第6話「新たな朝、改めての覚悟」

 波乱の一夜が明けた。

 雲海うんかいを滑るように今、武装娼船ぶそうしょうせんアガルタは飛ぶ。

 朝日が照らす空は、雲の波濤はとうも穏やかにいでいた。

 甲板の上に出て、洗濯物が棚引たなびく中でアルス・マグナスは大きく伸びを一つ。昨夜はあまり寝付けなかったし、色々なことが起こり過ぎて頭は混乱したままだった。

 ヴィザンツ帝國第三皇女ていこくだいさんこうじょ、リフィータ・ティル・リ・メルダ・ヴィザンツ……その正体は、雌雄同体しゆうどうたいの呪われた娘。皇帝が実の妹に生ませただ。そんな彼女を守っていたのは、同じく皇帝へと召し上げられて後宮入こうきゅういりした、アルスの母だった。

 運命を感じた。

 同時に、自惚うぬぼれ浮かれる気持ちにもなれない。


「はぁ……これからどうすれば。いや、僕のやるべきことは決まっている」


 そう、それだけは今も揺るがない。

 リフィータを守るとちかったのだ。

 大敗の中で敗走する帝國軍を、一人でも多く救うとリフィータは宣言した。そのため自ら、撤退を支援する殿しんがりに立ったのだ。ただ一人、己の身一つで。

 そんな彼女に、アルスは命を授かり直した。

 リフィータが白痴はくちの仮面を脱ぎ捨てたように、アルスもまた騎士として目覚めたのだ。

 そのことを改めて胸中に確かめていると、背後で突然声がする。


「いい朝さね……どうだい? 坊や。少しは眠れたかい?」


 振り向くとそこには、ネグリジェ姿の美女が立っていた。

 思わずガン見してしまって、慌ててアルスは背を向ける。とても扇情的せんじょうてきで、毒々しいまでの色気が透けて見えた。朝の風にゆるゆると揺れるレースは、裸である以上にいやらしい。

 年の頃は三十代の半ばだろうか? 煙管きせる紫煙しえんくゆらし女は笑う。


「おやおや、ここは武装娼船、売春宿ばいしゅんやどなんだよ? うぶなもんだね、騎士の坊や」

「かっ、かか、からかわないでください!」

「アタシはこのアガルタを仕切ってるモンさ。ライザ・ライラだ。よろしくしとくれよ?」

「ぼっ、僕はアルス・マグナスです! あ……その、御婦人を前に失礼を」


 背を向けたままで名乗るなど、礼儀知らずだ。

 リフィータの近衛騎士として、恥ずかしい態度である。

 アルスは顔が真っ赤に火照ほてる熱さを感じていたが、思い切って振り返る。そして、騎士の礼を全身全霊で尽くす気持ちを表現した。うやうやしくひざまずき、こうべれて言葉を選ぶ。


「リフィータ殿下の近衛騎士このえきし、アルス・マグナスと申します。お見知りおきを、ライザ様」

「おやおや、商売女にそんなことして……かわいいねえ」

「騎士とは常に、主君と御婦人のために戦う者。僕は父からそう教わった以上に、そうでありたいと思っています!」

「……ふふ、気に入ったよ。とりあえず立っとくれ、話もできゃしない」


 愉快そうにのどを鳴らして、ライザはポンとアルスの頭を叩いた。

 どうやらお互い、不快な気分ではないらしい。

 おずおず立ち上がりながらも、やっぱりアルスはライザから目をらす。グラマーなその肉体美を直視できないのだ。匂い立つようないい女という、同世代同士で回し読みしていた絵草紙まんがほんの一ページを思い出す。


「さて、アルス……お前さん、今の帝國がどうなってるか知ってるかい?」

「それは……」

「戦線は崩壊、いくさはボロ負けさね。で……全軍が撤退してんのさ。みっともなくね」

「リフィータ殿下は、将兵を救いたい一心で戦場に残られました。僕は、そんな殿下をお支えするつもりです」

「……馬鹿だねえ、坊やのお姫様は」

「なっ! 侮辱ぶじょくは許せません! 取り消してください!」


 思わず身を乗り出したアルスの顔に、ふーっとライザは煙を吹きかけた。

 みむせながらも、どこか優しげな彼女の声を聞く。


「第一皇女、第二皇女は我先われさきにと帝都に帰ったよ。何故なぜかわかるかい?」

「そ、それは」

「皇位継承権をそれぞれ行使し、次の時代の女皇帝じょこうていになるためさ。恐らく内戦になるねえ……しかも、各地方へ派兵されていた軍団の一部が軍閥化ぐんばつかして、反旗はんきひるがえす動きさえある」


 ライザはどこから、そんな情報を仕入れてくるのだろう? この世界の主な通信手段は、訓練されたはとや伝令兵によるものが主流だ。だが、それにしても耳が早過ぎる。

 そのことを素直にアルスが口にすると、再度ライザは笑った。


じゃの道はへび、アタシ達にとっても情報は生命線さね。そして商品でもある。晶波通信しょうはつうしんってのがあってねえ? 水晶と真空管ってのを使って、離れた場所同士で暗号文をやり取りできんのさ」

「そんな技術が……」

「軍隊じゃまだ、実験中とか言ってたねえ? そんなの、実際に使ってみりゃすぐわかんだよ。便利なもんさ。さて」


 もう一度煙管の煙草を吸い込み、ライザは遠くの空へと目を細めた。


「あのお姫様は馬鹿さね。第三皇女、それも白痴のものと有名だったお飾りのお姫様がだよ? 今、帝都に一番乗りで帰れば逆転の目もある。二人の姉を出し抜いて女皇帝にだってなれるかもしれないんだよ?」

「……それでは、誰も救えません。なによりっ、リフィータ殿下が救われません!」

「ハッ! 言うね、坊や。じゃあ、一兵卒いっぺいそつの死に損ないどもを守って戦死し、未来永劫叙事詩うたで語られる英雄にでもなりたいのかい? それが女の幸せだと思うのかいっ!」

「リフィータ殿下は今、御身おんみのことより将兵を、臣民しんみんうれいておいでです! なら、その意志を守るのが騎士の務め……皇族の義務を捨ててまで皇帝になりたいだけの皇女など、それは破廉恥はれんちで恥知らずです!」


 じっとアルスをライザは見詰めてくる。

 真っ直ぐ見詰め返すアルスを前に、彼女はぷっ! と笑った。


「アンタ、アタシが密告すりゃギロチン行きだよ? 不敬極ふけいきわまりない……でも、破廉恥な恥知らず。そうさね……そう言える奴が、まだいるんだねえ」

「ラ、ライザさん?」

「面白い子だよ、坊や! 気に入った! お前さんごとお姫様を、望む場所で運んでやろうじゃないか。どこがいい? それとも……お姫様とこの船でアタシの家族になるかい?」


 女だてらに船を取り仕切る女傑じょけつは、愉快そうに笑う。

 だが、アルスの決意は決まっていた。

 そして、それはあるじのリフィータも同じはずだ。

 そう思っていると、凛とした声が響き渡る。


「おはようございます、アルス・マグナス。そちらは……この船の女将おかみですか? わたくしからも挨拶を」


 振り向くと、普段通りのリフィータが歩み寄ってくる。

 王宮での無邪気であどけない、中身が赤子のような姿ではない。

 すずやかな笑みを湛え、貸し出された粗末な寝間着ねまきを着ていても堂々としている。彼女を中心にして、空の空気が瑞々みずみずしく刷新さっしんされてゆくかのような存在感。

 ライザも流石さすがに、改めてリフィータを見て片眉かたまゆを跳ね上げる。


「ごきげんよう、殿下。ふふ……大したタマだねえ」

「回収に感謝を……一宿一飯いっしゅくいっぱんの恩義、このリフィータ忘れません。その上で、厚かましいことを承知で頼みます。戦況を知る限り、教えてもらえないでしょうか」


 やはりリフィータは、まだ戦うつもりだ。

 そして、アルスも聞くまでもなく知っている。

 まだ前線には、多くの帝國軍将兵が取り残されている。統制を欠いたまま、情報が錯綜する中で混乱に沈められているのだ。

 今必要なのは、組織だった指揮系統だ。

 だが、皇帝の戦死でそれは失われ、引き継ぐべきだった二人の皇女は逃げてしまった。その上、将軍達はこれを好機と野望を膨らます者まで現れる始末。

 だが、その全てがリフィータの思考の埒外らちがいである。

 そんな主を、アルスは誇らしく思った。


「なら、とっておきの情報があるねえ……買ってくれるかい?」

「言い値で買わせていただきます。どうか、無知なわたくしになんでも」

「ふふ、高く付くよ……それより」


 煙管を吹かしながら、面白そうにライザは笑みを浮かべた。値踏ねぶみするような視線が、リフィータへと浴びせられる。白い肌、白い髪……そして、真っ直ぐライザを見詰める真紅の瞳。美しき第三皇女は、全く物怖ものおじせずに視線を受け止めている。


「殿下、昨夜は誰も抱かなかったそうだねえ? ……これでもアガルタは、高級娼館こうきゅうしょうかんで通ってんだ。皇族が商品の女に見向きもしなかったとあっちゃあ、沽券こけんに関わるんだよ」

「そのことでしたら、ご心配には及びません。昨夜、この船の女達の世話になったことは事実です。……そ、その……わたくしは、自分をなぐさめることすら知らなかったのですから」

「サッパリしたろう?」

「……戦場でのけがれににごった身が、癒やされました。初陣故ういじんゆえ、知りませんでした……浄気スチームのために意思を注ぐことで、あんな。感謝してもしきれません」

「ついでに女も知っときゃよかったんだよ、ったく……妙なお姫様だねえ」


 だが、赤面しつつもチラリとアルスを見てから、リフィータはハッキリと宣言した。

 そして、気付けば甲板の奥では、ドアに隠れながら女達が好奇心で見守っている。フィオナの顔もあって、彼はまだ女装する前で眠そうな目をこすっている。

 皆の前で、おずおずとリフィータは明言した。


「わたくしはこの戦いが終わるまで、純潔を守ります! いつか伴侶はんりょを得るまで、そして帝國の国土と臣民に平和が戻るまで……童貞も処女も守るつもりです!」


 アルスは素直に立派だと思った。

 自分も同じ気持ちだからだ。

 違うのは、アルスは女性のなんたるかを知らないし、その機会もなかったこと。加えて言えば異性に好かれたこともない。容姿端麗ようしたんれい文武両道ぶんぶりょうどう、やんごとなき身分のリフィータとは違う。

 そのリフィータのカラダを、その真実を見れば……男女の別なく恐れおののくだろう。

 彼女と臥所ふしどを共にする人間など、この世にはいないのかもしれない。

 そういった意味では、昨夜の娼婦達の親切はアルスも嬉しかった。

 そんなことを考えていると、ライザはフムと唸る。


「……お覚悟は頂戴しました、殿下。今までの無礼、許しとくれ。お前さんは、王冠よりも玉座よりも、兵の命を求め欲するんだね? そのための戦いを望むというんだね」

「ええ」

「面白い……なら、真っ先にお教えしましょう。円卓同盟ジ・アライアンスは今、奪われた領地を奪回しながら帝國領に侵攻中さね。で……国境沿いの城で唯一、敗残兵を受け入れながら抵抗している場所がある。他はまあ、もぬけのからさね……皆、逃げたんだねえ」


 その城の名は、フレスヴェルグ城。

 城下の町並みごと籠城ろうじょうし、未だに抵抗しながら友軍を受け入れているという。

 そして、アルスは驚く。老練ろうれん手練手管しゅれんてくだで城を維持し、撤退してくる友軍のために戦っているのは……リフィータの育ての親、オランデルはくウォーケン。かつて帝國にその人ありと言われた最強騎士なのだった。

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