06/11


「うふふ。おかえりお姉ちゃん」


 ベッドで目覚めたら、ふざけた笑みを貼り付けたアイツが待ち受けていた。


「あんたには……聞きたいことが、山ほどあるから覚悟しなさいっ」


 ここは……2012年の603号室だろう。

 壁にはあの絵、寝起きでおぼろげな意識が鮮明さを取り戻していく。


「お姉ちゃん。あれほど言ったじゃない」


 妹の口から紡がれる、ふざけた声が耳障りで。

 あたしは、無意識にギリッ……と、奥歯を噛み締めた。


「お姉ちゃんは、どうして彼に手術を受けさせるの? どうして彼を説得するの? ふふふ、わたし分かんないなー」


 あたしに馴れ馴れしく話しかけてきて、常にほほえみを絶やさない、こいつを見ていると寒気を感じる。

 異質で得体の知れない、とびっきり邪悪な存在に、あたしの本能が拒否反応を示してくる。


「意識を失う前は質問の途中だったわよね……また聞くわ、あんたは何者なの」

「いいけど答えは同じ。わたしはお姉ちゃんに『自分が実在する』と思い込ませる小道具みたいなもの」

「さっぱり意味が分からない。だから――質問を変ぇりゅ」


 情けないけど、声が震えてしまう。

 この質問の答えは……できれば聞きたくない。

 だけど、聞かない訳にはいかない。

 この病室に来てから、あたしはトイレに行ったことがない。

 食事をした記憶もないし、シャワーも浴びていない。


 ふとしたきっかけで気づくまで、それがおかしいことではなく普通だと思いこんでいた。

 けれど、それは普通じゃない。


 だから、

 あたしは――普通の人間ではない。


 返ってくる答えが怖い。

 だけどあたしは、不気味で異質な妹に問いかける。


「あたしは、いったい何者なの……ッ」

「げんかくだよ」

「げんかく……?」

「げんかくは幻覚。そうだね、実際には外界からの入力がない感覚を体験してしまう症状のこと。見えるはずのない人や聞こえるはずのない声に、実際には触れていない感触。こんなモノの総称といえば伝わるかな?」

「それが……あたしなの?」

「うん。お姉ちゃんは幻覚の一種。実際には存在しない人なんだよ。少し長い話をしようか」


 ニコニコ笑顔の妹が語り出したのは、一見すると関係がなさそうな話だった。


 第二次大戦が終わった、1945年の10月頃。

 フランスに建設された地下壕で、ひとりの兵士が発見された。

 その兵士は戦争がまだ続いていたとき、爆弾で地下壕の出入り口が塞がれて生き埋めになった。

 彼が発見されたのは10月。戦争が終わったのは5月だから、少なくても5ヶ月以上その兵士は出入り口が塞がれた地下世界で暮らしていた。


「けれどその兵士は、大量に蓄えられていた保存食糧や水で閉鎖された数ヶ月間を生き延びたんだよね」


 その兵士は、奇跡の生還を遂げた。

 閉ざされた地下壕から助け出されたその兵士は、生存者は自分ひとりではないと、第一発見者の工事作業員に証言した。生存者の彼が曰く「地下にはもう一人いる。助けの来ない暗闇の中で共に励ましあって生きてきた親友が……絶対に探しだしてくれ」と。


「だけどね、彼が生き埋めになった地下壕の中には、それらしい人がいなかったんだ。ついでに内部に残っていた生活跡。これも唯一の生存者である彼のものしか見つからなくて、ようするに彼の親友が実在した証拠はひとつも発見できなかったというわけ」

「つまり……その親友は非実在で、彼の嘘だったってこと?」

「半分外れで半分正解だよ。彼の親友は実在しなかった。だから他の人から見ると、彼は嘘をついていたことになるね」


 妹が続ける話によると、この事件は当時のニュースでも話題になったらしい。

 ある新聞社は実在しなかった親友を幽霊もしくは天使に違いないと書き立てたらしいんだけど、そんな非科学的なニュースはおかしいと思った心理学者が、地下壕に閉じ込められていた彼と面談を重ねて、1つ1つの話の統合性を整理して、半年以上の時間をかけて事件の真相を暴いた。


「ふふっ、結果として彼は嘘つきじゃなかったの。彼の親友は確かに存在した。だけど彼の親友は実在しなかった。でも確かに存在した。彼が地下壕で見た――幻覚という形でね」


 地下壕で共に励ましあった親友は、孤独と恐怖に耐えられなくなった『彼の心が生み出した幻影』に過ぎなかった。

 だから心理学者は『彼の親友は実在しないが、彼の心に存在した』と断言した。

 彼の心が生み出した幻影は、姿や形は当然、匂いや肌が触れ合う感触、会話で出身はどこで、趣味はアレコレで、ここを出たら最初に何をしたいかなど、生きている人間と変わらない人格を持つ、心理学者ですら『彼の心の中に親友は存在した』といわざるを得ないモノだった。


 一気に説明を終えた妹は、最後にいたずらっぽい笑いながら言った。


「余談だけどね、その存在しなかった親友は『レイ・ボーダン』って名前なんだよ」

「あたしが入院するはめになった病名は、確かレイ・ボーダン症候群……だったわよね」

「そう、レイ・ボーダン症候群。人格形成型知覚情報幻覚症――孤独や不安で精神的に弱った人が心に形成する、人格を伴った幻覚を見る珍しい精神疾患のこと」


 答えは、だいたい分かっていた。

 あたしの正体が何者で、この世界がどこにあって、彼とあたしの関係はどんなものなのか。


 だけど……それは認めたくない。

 それを認めてしまったら、あたしはきっと……。


 不気味で異質な妹は、解説を続ける。


「これは仮説だけど、わたしやお姉ちゃんが誰かの『想像の世界にだけ存在する人』だとしたらどうする?」

「……どうしょうもないわよ」

「あははっ、たしかにお手上げかもね。突拍子もないよね。でもね、この推測はそれっぽいよね?


 幻覚――姿を見ることは出来る。

 幻聴――声を聞くことは出来る。

 幻触――お姉ちゃんに触れることは出来る。だけど花瓶や絵筆みたいに、幻触の対象外のモノには触れることが出来ない。あれれ~ぇ? これって夢でタイムスリップしたお姉ちゃんの状況とソックリだよね?」


「……まったくだわ」


 あたしが思い浮かべるのは、彼を花瓶どんきで殴ろうとした記憶。

 掴もうとしてしても手がすり抜けたから、パンチで殴って沈めた乙女の黒歴史。

 あたしはヘンな幽霊でも、謎のタイムトラベラーでもなかった。

 その正体は――


「ふふふ。彼がお姉ちゃんのことを『未来からタイムスリップしてきた』と認識すれば、きっとお姉ちゃんの存在が破綻することなく実在する女の子として感じることができるよね。きっとそれを彼の心は求めていたんだろうね。もしかしたら死ぬかもしれない大手術が迫る自分の、話し相手になってくれたり、相談相手になってくれたり、もしかしたら恋人になってくれるかもと期待して、彼が脳内に作り出した妄想の産物――それがお姉ちゃんだと、わたしは推測してるの。ここまで言えばわかるよね? 彼に実在する人間と認識される必要があるお姉ちゃんは、人格を伴う幻覚であるがゆえに、自分が幻覚であることに気づいてはいけない。だから彼が知覚できないこの世界に、わたしという存在が作られたの。お姉ちゃんが自分の正体に気づかないようにする小道具。お姉ちゃんという存在が破綻しないためのセーフガード。それがわたしの正体」

「クソ丁寧な説明のお陰で、あたしにも理解できたわ……信じたくないけどね」

「信じる信じないは別でね、お姉ちゃん――もうすぐ私たちの住む世界は、どうなると思う?」


 そう言いながら、妹はさして広くない病室を模した世界を。

 きっと彼の心が作り出したであろう、妄想の世界を見渡しながら問いかけてくる。


「答えはね――消えちゃうんだよ。手術が失敗すれば、それはこの世界の消滅を意味するし、かといって手術が成功すれば彼の孤独や不安は解消されるわけだから、この世界は用なしになってこれまた消滅しちゃう。それこそ地下壕を脱出した瞬間にパッと消えちゃった、兵士の親友レイ・ボーダンと同じように、彼の心に思い出だけを残して消えちゃうの。わたしはそんなの嫌だなー。お姉ちゃんはどう思う? もうすぐ、わたしたちのちっぽけな世界が、わたし達ごと一緒に消えちゃうとしたら? わたしはね、どうにかして存続させようと思ったの。消え行く運命にあるこの世界も、大好きなお姉ちゃんも守りたいから。消滅を防ぐのは不可能でも、長続きさせる方法はあったから」

「彼を……病院に閉じ込めておくことね。それぐらい、あたしにも分かるわよ」

「大正解。ようは彼を社会復帰させなければいいんだよね。孤独と不安の世界に閉じ込めておけばいいんだよね。だからわたしは、お姉ちゃんへ「彼に手術を思いとどまらせて」と念を押したの。だけど……彼は気づいちゃったみたいだね」

「ええ、あたしの正体にね」


 あたしの意識が飛ぶ直前。

 彼が意を決して話してくれた、レイ・ボーダン症候群の真相。

 彼の言葉を最後まで聞けなかったけど、あの口ぶりはあたしの正体を悟っているに違いない。


「幻覚であることがバレた以上、お姉ちゃんが存在を維持できるのもあと少し。だけどね、わたしは思うんだー。彼はきっとお姉ちゃんに消えて欲しくないハズ。今が永遠に続くのを願ってるはず。だから――彼を幸せにしてあげようよ」


 妹は、ニヤリとわざとらしく口元を歪めた。

 悪魔のように蠱惑的で、天使みたいに人懐っこく、ほほえみを浮かべた。

 これが正義なんだよと、歪んだ笑顔の妹は言葉を続ける。


「彼の未来をね――奪って、壊して、作り替えちゃおうよ。彼の望みを叶えてあげようよ。彼をずっと病院に閉じ込めちゃおうよ。彼の命が尽きるまで終わらない――楽しい楽しい幻想を見せてあげようよ」


 妹は、それが正しい選択だと思っている。

 彼がいちばん幸せになれる、最善の選択であると思っている。


「お姉ちゃん、どうかなぁ? 彼と夢みたいな世界で終わりまで生きるのは? きっと楽しくて、きっと幸せで、きっと彼の望みのひとつを叶える選択だよ?」

「彼の望み……ですって?」

「ずっと病気で入院している彼は、社会に復帰するのを恐れている人でしょ?」


 妹の言わんとしていることが、読めた。

 彼は、退院して学校に戻るのが怖いと言っていた。

 自分が学校に戻ると、彼を見捨てたクラスメイトは、いい気持ちがしないと。


「彼は未来が怖いひとで、自分の存在を否定しているひとで、自分に自信が持てないひと――」


 あたしは、黙って聞いていた。

 妹の言葉の一つひとつが、真実で、嘘じゃなくて、重みがあるのを知っているから。

 だけど、黙ったままではいられない。


「よーするにあんたは、自分の存在を守るため、彼を死ぬまで飼い続けるつもりね」

「うん。言い方は悪いけどそういうこと。だけど、この選択はある意味で、彼を幸せにす――」

「それ以上ッ!! 聞きたくないッッッッ!!!」


 我慢できなくなったあたしは、腹の底から叫んだ。

 忌々しい微笑を絶やさない妹は、心の底から愉しそうな口調で語りかけてくる。


「クスクス。わたしとお姉ちゃんは同じ幻覚なのに、考えることは正反対みたいだね」

「ええ、正反対ね! あたしは、あんたの言葉の一つひとつが胸糞悪いわ!」 

「わたしはお姉ちゃんに嫌われて悲しいなー。だけど選択は正反対。きっとお姉ちゃんも彼の願望なんだろうね。わたしの思考パターンが『普通の生活を取り戻すのが怖い』という彼の感情で動いているなら、お姉ちゃんは『未来を楽しく生きたい』という彼の願望で動いているのかも?」

「だったらあたしは、あんたの企みをぶっ潰してやるわっ!」

「クスクス……なら、お姉ちゃんとわたしで勝負しようよ」

「勝負?」

「うん、バトルしようよ。わたしとお姉ちゃんのラストバトルだよ」

「……あたしが負けたら?」

「彼が死ぬまで続く、幸せな日々が待っています。ぱちぱちぱち」


 妹がわざとらしく拍手をして、あたしを挑発してくる。


「ルールの説明をするね。これからわたしが、彼の心臓の動きを狂わせて脳への血量を生命活動を維持するぎりぎりまで減らしちゃうの。脳の一部が壊死して二度と目覚めることはない、植物人間の状態になったら脳への血流を元に戻す……これで、死ぬまで病院から出れない体の完成ってわけ」

「ふざけないで! いくらあんたでも、そんなこと!」

「できるよ。わたしはね、お姉ちゃんが思い込みの力で彼に殴られたと錯覚させられるように、彼の体をある程度操作することができるの。ある程度といってもバカにはできないよ? 人間は『思い込むだけで死ねる』からね。体調が悪いと思い込めば実際に体調が悪くなるし、偽薬を飲めば不思議と症状が和らいで感じられる。だから心臓の動きを狂わせるぐらい……試したことは無いけど自信あるよ。クスクス、これがわたしの最良の選択、彼をこっちの世界に閉じ込めて、死ぬまで現実から隔離する選択……お姉ちゃんは、それを阻止してみて」

「上等じゃない……」


 妹が選んだのは、彼から未来を奪うこと。

 長い入院生活で周囲から置いてけぼりにされても、それを克服して新たなスタートを切りたいと願う彼から未来を奪うこと。


 それはラクチンで苦しむことのない選択だけど、あたしはそんなの絶対認めない!

 たとえ自分が消えゆく定めでも、あたしは認めたくない!

 どんな理由があったとしても、彼の未来を奪う権利は誰にもない!

 だから、あたしは決めたんだっ!


 ――こんなセカイ、終わらせてやるっ!


 って、


 あたしは首に親指を当てて、真横にスライド。

 スパッとキルユー、てめぇはくたばれ!とアピールしながら。

 ニコニコと笑う妹に、最後の啖呵を切る。


「その挑戦、受けて立つわ! 彼が望んだこと? ふざけんじゃないわよ! 人の未来を奪って善人ツラするあんたの思い通りにさせない! あんたのクソッタレな企みはブっ潰すっ!! あたしも、あんたも、このセカイも、みんなまとめて綺麗サッパリ消滅させてやるわ!」


 微笑をそのままの妹は、腕を「すっ」と上げる。

 伸ばされた指が指し示すのは、壁の時計。


 針がクルクル、時間が加速する。

 外の景色は明るい昼から真っ暗な夜へ。

 分針が周り、時針が回る。

 時を刻む2本の針は文字盤上で回転を続けて――


 0の位置で重なる。


 ――意識がふっと落ちる感覚


 彼の未来を奪う。

 そんなの、あたしが許さな――

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