ返った。しん司馬しば氏は、そんな魏の衰運に乗じ、権勢を高めていった。そうして、ついには帝王となる基礎を築いたのだ。

 しかるに、劉裕りゅうゆう様の受命にまで至る道筋は、いかがであったろうか。その道義は、明らかに先朝を超えてはおるまいか。晋が江南こうなんに逃げ込んでより、皇帝がどれほど天下の主であったろうか。おおよそ、その実権は権臣の元にあった。確かに君主は尊重こそされてはいたが、それはあくまで権臣の顔色伺いの上に成立していたものであろう。中でも、桓溫かんおんの雄才は天下を覆わんがばかりであった。そのため禅譲の義は、桓温のもとで実現せんばかりの勢いであった。桓温かんおんの台頭より、しんはいよいよ傾いた。司馬道子しばどうし五斗米道ごとべいどうとの結託を経て、扱いを取り違えてその蜂起をまねき、さらに息子の司馬元顯しばげんけんが五斗米道の鎮圧にかこつけ、政府内に疑心暗鬼をばら撒いた。父、桓温の勢力を継承した桓玄かんげんは司馬親子の招いた不和に付け入り、遂には簒奪までなしたが、あえて逆らおうという者もいなかった。

 そこに現れたのが、劉裕りゅうゆう様である。斉桓公せいかんこう晋文公しんぶんこうのような基盤も持たず、五百の手勢すら率いていなかったにもかかわらず、決起よりわずか十日のうちには凶兵を討伐し、暴君を追い払い、晋の祭祀を復旧させ、代々伝わってきた伝統を失わせず、內部を粛清、外では敵を討伐、その功績は、まさに天にまで至った、と言えよう。故に鍾石はその音で新たな帝の出現を祝い、遂には禅譲の儀がなった。

 民の心が晋から去っていたことは、かん末、いまだ漢を思うものが多い中曹丕そうひによって簒奪されたときとは違い、数多くの武勲を積み上げたこと、司馬昭しばしょう司馬炎しばえんが即位の名目を揃えていたときとは、やはり違う。ゆえにこそ、恭帝きょうてい司馬徳文しばとくぶんは唯々諾々と皇位を譲ったのである。

 劉裕様こそは民よりの推戴を受け、また歌にもその即位を望まれたお方。魏や晋はその名目のみを取り揃え、皇帝となったフシがある。しかし劉裕様は名目とともに、確かな武功をもお立てになったうえ、即位された。なんとも、徳盛んなお方であることか!

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