第05話 放課後の教室でHな生徒が俺を誘惑してくるんだが・・・?
放課後の教室で、夕焼けを眺めていた。
昼間の喧騒と青空が、茜色をした夜の静寂に侵蝕されていく。
窓の外から、枝葉がこすれる音が聞こえる。
最終下校時間が過ぎた放課後の校舎に、ざわめく生徒の姿は見られない。
そう、普通の生徒の姿は。
「もう、この関係は終わりにしよう」
自分に言い聞かせるような口調で、放課後の誰もいない教室で切り出した。
「えー、わたしは先生の婚約者なのにぃ~」
気づけば、背後に教え子がいた。
いたずらっぽく笑う教え子に、私は毅然とした態度で言うのだ。
「ふざけるな。俺は本気だ」
おどけた教え子には、大人として釘をさしておく必要があった。
なぜかといえば、私が教師だからだ。
そろそろ40代に差し掛かるベテランで、学年主任も務めている。
これは冗談ではないと、教え子に厳しい口調で語りかける。
「お前には長いこと付き合って貰ったし、そのことは深く感謝している。今さら関係を終わらせろという自分勝手な要求には謝罪もする。だが、この関係をいつまでも続けるわけには」
「イヤ」
会話の途中で割り込んできた教え子は、プイっと不機嫌そうに首を横に振った。
教え子の半透明な唇から、透き通った美声が紡がれる。
「ピュアな学生の恋心を弄んで、用済みになったらポイ捨てなんて許せません。それに、わたしと先生は将来を誓い合った婚約者でしょ? ほら、何度も告白してあげたじゃん」
「俺はYESと返事してない。おまけに俺とお前が婚姻するのは法律上不可能だ」
「大丈夫だよ、ノープロブレム。婚姻届は受理されなくても、愛があればなんとかなるから」
「お前と違って、俺は愛だけじゃ生きていけないんでな」
愛だけでは
良識ある大人の私は、甘ったれた教え子を突き放す冷たい口調で言ってやるのだ。
「うみゅみゅ……」
いつもと違う雰囲気を感じ取ったのか。
文句なしの美少女な彼女は、困惑した表情で問いかけてきた。
「なんでいきなり? どうして突然?」
「伝えるのが遅くなった。先日、辞令が来た。俺は他校に転任することになった」
「そんなの拒否ればいいじゃん」
「大人の世界はそう簡単にいかないのさ。それとも転勤に背いて教職を辞めるか? それこそ二度とお前に会えなくなるぞ?」
「うむゅにゅ……」
反論に詰まった彼女は、妙なうめき声を漏らす。
コイツとは長い付き合いになるが、精神面は何十年たっても子供のままだ。
拗ねた表情の教え子は、いじけた雰囲気で負け惜しみを言う。
「大人って、ほんとめんどくさいよね」
「ずっと子供のままのお前から見れば、そうだろうな」
「仕方ないでしょ。わたしは大人になれないんだから……」
子供っぽく頬を膨らませて拗ねる彼女は、半透明な口をツンと尖らせて叫んだ。
「わたしは、もう死んでるから、しょうがないの!」
今は使われていない開かずの教室に、ガラス細工のような透んだ美声が響く。
ふわふわと宙に浮かぶ、半透明な彼女と同じく透き通った声が。
すでにこの世の存在ではない彼女に、私は皮肉たっぷりに言ってやるのだ。
「死んでるわりには、イキイキと怒るじゃないか」
「フンっだ」
ふくれっ面で不機嫌をアピールする、もう二度と年をとることのない彼女。
いわゆる幽霊と呼ばれる彼女は、何十年も前に自殺していた。
いじめを苦にして、この教室で首を吊って死んだ。
その過程でかなりエグい報復をいじめっ子にしたのはまた別の話だが、この物語は悲劇の美少女の自殺だけで終わらなかった。
彼女が自殺してからというもの、現場となった教室に。
――でる。
と、不謹慎な噂が立ったのだ。
自殺した女生徒の幽霊が、事件が起きた教室の一角に現れると。
この怪談を聞いた時、非科学的な話だと、当時新米教師だった私は思った。
その思い込みは、半透明な彼女と出会うことで瓦解する。
あの日、誰もいない放課後の開かずの教室で。
まだ新米教師だった私は、自信の持てない授業の練習をしていた。
存在しない生徒相手にぎこちない授業をしてたら、何かの視線を感じたのを覚えている。
ふと教室を見渡せば、半透明な女生徒がこちらを覗きこんでいた。
初対面の彼女が漏らした台詞は「なんかたいくつー」だった。
その時の衝撃は、今でも鮮明に覚えている。
幽霊相手に「頼む、俺の生徒役を引き受けてくれ!」と、お願いしたことも。
きっと、当時の私はストレスで頭がおかしくなっていたんだろう。
そうでもなければ、幽霊に土下座という常軌を逸した行動に説明がつかない。
とにもかくにも、新米教師と半透明な幽霊の奇妙な関係は、こうして始まった。
その奇妙な関係は、出会いから十年以上が経過した今でも続いている。
「おちゃらけはおしまいで、真面目な話に戻すぞ。もうすぐ俺は別の学校に異動する。つまり自由にこの教室へ来ることができなくなる」
「つまり、わたしとはもう会えないかもしれないってこと?」
「その通りだ。物分かりが良くて助かる」
「ねぇ、先生」
もう何十年も、見た目が変わらない彼女は。
ベテラン教師のしわが増えた私の顔を、まっすぐな瞳で覗き込んでくる。
引き込まれそうな無垢の美しさに、ばくんっと拍動が高まるのを感じた。
私の葛藤を知ってか知らずか、彼女は透き通った唇で問いかけてくるのだ。
「先生、わたしのことスキ?」
「ああ」
幾度も繰り返された、彼女からの質問。
その問いかけには、正直に答えざるをえない。
彼女の愛おしさあまり、半透明な頭に手を添えようと伸ばすが、
「だが、いつまでもこんな関係は続けられない」
生身では触れることのできない彼女の体を、役立たずな腕はすり抜けてしまう。
「幸いにもまだ時間はある。お前を成仏させる方法を」
「やだ」
「わがままを言うな」
「だって、わたしは先生と別れたくないもん」
「俺だってお前と別れたくない。だが別れは避けられない。たとえ転勤がなくても、俺が死ぬか学校が壊されるかだ。時間の流れが違う以上、これは遅いか早いかの問題なんだ」
「そうだよね。よく考えてみれば、今ここに先生が来てくれるのがおかしいもの」
半透明な彼女は、悲しそうな表情を浮かべて。
自身に言い聞かせるよう口調で、無垢の言葉を紡ぐのだ。
「先生は、もう授業の練習をする必要なんてないのに、もうここに来る理由なんてないのに、それでもわたしがまた一人ぼっちになったら寂しいだろうって理由だけで今もここに来てくれてるのに……もういっぱい、わたしのわがままを聞いて貰ってるのに……でもね、最後にひとつだけ。もうひとつだけ、わたしのわがままを聞いて欲しいの」
最後のわがままとは何か?
それは、だいたい予想が付いていた。
絶対に結ばれない彼女と結ばれる方法は、私も何度か考えた。
彼女が提案してくるであろうお願いを。
生きるものと死せしものの障害を解決する、究極の解決手段を。
まっすぐ私の顔を見つめて、半透明な彼女は言うのだ。
「わたしと一緒に、この教室でずっと暮らそう」
そう、命をくれ――と。
「そうだよな。俺がそっち側にいっちまえば、すべて解決だもんな」
フラリと、意識の奥底から虚脱感が沸き上がってくる。
「そう。先生が、わたしと同じになるの――」
彼女の口調は蠱惑的で、表情は挑発的だった。
提案は、破滅的で魅力的だった。
目だけ笑ってない笑顔の彼女は、透き通った声で言葉を続けた。
「死ぬのは誰も避けられないでしょ? 人はいつか死ぬでしょ? だから先生が今こっち側に来ても、それは遅いか早いかの問題だよね?」
クスッと、半透明な唇を釣り上げる彼女。
その表情は無邪気な笑顔だが、無垢の瞳は笑っていない。
彼女は、この選択が正しいと思っている。
私があちらの世界に行くことが、二人にとって最良の選択だと本気で信じている。
微笑みはそのまま、彼女は誘ってくるのだ。
「ずっと一緒にいられるよぉ?」
だが、
「わたしに触れたり、愛しあったりできるんだよぉ?」
俺には、
「きっと楽しくて幸せだよぉ?」
まだ、
「生きる理由がある」
「――えっ」
透き通った瞳が「なぜ?」と言わんばかりに、大きく見開かれた。
驚きの表情を浮かべる彼女に、私は淡々と決意を連ねていく。
「俺の転任先は、いじめや家庭の事情で教育を受けられなくなった生徒が集まる特殊学級だ」
「……いじめ」
「実は前から希望していたんだ。お前みたいに手のかかる生徒を、これ以上増やさない仕事がしたいってな」
それは悩み抜いて出した、教師として生きようと誓った自分の決意だった。
「そうだよね。わたしには先生しかいないけど、先生には他にも生徒がいるんもんね」
「すまない」
「ううん、謝らなくてもいいの」
表情は悲しげでも、口調だけは気丈に。
精一杯の笑顔を浮かべて、瞳には崩れ落ちそうな大粒の涙を溜めて。
半透明な彼女は、最後の問いかけをしてきた。
「先生、わたしのことスキ?」
「ああ。もちろん生徒としてな」
「アハハ、また女として見てくれない。ほんと空気を読めないというか、だからまだ結婚できないんだよね。わたしね、先生の決断を支持する。応援してあげる。だから絶対に途中で逃げたり、投げ出したりしちゃ駄目だよ」
最後のエールを言い終えた彼女は、質量のない唇をそっと自分の頬に重ね、
「バイバイ、わたしが残した最後の未練。バイバイ、わたしの大好きなバカ先生」
幽霊の彼女は光の粒子のように輝いて、大気と混ざって消えてしまった。
それが――彼女との今生の別れだった。
新しい赴任先は特殊環境だけあって厳しいが、今の所は無事に勤め上げている。
教師は理不尽な職業だ。たまには愚痴の一つも言いたくなる。そんな愚痴を漏らすのにピッタリだった空き教室の小生意気な美少女は、もうこの世に存在しない。
放課後の教室でひとり作業をしていると。
ふと、彼女といたあの日を思い出すことがある。
ホラーな彼女と出会い別れた、私にとって忘れられないあの日々を。
すると決まって私は、
――生徒に惚れたなんて教師として失格だよな。
と。
だれもいない教室で、ひとり照れ笑いを浮かべるのだった。
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