第8話 「水夫射ち」の(たぶん)由来となったもの

 この文章はあくまで「水夫射ち」の風説に反駁するためのものなので、具体的なお名前は出しませんが…どうやら鎌倉時代研究の大家であるとある学者さんが、自著の中で「水夫射ち」を史実のように書いたみたいです(そこに根拠の明記はなし)。

 で、どうやらそれが権威の力によって信奉され、多くの人々に信じ込まれた…のではないか、ということころまでしか追えませんでした。それくらい、根拠が闇の中の風説なのです。


 なお、学者の仮説パワーはなかなか恐ろしいものがあり、壇ノ浦の形勢逆転のもうひとつの大きな要素の「潮流の変化」というものがそれに当たります。これはもう、「水夫射ち」以上に定説化しています。どんなものかというと、…

「戦の前半は潮流に乗って平家が押していたが、午後まで義経が耐えているとやがて潮流が逆に変わり、源氏が有利になった」というもの。

 これも戦前のある大学者様が大正時代頃に唱えたひとつの説で、史料にはありません。

 明治政府の水軍の調査によって壇ノ浦の潮流の変化を知った学者さんの説で、よほど説得力があったので定説化したのでしょうが、この調査自体の信ぴょう性(潮流の威力・方向とも)や、「そもそも、風向きならともかく潮流が変わったからって、上流にいる方が有利になるのか?」という疑問も出ているようで…まあ、今からこの話が定説から外れるのは難しいでしょうが。


 「水夫は狙わなかったかもしれないが、結果的に(『平家物語』を信じれば)非戦闘員を殺めたのだから、その責任は義経にある」と、理屈づけることも不可能ではありません。

 しかし、「非戦闘員を殺せと命じた」のと、「決着寸前の乱戦の中で非戦闘員も犠牲になった」のを同じ意味に扱うのは乱暴すぎます。

 また、申し訳ないことに史料名を忘れてしまったのですが(情けない…。『宇治拾遺物語』とかだったかなあ)、「東国の武士(源氏など)は非戦闘員も戦場に行く時は何らかの武具を持って武装する」という記述もあったので、そもそも壇ノ浦での源氏の兵隊は、水夫を全くの非戦闘員とは見なしていなかった可能性もあります。

 仮にそうだとすると義経がどうこう言うより、文化の違いとしか言えません。

 卑怯とか恥知らずとか、そんなものは後世の無関係者が、1000年後に吹聴しているにすぎません。

 もちろん、個人的な感想は自由に持つべきですが、その表現の仕方には限度があります。


 ひとつの説としては存在するのですから、多くの研究書がそうであるように、「水夫射ちはあったと言われている」と言うのは自由です。

 ただその際は、

「史料にはその痕跡どころか、ある意味で『水夫射ち』を否定するような記述が、創作物語である『平家物語』の中にあるのみだが、言われているものは言われているし、学者さんの本にもそう書いてあることが多いから、そのどれもに根拠が書かれたものは皆無だけど、私もそれを信じている」

と付記していただきたいものです(トゲトゲ)。

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