第7話 梨花ハント、開幕


1.喪失


 ヘレンの悲鳴が狭い車内にあふれた。あたしと話すために安全ベルトを外してたケンは、後ろに飛んでハンドルに背中をもたせ、ぐったりしていた。右の額がえぐり取られている。そこに露出しているものを、あたしは、まともに見ることができなかった。


 助手席からヘレンの荒い息遣いと「ケンが、撃たれた。撃たれた・・・」と念仏でも唱えるような声が聞えてくる。

「ともかく、クルマを、出さなきゃ。ここから、逃げなきゃ」ヘレンが息を乱したまま、自分に言い聞かせるように、言った。


 その次にヘレンがしたことに、あたしは、自分の目を疑った。ヘレンは運転席に身を乗り出してドアをあけ、ケンの身体を外に押し出したのだ。


「ヘレン、なんてこと、するの!ケンはケガしてるのよ。それなのに捨てていくの」

あたしが抗議すると、ヘレンが不気味なくらい落ち着いた声で「ケガじゃない。ケンは、もう、死んだ。生きている私が、あなたを守るしかない」と答えた。


「はぁ、あたしのせいにしないでよ。あんたは、自分を守りたくて、ケンを捨てたんでしょ」」

あたしが食ってかかると、ヘレンは低く、ドスを効かせたような声で「そう思うなら、それでいい」と応えた。


 ヘレンが運転席に移って「行くわよ」と言った直後、また、銃声が響いて、運転席のヘッドレストに何かが食い込むブスッという音がした。一瞬、間をおいて、フロントグラスに真っ赤なしぶきと豆腐を砕いたようなものが飛び散った。それが、ヘレンの血と脳ミソだということがわかるのに、2秒くらいかかった。


 あっと言う間に、あたしの大事な2人が、殺されてしまった。あたしの家族が、殺された。あたしのおなかの底で爆発が起きた。溶鉱炉から出たての鉄みたいな熱い塊があたしのお腹から突き上げて、喉を通り抜け、あたしの頭の中に広がった。



2.さらなる攻撃


 「セナ元捜査官もアトキンソン医師も、一発で即死ですね」双眼鏡で軽自動車をみながらブラウン大尉が言うと、ブラックマン大佐が、「絶好のチャンスが向こうから転がり込んできた。林道が1キロ近く直線になっているところで、あいつらがクルマを停めてくれるなんて」と応じた。

 「でも、そのチャンスも」と言って大佐が双眼鏡から目を離し、斜め後方に停めたミニバンの屋根に腹ばいになりM110狙撃銃を簡易式の三脚に載せて構えているグレイ軍曹を見る。

「軍曹、あなたの腕があったからこそ、ものにすることができた」

 

 軍曹はうんともすんとも言わない。ブラックマン大佐の副官として日常の部下管理を任されているブラウンは、こういう場面でハラハラしてしまう。

 グレイ軍曹はDIAでナンバー・ワンのスナイパーだが、不愛想で偏屈な人間が多い狙撃手のなかでも、極めつけの偏屈屋で、決して、一緒に仕事をしやすい人間ではないのだ。


 ところが、ブラウンが驚いたことに、ブラックマン大佐は、訓練中からしばしばグレイを褒め、反応がなくても褒め続けた。初めは、飛び切りの美人で自らに自信があるから、部下の非礼など気にもかけないのだと思っていたが、訓練が終わるころには、それだけでないことがわかった。


 この学者あがりでにわか作りの大佐は、部下を完全に実力だけで評価し、活かすことができるのだ。それは、生粋の職業軍人にとっても、意外に難しいことだった。

 しかし、裏を返すと、ブラックマン大佐の場合、仕事で使えない部下は、どれほど愛すべき人間であっても、ゴミに過ぎない。


 そこが、ブラウンには、どうも抵抗感がある。ブラウンは、アフガニスタン、イラクの戦場で、能力で劣る部下にも長所を探して、部隊に貢献させるよう努めていた。 

 自分の部隊といっても、それを構成するのは、軍からのあてがいぶちの兵士だ。第一線の指揮官は、与えられた手駒で戦うしかなく、簡単に捨ててよい手駒など、ないのだ。

 

 ブラウン自身はブラックマン大佐の副官として、大佐から「使えない」と見られ始めている自覚症状があった。仕事の進め方が違い、なにより、人間としてそりが合わないのだから致し方ないのだが、今後の軍でのキャリアを考えると、大佐とモメないで過ごす方が賢い。

 

 それでも、今は、副官として上申すべき場面だった。

「大佐、このまま、グレイ軍曹に、リカ・タチバナも始末させてはいかがでしょう?」ブラウンは、今回の「リカ・タチバナ抹殺作戦」に参加しているだけでなく、DIA内のANC運用チームの一員でもある。「虎の子」のANCを逃走NCの破壊ごときで危険にさらしたくない。それが、ブラウンのホンネだった。


 「却下」ブラックマン大佐は、一言で切って捨てた。「グレイ軍曹に梨花を狙わせると、梨花からニューロ・クラッシュされる危険があります。ブラッドレー中佐の部隊は、2名のオブザーバーを除いて、全員が梨花殺害を目標としていたから、リカにそれを察知され返り討ちにあったと考えるべきです」


「お言葉を返すようですが、大佐と自分は、リカ・タチバナを殺す意思を固めているのに、彼女の攻撃を受けていません。これだけ距離があれば、リカのニューロ・クラッシュは無効と考えてよいのではないですか?」


 ブラックマン大佐が形の良い眉を顔の中央に寄せながら、ブラウンを見た。「セナ元捜査官とアトキンソン医師を遠距離狙撃で無害化したのちに、ANC2名がリカに接近して殺害する。この作戦に、ブラウン大尉、あなたは同意したはずです」


「しかし、状況が変わりました。あの時は、走行中に狙撃する予定で、セナとアトキンソンを殺害することは難しいと考えていました。ところが、今、向こうは停まっていて、セナとアトキンソンは死にました。クルマを運転できる人間がゼロになり、リカ・タチバナは袋のネズミです。遠距離狙撃で十分始末できます」


 大佐はブラウンから目をそらして、少しの間、考えているような顔をしていたが、すぐにブラウンに向き直った。

「当初作戦どおり決行します。今後、第二世代ANCの中からも脱走兵が出ることがありえます。その時に備えて、私が考えた作戦が通用することを確認します」


 やはり、そこか。大佐は、どうしても、ANCとNCを戦わせてみたいのだ。だが、それでは、軍の実際の作戦を利用した性能試験じゃないか。

 抗議しようと思ったが、止めた。自分が何を言おうと、大佐が考えを変えるわけがなく、抗議すれば、自分が損するだけだということが明らかだった。


 もういい、俺は、言うべきことは言った。

「了解しました。作戦の第二段階に移行します」

ブラウンは、2人のANCが乗っている2台目のミニバンに向って歩き出した。ブラウンが動き出すのを待っていたかのように、ミニバンが狭い道で1台目を追い越して前に出た。



 

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