第02話 思い出メモリー古びた写真


 錆びたクッキー缶から、ほんわり漂うカビの臭い。

 くすんだ石鹸箱からは、いまだに薫るソープの芳醇。


 ガサガサ、ごそごそ、押し入れ捜索。

 目当てのモノを探しつつ、あたしはふと思う。


 なんでも空き箱に詰めて収納しちゃう整理クセ。

 そろそろ治したほうが良さそう、と。


 ぼんやり考えながら、パカッと炊飯器の空き箱を開けてみた。


「おっ、ビンゴ」


 空き箱に入っていたのは、目当てのモノ。

 押し入れという名のカオスをかき分け発掘した品に、思わず手を叩く。


「思ったより、たくさんあったわね」


 空き箱の中身に、30代専業主婦の寂しいひとりごとをポツリ。

 探していたモノは、昔の写真だった。


 それは、どこの家庭にも転がってそうな写真の束。

 輪ゴムでくくられて、いくつかの束に分けられた、古ぼけた写真の山だった。


「ひー、あまりの量に心が折れちゃう」


 数百枚の写真に弱音を吐いちゃうけど、それに答えてくれる人はいない。


「でも、やるしかないわね」


 ひとりごとが止まらないあたしは、覚悟を決めて腕まくり。

 触れるだけで千切れる、劣化した輪ゴムを外して。

 なにも考えずに――どさぁぁぁ。

 ちゃぶ台に、古びた写真をブチ撒けてみた。


「お肌のシワが気になるとぉ~、若い頃の写真を見るのがキツくなるぅ~」


 作詞/作曲=あたし。年齢を感じさせる謎歌を口ずさみながら。

 手にしたのは、端っこが黄色く変色した古ぼけた写真。

 金髪のヤンキー少女が頭の悪そうな仲間とダベる光景を撮影した写真だった。


「うん。ワレの姿ながら、さいてーね」


 もう18年も昔の自分に、短い感想をポツリ。

 まっキンキンな金髪が、写真越しでも目に優しくない。


 しかし、どの写真もピースばかり。

 写真撮影のピースサインは、今も昔も変わらないらしい。

 ……ごめんウソ。

 高校生な娘の写真には、ピース以外の可愛いポーズがいっぱいで嫉妬したり。

 あたしが若い頃は『指ハート』も『すしざんまい!』も存在しなかったのよ……やだ、あたしっておばさん臭い。


「年齢的な意味で、チャレンジしたいけど無理ね……」


 あたしもやりたい、すしざんまい。

 だけどギリで許されれそうなのは、伝統のピースが精一杯。


 時が過ぎても変わらぬモノがある一方で、時代と共に消えゆくモノもある。


 写真に映ったレディース暴走族なんて、もう絶滅の危惧種。

 当時流行ってた純金みたいなド金髪も、いまではダサい髪色の筆頭なわけで。


「ほんと、流行ってヤツは長続きしないわね」


 なつい写真の数々に、当初の目的を忘れて夢中になってしまう。 


  ――ひゃぁ!? ケバいメイクの∨系バンドだ。

  ――ヲふっ!? 今は見かけない「桃の天然液」とか飲んでる。

  ――なぬっ!? 携帯がJ-PONだとっ!?

  ――むゅっ!? チョベリグとかサインペンで書き込んでる……って。


 目的を忘れるなよ、あたし。

 今はやることがある。時間は無限じゃないんだ。


「しかし……ワレの姿ながら、アタマが悪そうな金髪が目に痛い……」


 だれに聞かせるでもなく、写真の中の昔のあたしにコメント。

 手にした写真の多くに映っていたのは、小汚いボサボサ金髪の美少女だった。

 それは昔のあたし。

 まだヤンキーやってた頃のあたし。

 あたしがレディース暴走族に所属していた頃の写真がたくさん。


 写真の中の自分に、


「自慢気に掲げたそのプラダ、実はメイド・イン・香港よ」


 容赦のないツッコミを入れながら、写真が撮られた頃を思い返す。

 この写真が撮られたのは、あたしが高校に入学して間もない頃だった。


「ほんと、凄ぇカッコウね……」


 そうコメントせざるを得ない写真は、間違いなくあたしの黒歴史だった。

 木刀片手に特攻服を着て、さらしを巻いて胸を隠している。

 ヤンキー漫画の読みすぎな姿に、押さえきれない頭痛がこみ上げてくる。


 こんなキワモノ写真だけじゃなくて、もっとマシな……せめて制服姿の写真でもないかと探してみる。

 だけど、なかなか見当たらない。


 考えてみれば、見つかるわけないか。

 当時のあたしには、ここしか居場所がなかったんだから。


「るる~らららー」


 昔の記憶がよみがえってくると、自然に当時の流行歌が口から滑りだす。

 ちゃぶ台の上に散らばった、金髪のあたしがピースしているたくさんの写真。


 この写真を撮影した頃、自分の両親はケンカばかりしていた。

 あたしはそんな親を見るのがイヤでしょうがなくて、それが原因で家に居ずらくなって、だんだんと自宅を留守にしがちになって、やがて家に帰らず外を遊びまわるようになって、同じような境遇の子が集まる男子禁制のレディース暴走族に居場所を見つけて、結局あたしも両親と一緒で毎日ケンカばかりしていた。


 つるんでいた仲間の性格が良かったおかげか、荒れてるとはいえ楽しかったのを覚えている。

 将来を考えだすと、夜に眠れなくなるぐらい不安だったけどね。


「更生しないで突っ走ってたら、一体どうなってたことやら……」


 か、考えるだけで恐ろしい。

 そんなあたしが荒れてた時期、それは中学校を卒業した頃から始まった。


 中学時代は、普通の生徒だったと思う。

 なんの自慢にもならないけど、バカじゃ入れない高校に進学が決まってたし。

 あたしも色々と勘違いする前は、真面目に勉強する普通の女の子をしてたのだ。

 だけど真面目ちゃんのあたしは中学を卒業してから入学するまでに、あろうことか金髪ヤンキー少女に様変わりした。


 そして始業式――

 アタマを金髪のまま登校したら……ヒかれまくった。

 ムリもないと思う。

 真面目な連中ばかりの高校にヤンキー全開の金髪女が混じったら、そりゃウキまくって当然。

 いまはそうでもないらしいけど、昔は激しかったのよ……オタク差別と学校による雰囲気のちがい。

 普通の高校はともかく、いわゆる底辺校には、ヤンキーと普通の学校に行けなかったバカが集まる隔離施設という雰囲気があったわけ。


 あたしはヤンキーだけど、前者の学校に入学してしまったのだ。

 それでも仲のいい友達ぐらいできそうだけど、進学先の高校は真面目すぎた。

 クラスメイトは金髪ヤンキーのあたしを怖がって近寄ってこないし、なにもしていないのに教師から邪魔者扱いされ、そのうち学校に行くのが嫌になった。


 当時の高校には、見た目ヤンキーなあたしの居場所はなかった。

 クラスメイトからハブられ、教師からのけ者にされ、一人孤立を深めていた。

 自分を変えたくても意地が邪魔して変えられなくて、助けて欲しくても誰も手を差し伸べてくれなかった、高校1年生のあの頃。


 みんなが、あたしと関わるのを拒んだ。

 だけど、あの人だけは違った。


「……なに、このゴミ」


 手にした写真には、ズボンをズリ下ろされて地面に転がる男が写っていた。


 イイ感じに潰れた鼻からドス黒い鼻血がボタボタ垂れてて、ヒビの入ったメガネの奥にある怯えた瞳が哀れだったり。

 写真の中でボコされてる情けない男が、なにを隠そう未来の旦那だけど。


「ホント人生ってヤツは、分からないモンよねぇ~」


 写真を眺めて、しみじみと呟く。


 あの日、旦那が助けに来てくれなかったら、あたしは今頃どーなってたんだろう?

 うん、想像するだけでおぞましいわ……どんな風になっていたかサッパリだけど、きっとあたしは人生ブラックコースを突っ走ってたと思う。


「ま、素直に感謝しとくべきかな」


 ――ありがとね。


 あたし以外だれもいない、静まり返った自宅で。

 一人寂しく写真の旦那にお礼を言ってみるけど、古ぼけた写真の中でケツに木刀を突っ込まれてる旦那からの返事はない。

 このケツ……じゃなくて、どんどん人生ダメな方向に落ちぶれていたあたしを、頼んでもいないのにわざわざ救ってくれた物好きなひと。


 それは――当時、あたしが通っていた高校の担任教師だった。


 古ぼけた写真のワンシーンは、あたし達の集会場に先生が単身乗り込んで「バカなことはやめろバカども!」「今が良ければいいという考えだと、きっと将来後悔するぞ!」「俺はおまえたちの人生が!」なんて説教しに来て、武闘派レディースのメンバー全員にボコされた時の記念撮影だったりする。


「止めるどころか、率先して殴ったっけ?」


 血なまぐさい青春のワンシーンに、あたしは苦笑い。


 このときの旦那は、本当にしつこかった。

 あたしたちの集会場に毎晩やってきては、ぐちぐち説教をたれて殴られ、また次の日もやってきては以下同文で。

 そんなことを何度か続けてると、メンバーの一人が折れ、しばらくしてもう一人が折れ、同時に三人ぐらい折れたあと、あたしも無理やり引っ張られる形で社会復帰を――具体的に言うと高校にまた通いだした。


 あのときの先生は、ほんと熱心にあたしたちのことを気にかけてくれた。


 学校を中退してた仲間に働きながら通える定時制の高校を紹介してくれたり、大検を受ける仲間の手伝いをしてくれたり、タチの悪い男にメガネを叩き割られながら話を付けてくれたこともあった。


 もちろん、あたしも先生にはお世話になった。

 担任教師ということもあり、そりゃあもう、他のメンバーより濃厚に。


 ぶっちゃけ学校に友達いなかったから、お昼休みに用事もないのにお喋りに行ったり、放課後の二人っきりの教室で遅れた勉強を見て貰ったり、気づけば……先生が好きになったりで。


「この頃のあたしって、アホみたいに純情だったわよねぇ~」


 高校の教師と、ヤンキー女生徒の恋愛。


 自慢じゃないけど、旦那との恋はヘビー級だったと思う。

 教師と生徒のラブロマンスなんて、ドラマか漫画の中だけでしか許されないこと。


 だけど、惚れちまったんだからしょうがない。


「禁断の恋の始まりってヤツかしら?」


 当時の葛藤を思い出して、あたしはひとり呟く。

 あの頃のあたしは、壁ばかりが見えていたような気がする。

 進めば進むたび壁にブチ当たって、迂回してもすぐ次の壁にブチ当たっていた。

 気づけば、出口の見えない迷宮に入り込んでいた。


 入学したら孤立した。孤立したら落ちぶれた。落ちぶれて更正したら男に惚れた。惚れた相手が担任だった。

 いま思い出してみても、本当に壁ばかり。


 だけど、そこはヤンキー娘。

 あたしは迷うことなく、邪魔くさい壁なんてブチ破るのを選択した。


 ようするに、女の子らしく先生を堕とした。


 犯行場所は、放課後の教室。

 二人っきりの補習中、奇襲で先生を押し倒して、ぶちゅーと唇を奪って、上目遣いで「先生、あたしじゃ駄目?」とキュートに言ったら、なんだか無性に恥ずかしくなって、照れ隠しで5発ほど先生に蹴りを入れたりして……それが、あたしの告白シーン。


 ちなみに成功して、先生は秘密の関係を承諾してくれた。

 勇気を出した告白が成功して、すごく嬉しかったのを覚えている。

 嬉しくて、嬉しくて、調子こき過ぎちゃって、

 そのまま放課後の教室でゴムも付けずに愛し合って、初弾ヒットで妊娠デキちゃったけど。


「高校1年生の妊娠か。そういえば、ドラマの主人公みたいで燃えたような気がするわ……」


 今になって思い返すと、軽く死にたい気分になってくるけどねっ!


 心の声を聞きながら、つぎに取った写真。

 そこに写っているのは、東京駅のホームで冷凍みかんを剥いているあたしだった。

 ニコニコ笑顔で、ほんとうれしそう。

 ちなみにこの頃は、ポリシーだった金髪をやめて黒髪に戻ってたり。


 そんな更生したての頃の自分を見てると、


「……バカだわ」


 頭の中だけでもポジティブで行こうと頑張ったけど、それしか言葉が出てこなかった。


 そう、おバカだった。

 この写真を撮影した時は、あたしも先生も間違いなくおかしくなってたと思う。

 当時は燃え上がる恋で周りが見えなくなってたけど、呆れるほどのノープランぶりに頭痛がしてくる。


 ――なんちゃって新婚旅行に行こう。


 旦那が、ンなことを提案してきたのは、あたしの妊娠発覚からしばらくのとき。

 両親に涙目で御懐妊報告をして、見事「結婚は認めない」と言われた、すぐ後のことだった。


「もし忘れ薬が発売されたら、真っ先に記憶から消し去りたいわね……」


 そうコメントしちゃうぐらい、マジで思い出したくないエピソードだった。

 当時はやることなすこと失敗続きで、もちろん避妊も失敗。

 高校教師が生徒を妊娠させるわで、助けてもらった先生の人生をあたしが狂わせるで、そんな悪いことばかりが続いて、あたしの精神が弱りきってた頃のエピソード。


 ちなみに両親へのご懐妊報告は、ヨハネが黙示録に書くのを躊躇うんじゃないかというぐらい酷い有様だった。

 そりゃあ、すんなり話が進むわけないと思ってたけど、親父はキレて灰皿を投げるわ、母親は泣き出して会話不能になるわ、そのうち「お前が娘をこんな風にした!」「あなたが悪いんでしょ!」な責任の擦り付け合いを始めだして、もうカオスった状態で……結局、結婚だけは認めないという両親の意思を引き出したのが、唯一の収穫だったのを覚えている。


 このとき旦那は、勤めていた学校に辞表を提出していた。


 最初にその話を聞いたあたしは、(動きが早いだろ、オイッ!?)と判断。

 旦那に「悪いことはイワン、今すぐ取り消してこい」と蹴りを交えて促したけど、旦那が曰く、校長にあたしのことを相談したら、財布から万札を数枚取り出して「悪いことイワン、今すぐ堕ろしてこい」と抜かしやがったから、軽くブン殴ってから辞表を提出してきたとのこと。

 旦那に呆れると同時に、さらに惚れたのを覚えている。


「おーおー、あたしったら怖い顔しちゃって」


 そんなことを、手元の写真を眺めて言ってみる。

 新たに手にした写真に写るのは、東京駅のホームでブチ切れてるあたし。

 そう、あたしと先生の「なんちゃって新婚旅行」は、それは見事な失敗に終わったのだ。

 幻の旅行プランは、東京駅で駅弁を選んでるところで終わりを告げた。


「まさか、アパートの給湯器の電源付けっぱなしで、旅行が中止になったとは……」


 当時の記憶がよみがえり、抑えきれないため息をひとつ

 あの日、あのとき、東京駅で――

 あたしと旦那が交わした、どうでもよすぎる議論とコブシは、今でも一字一句、裏拳が炸裂したタイミングまで正確に思い出せる。


  ――給湯器なんてどうでもいいでしょ!

  ――いや、ガス代がヤバイ!

  ――ガス代とあたしのどっちが大切なのよ!

  ――どっちも大切に決まってふぐっ!?


「けっきょく、ガス代を選んじゃって」


 そのあと、二人で旦那のアパートに戻ったら。

 それまでの盛り上がりはどっかに消えて、ウソみたいに気持ちが萎えた。

 気持ちが萎えると冷静になって、日を改めて両親と再度話し合うことを決めて。

 そこでようやく、あたしの両親と和解が成立した。


 その後も色々あったけど、出産まではおおむね順調にコトは進んだ。


 物語の流れとしては、

 あたしは別の学校に編入して(ワケあり女子を受け入れてくれた学校に感謝)

 旦那は職場を退職して(生徒を妊娠させたスキャンダルは隠蔽された)

 軽率な行動を両親に謝罪しまくり(マジでキツかった)

 大安の日に婚姻届を市役所に提出し(書類を書き間違えた)

 お互いの両親の援助の元での出産して(マジで痛かった)

 いろんな人に助けてもらいながら、あたしは無事に高校を卒業できた。


 ハチャめちゃな恋をした割に、そこそこ順当だったかも?

 今になってふと思うけど、その原因を突き詰めると答えはひとつしかない。


「ほんと、この子には感謝しなくちゃね」


 また1枚、新しい写真を取り出す。

 父親と旦那が、酒を飲みながらアホ面丸出しで「ぎゃはははは」と笑っている写真だ。

 写真の端っこの方では、お腹が大きくなったあたしが、暇そうにラムネか何かを飲んでいたりする。

 旦那と父親、劇的な関係改善の原因。

 それがなにかと問われたら、それはあたしと旦那の愛の結晶で間違いない。

 どこの家庭でも当てはまるけど、両親とは孫という存在に非常に弱い。


 あたしは16歳の時、それを思い知った。

 最初はマジで殺されるかと思うぐらい怒り狂っていた父親が、お腹が大きくなるにつれ「子供の名前は俺が決める」「赤ちゃんの発育に悪いから禁煙だ」「親戚から乳母車を貰ったぞ!」とか言い始めるのだから、孫パワーは恐ろしい。

 しかも孫という共通の楽しみが両親の夫婦仲まで解決してくれたんだから、あの子には本気で感謝してやらなきゃね。


 数ヶ月前、我が子が提案してきた「スマホ買い替えプラン」を前向きに検討しながら、次なる写真を手にとって見る。


「おお。この写真は、ハルナの名前を決めたときのだ」


 生まれたばかりの赤ん坊を抱いた旦那が「命名 ハルナ」と書かれた半紙を掲げた写真。

 この「ハルナ」こそあたしと旦那の愛の結晶に付けられた名前で、今ではコイツも高校生。

 言葉も話せず泣くのが仕事だった娘が、今では女子高生まで育って健全なハイスクールライフをエンジョイしてるんだから、母親として顔がニヤけてくる。

 余計なお世話かもしれないが、あたしの荒みきった経験から「彼氏選びは慎重に。付き合うことより別れたアトを考えろ。キスより先のエロいことは原則禁止だがファティを用いればその限りではない」とアドバイスはしてある。


 余談だけど、このハルナという命名には、とある裏話がある。

 あたしが「へぇーハルナかぁ。先生にしてはいいセンスじゃん」と感想を述べたら。

 旦那がほざいたのが「春なんでハルナんです」。


「ったく。シャレで名前決められる、子供の気持ちも考えて欲しいわ」


 使い捨てカメラ「写ルーンです」で撮影した1枚に、あたしは笑いかける。


 この写真を撮影したあとのことを思い出すと、どうしても顔がニヤける。

 まだヤンキー魂を忘れていなかったあたしが旦那を動かなくなるまで蹴りまくって、旦那が産婦人科医に傷口の消毒をしてもらったことを。


 産婦人科医の話では「夫婦喧嘩の傷を治療するのは半年ぶりだよ」って――オィ!?

 もしや珍しくないのか、産婦人科で夫婦間の外傷沙汰ッ!?


 ちなみに昔の常識とちがって、いまは傷口の消毒をしないのが応急救護の常識。

 全てのケースではないけれど、傷口の消毒は百害あって一理なしとのこと……あたしたちは百年近くも騙されてたのね。


「しかし、集めてみると大量にあるもんよねー」


 そんなことを呟きながら、数百枚の古びた写真の山を眺める。

 スリリングな人生を共に歩んで突き進んだ、あたしと旦那の思い出メモリー古びた写真を。


 今からあたしは、たった一枚の写真を選ばないといけない。

 選びたくないのに、選ばなきゃいけない。


 いまから、たった一枚の写真を。


 旦那の遺影を。


「……っ」


 悲しさ。悔しさ。ツラさ。

 いろいろな感情が、涙の形で押し寄せてくる。


 もう泣かないと決めたのに。

 昔の写真を眺めてると、それでもポロポロ涙が零れてくる。


 旦那とあたしの思い出を見るたびに、抑えきれない涙が溢れてくる。


「……どうして」


 口から漏れるひとりごとに、もちろん返事は来ない。

 それでも、あたしは言いたい。


 どうして嘘を付いたのよ、バカ旦那ッ!

 約束してくれたじゃないっ! あたしを幸せにしてくれるってっ!

 プロポーズの時に言ったじゃない! あたしをずっと愛してくれるってっ!

 あたしを、絶対に裏切らないって……


「……バカ先生」


 昔の口癖は、意識してもなかなか治らない。

 今でもあたしは、ふとした弾みに自然と旦那をセンセイと呼んでしまう。


 そんな先生とあたしは、写真で記録された色々なエピソードを体験した。

 何度もケンカした。ハルナを連れて実家に帰ったこともあった。最後はいつも仲直りした。

 あたしは今でも、先生を愛している。


 なのに……どうして……

 なんで先生は……あたしとの約束を破ったのよ……


 ――ピンポーン


「ただいまー、飯できてるか?」


 ……ぐずぅ。

 間抜けなアホ旦那が、勤務先から帰って来たみたい。


 あたしは鼻水と涙を拭って、犬歯を剥き出しに「ヒヒっ」と嗤った。


 これからの展開を考えると、泣き顔は見せられない。

 今は平静を装って、帰宅した旦那を出迎えるべき。


 ドス黒い殺意を懸命に抑えながら、よき妻を演じて旦那に声をかけるのだ。

 ググ――ッと。

 げんこつを握り締めながら、絶対零度の冷え切った口調で。


「あら? ずいぶんとお早いご帰宅ね」

「このごろ残業続きだったからな。ところでご飯まだ?」

「今日はさゆりさんと食事に行かなかったの?」

「ん、飯の準備まだ?」


 ブチィッ。

 額の血管が何本かブチ切れる音を聞いた。


 浮気相手の名前をちらつかせたのに、このヤロウ見事にスルーしやがったぜ。


 ――チクショウ

 ――コイツ、サツガイシテヤル


 今すぐあの世に送って殺りたい衝動を抑えつつ。

 あたしは旦那が言い逃れられないよう、慎重に言葉を選んで浴びせていくのだ。


「最近、なにか隠してない?」

「人間、隠し事のひとつぐらいあるさ」

「なにかあたしに言うことは?」

「また太った?」

「職場のさゆりに心当たりは?」

「魚のサヨリ? 俺は食ってないぞ?」


 ――ぶちちちっっっ!


 額の血管がダース単位でブチ切れる音を聞いたっていうか、さすがに今の発言は許せん!

 このごろ腹まわりがヤバげなのは事実だからよいとしても、さゆりとサヨリってキサマ、職場のさゆりを性的な意味で食ってるし、やっぱ腹回り発言も許せんっ!


 ――コノヤロウ

 ――トウキョウワンにシズメテヤル


 溢れる殺意があたしを煽る。旦那を殺せと囁きかける。

 マッハで地獄に送って殺りたい、どす黒い殺意の波動を抑えながら。


 あたしは、旦那が逃げ出さないよう、

 ――ガシッ。

 両手で肩を掴んで、ドスを効かせた声色で言うのだ。


「イイ度胸してるじゃない……」

「HAHAHA……どうしたんだい? そんな怖い顔は可憐なキみにはニアわナいヨ?」


 脂汗をダラダラ流して、後半機械な口調になってる旦那は、ひとまず無視の方向で。


 あたしは、心の中で決意した。

 今夜は――徹底的にヤってやる、と。


 そう、今夜はまさに喧嘩日和。

 高校の修学旅行で娘のハルナは帰ってこないし、旦那の仕事は明日は休み。

 まさに準備万端、証拠も万全、ケンカに負ける予感なし。

 勝利を確信したあたしは、職場の女と浮気した旦那を追い詰めていく。


「……全部バレてるのよ」

「お互い合意の下で、体だけの関係デス」


 ――ドズッ!

 あたしの放った神速の裏拳、旦那の側頭部に当たる直前でガードされる。

 だけどソレは囮だ! ボディーが甘えぜッ!

 それも下半身が!


 側頭部を狙った裏拳で注意が上半身に向かい、防御が疎かになった旦那の下半身。

 その浮気モンな元凶に、

 ――ドスッ。

 濡れた砂袋を殴ったような感触。

 浮気モンの下半身に、あたしの膝蹴りが炸裂した。


「はぅっっっ!?」


 股間を押さえて、切ない声を出す旦那。

 たぶん痛すぎて、まともに声が出せないんだと思う。

 膝をガックし折って、切ないうめきを漏らす旦那に、あたしは心の中で語りかけるのだ。


 ――妻を裏切った淫行の報い、まずはその下半身で受けよ。


 かなりのダメージを与えたけど、これで終わらすわけがない。

 床に落ちた旦那のメガネを「ガシャリ」と踏み砕きつつ、威圧感たっぷりに言うのだ。


「 立 て 地 獄 は こ れ か ら だ 」

「ヒィッ……」


 震える唇からは嗚咽混じりの変な声。

 どこか遠くから「そろそろ許してやれよ」と聞こえてきそうだけど、武闘派の元ヤンなあたしを舐めるんじゃない。

 あたしを裏切った報いは――職場(某私立高校勤務)で親密な関係にある清楚系の巨乳(あたしは限りなくAに近いBカップの元ヤン)と浮気(匿名のタレコミメールによると、休憩3900円の格安ホテルを利用)した償いは死をもって果たして貰おうぞッ!


「ごれば……誤解でぇっ」


 寝転ぶ旦那に、ムーンサルティング・フライングニードロップが炸裂ッ!


「ぐふっ……話せばァァッ」


 分かんねぇから、ハリケーン・ローキックを喰らえッ!


「ふぐっ……俺のばなじヲ」

「ハァハァ……思い知ったか浮気男」


 攻撃で息を切らすあたし。運動不足で体力落ちてる。またウォーキング始めよう。

 どうでもいいことを考えながら、悶絶する旦那を見下ろす。

 ふと「待てよ? こいつのいいわけを聞いてみるのも面白いかもしれない」と、思い立った。


 どんな傑作を披露してくれるか興味があるし、話ぐらいは聞いてやっても罰は当たらない。

 そうと決めたら、慈悲深い天使のようなあたしは言ってあげるのだ。


「話だけなら聞いてあげる。始めていいわよ、あなたの弁明」

「あっ……ありがとうございます!」

「ただし、制限時間は100秒」

「えっ!? たったそれだ」

「96~、95~、94~」

「ぐぐぎぃぃ……浮気してすまない」

「謝るぐらいなら、最初からしなければ?」

「うぐっ!? もう二度と浮気はしない」

「今後のことはどうでもいいから、あと75秒以内に浮気の答えを頂戴」

「75秒って……時間設定、実は適当なん」

「ハイ、残り時間30秒ね」

「ううぅ……俺が本当に愛しているのは、お前とハルナだけだから」

「本気で愛してるなら浮気なんてしないでしょ?」

「ぐぐぃ……浮気といっても何度か寝ただけで」

「そんなの知らない。あたしの基準だと、他の女と手をつないだら浮気だから」

「行為はあったが、愛はなくてっ!」

「その発言がマジで認められるとでも? 行為ってなに? どんな行為プレイをしたの? そのふざけたお口で、詳しく教えてよ、答えろよ、オィこら」

「さいきん寂しくて……つい」

「ほぉ~ほぉ~? なるほどね。まだ30代の若妻を半年セックスレス状態で放置しといて、てめぇはナニ抜かしやがるってか、あんた本気で死にたい?」

「そうだ! 今夜はハルナもいないことだし、久しぶりに新婚気分で」

「夫婦喧嘩して、床にハラワタをブチ撒けるのをご希望?」

「許してゴメンなさい本当にただの火遊びのつもりで本気になるつもり一切なか――っぎゃぁ!」

「生徒に手ェだした実績があるテメェが言っても、ぜんぜん説得力がねぇんだよ!」


 もはやこれまで、判決ギルティー。

 床に転がる旦那のわき腹に、サッカーボールキックをお見舞いする!


 おりゃぁ! ワン・ヒット!(ひいっ!?)

 とりゃぁ! ツー・ヒット!(ゴホォッ!?)

 喰らえぇ! 3回・ヒット!(GYAAAAAAuuッッ!)


 攻撃命中! 効果は抜群! 旦那はボロボロだ!


「俺がわるがったデスゥ……」


 謝って済むなら浮気殺人は起きねぇんだよ、ロリコン変態エロメガネティーチャー。

 湧き上がる怒りがいよいよ収まらなくなったあたしは、禁断の秘奥義「インフェルノ・ストライク・アルティメット・キン●マ・クラッシャー」の構えを取るも、


「おねがいごろざないでぇ……」


 旦那は、必死で命乞い。

 どうやら死ぬのが怖いらしいけど、大丈夫。生命保険は掛けてあるからね。


 ――そろそろ決めるか。


 あたしはひとつ深呼吸してから、震えて丸まる旦那の肩に優しく手をかける。

 そして、できるだけ穏やかな口調で提案してやるのだ、


「ねえ。家族で海外旅行とか行きたくない? モチロン、あなたの小遣いで」


 我ながら、素晴らしいと思う解決策を。


「海外っ!? それもヨーロッパ!?」

「そう。家族でイタリア連れてってくれるなら、今回の件は許してあげる」

「イタリア旅行なんて無理だ! 財布と口座はおまえ管理だし、月に3万の小遣いでイタリア旅行なんて……っ!」

「実現可能よ。来月からあんたの小遣い半分にして、それを5年間続ければ」

「5年だと!? 無茶を言うな! せっ、せめて韓国か台湾」

「へー、嫌なんだぁー。イヤなら仕方ないわね。この場で地獄巡りとか始めちゃう?

 あたしの容赦ない一言に、旦那はガタガタ震えながら「好きにしてくれ……」勝った。


 やったわ、うれしい、念願のイタリア旅行GET。


 ひとりガッツポーズするあたし。しくしく涙を流す旦那。

 ちょっとかわいそうな気もするけれど、あたしを裏切って浮気しやがった男に拒否権はないの。

 文句を言いたげな顔をしてるけど、ハルナと一緒にイタリアで高級ブランドショップ巡りする誘惑には勝てないの。


 ごめんね&ザマーミロ。

 すべてはあなたが悪いの、うひひ。


 ほっぺがニンマリと緩むあたし。旦那はめそめそすすり泣きしてる。

 情けない姿にため息をつきながら、あたしは語りかけるのだ。


「ったく。まだ惚れてんだから、最後まで責任を取りなさいよね」


 大好きなセンセイ――、ってね。

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