第3話  撃退

 「さあ、クルマに移動しよう」ケンが言い、ヘレンも立ち上がった。あたしも一緒に家から出ようとして、急に、周り中からにらまれてる感じがして、鳥肌が立った。家の中には、あたしたち3人しかいないんだから、にらんでる奴が本当にいるとしたら、家の外側だ。


「ねえ、ねえ、ちょっと変だよ。外が、なんか、ヤバくなってる気がする」あたしは、先頭に立つケンの背中に呼びかけた。


「『感じ』って、どんな感じがするの?」ヘレンがイライラした声で、いつも通り、間抜けなことを訊いてくる。「だから、ヤバい感じだよ。怖い奴らに、にらまれてる感じだよ」あたしは、ヘレンに言ってやった。


 「梨花、夜逃げしようって時は、誰だって、落ち着かない不安な気持ちになるものだわ。梨花は、特に神経過敏な方だから、それを『ヤバい感じ』って受け止めても不思議はない。でも、『案ずるより産むがやすし』って言うでしょ。大丈夫、ほら、手をつなごう」ヘレンが紙のように白くて表面がカサカサの手を伸ばしてきた。

  

 ほら、出た。この大先生の「誰でも」ってやつ。あんたは、あたしの主治医だろう?「誰でも」の話をする前に、どうして、この「あ・た・し」が感じてることをわかろうとしないんだ!

 あたしは、ヘレンの手をひっぱたいた。「イヤだ、あたしは、行かない。出たら、絶対、マズイことになる」本当は、そこまで確かだったわけじゃないけど、ヘレンへの当てつけで、つい、言葉がきつくなる。


 「わかった。二人は、ここで待っていて。僕が、外の様子を見てくる」あたしの「感じ」を信じてくれるのは、いつも、ケンの方だ。ケンは、DCISの捜査官だったから、闘う勘みたいなのが身についてるんだと思う。

 「でも、ケン、独りで大丈夫?」ヘレンが、また、役に立たない心配をする。あんたみたいな素人についてこられたら、ケンが迷惑するって、わかってないの?

「大丈夫。ヘレンは、ここにいて、梨花を守ってあげて」とケンが言い、ホルスターから銃を抜いて、玄関に向かった」



 橘梨花と疑われる人間の家は、二階建てのアパートが立ち並ぶ中に、一軒だけ残っている平屋建てだった。旧式の街灯が投げるよどんだ明かりの中でも、古びて色あせた建屋であることが見て取れる。慧子とマスムラは、梨花が出て来たら顔を確かめるために、正面玄関の前に並んで立っていた。

 二人の後ろにインカムをつけたブラッドレー中佐が立ち、部下たちからの準備完了の連絡を待つ。副官のサマーズ大尉は、後方支援のために横田基地に残っていた。


 ブラッドレー中佐の作戦は、家の周りに散らばった部下が正面を除いた、家の周り三方から火をつけ、火事におびえた住民が玄関から飛び出してくるところを叩くというものだった。

 

 橘梨花が同姓同名の別人だった場合、この家の住民にけが人が出たらどうするつもりだ?家を焼いてしまった弁償はどうするんだ?ツッコミどころだらけの粗暴で、単純で、作戦という呼び名に値しない計画・・・この家の住民である橘梨花が、2年前に亡くなった橘梨花と同一人物だと決めつけて、他の可能性を一切無視した粗雑な発想だ。

 もともと、常にガチで戦うことしか考えられないブラッドレーには呆れていたが、これで、決定的に愛想が尽きた。


 慧子とマスムラの後ろのアパートの塀の陰で、人造ニューロ・クラッシャー(ANC)1号と2号が、それぞれ、上司兼パートナーと一緒に息を潜めていた。


 ANCは、常に、上司兼パートナーと2人で行動する。上司とANCが2人ともターゲットを視認したら、上司の脳から攻撃OKの信号がANCの脳に送られ、人造ニューロ・クラッシュシステムが起動する。つまり、ANCは上司の許可なくニューロ・クラッシュを始めることはできない。上司の脳に埋め込まれたターゲット視認システムとANCのターゲット視認システムはシンクロしているから、上司は、ANCのパートナーでもある。

 

 こ梨花の脳神経系の作動をヒントにこのシステムを開発したのは、他の誰でもない、慧子自身だ。慧子は、梨花のニューロ・クラッシュ能力を研究するために彼女が9歳から12歳になるまで、3年間を共に過ごした。家族のいない慧子にとって、梨花は実の娘も同じだった。

 

 一方、ANC 1号・2号のニューロ・クラッシュ・システムへの適合性を検査し、脳への手術に立ち会い、実戦に向けて指導したのも慧子だ。1号・2号も、また、慧子が手塩にかけて育てた息子と娘だった。

 

 アフリカ系男性の1号とアジア系女性の2号は、自らの上司やブラッドレー中佐がいるので、慧子とはお互いに黙礼を交わしただけだが、彼らの視線に親しみと同時に不安が現れていると慧子は感じた。当然だ。ニューロ・クラッシャー同士が戦うなんて、これが初めてなのだ。


 慧子は、本当なら1号と2号を「大丈夫、あなた達なら、必ず勝てる」と力づけなければいけない立場だが、梨花の身が案じられて、それが出来ない。私の心は、どうしても、梨花に向ってしまうのだ。ごめんなさい、1号、2号。そして、私がANCへの改造手術を行った、他の8人達・・・

 慧子は、この家の住民が、橘梨花と同姓同名の赤の他人であることを祈るしかなかった。


 ブラッドレー中佐がインカムで「作戦開始」を告げた直後、家の玄関が開いて、独りの男性が現れた。2年の歳月が流れ、薄暗い街灯の下でも、一瞬で、彼がタカシ・セナだとわかった。隣でマスムラが何かを喉に詰まらせるような音を立てた。セナは、DCISでマスムラの直属の部下だった。


 ここは、やはり、橘梨花の隠れ家だったのだ。絶望が慧子を打ちのめす。


「セナ捜査官、君たちは包囲されている。銃を持っているなら、捨てなさい」マスムラが、彼にしては上ずった声で、セナに呼びかけた。セナは、右手を身体の後ろに隠している。


 ブラッドレー中佐が「××××」と四文字言葉でののしり、マスムラを押しのけセナに銃を向けた。セナが身体を左にねじってかがめ、背中に隠していた拳銃を水平に寝かせたまま中佐に向けた。タ、ターンと、ひとつながりの銃声がし、二つの閃光が走った。ブラッドレー中佐の身体が後ろに飛ぶ。


 マスムラが両手を挙げたので、慧子もそれにならった。背後で人が動く気配がする。慧子が両手を挙げたまま振り向くと、ANC1号と上司が姿勢を低くして、アパートの塀の陰から飛び出してきた。セナにニューロ・クラッシュを仕掛けるつもりだ。


 「命が惜しかったら、やめろ」というセナの声に前を向くと、セナが銃を両手で構えて位置を変えるところだった。その時、家の方でボン、ボン、ボンと、鈍い爆発音が続いた。家の三方から一気に火の手が上がる。あゝ、マズイ。もうすぐ、梨花が玄関から飛び出してくる。そして、そこには、ANC2号が、いや、おそらく1号も待ち受けている。


 突然、後方から「ギャッ」という悲鳴が聞こえた。「どうした1号、」と呼びかける上司の声が、途中で、「ウウウ」という唸り声に変わる。慧子が振り向くと、1号が両手で頭を抱えたまま地面に転がり、その横で1号の上司がうずくまり、同じように両手で頭を抱えていた。

 アパートの塀の陰からも悲鳴とうなり声が聞こえてきた。2号とその上司だ。2つのANCチームに異変が起きていた。 


 これは、梨花の仕業なの?だが、梨花は、彼女の目の前で、彼女に危害を加えようとしている相手にしかニューロ・クラッシュできないはずだ。今、梨花からANC1号も、2号も、全く見えていないはずなのに。


 「セナ捜査官、君たちは依然として包囲されている。銃を捨てて投降するんだ」マスムラが、周囲の異変にもかかわらず、落ち着き払った声でセナに呼びかけていることに感心した。

 この人は、戦闘とはおよそ無縁の学者肌に見えて、いざとなると肚の据わる人だ。ブラッドレーなんかより、よほど肝がでかい。

 ぱたぱたと足音がして、家の両側から中佐の部下たちが5人、玄関前に駆け出してきた。それを見たセナが、拳銃を捨て、両手を挙げた。「ヘレン、銃を捨て、両手を挙げて出てくるんだ」セナが肩越しに家の中を振り返って大声で指示した。


 その時だ。慧子の目の前で空間がぐにゃりと歪んだ。中佐の部下たちが、5人とも、頭を抱え、膝を折って地面に崩れた。セナが驚いたように周りを見ている。


 玄関から、梨花が出て来た。白目をむいて、頭だけでなく、全身を激しく震わせている。その後から元々血の気の乏しい顔を紙のように白くしたドクター・アトキンソンが出て来た。アトキンソンは、玄関前の光景を見て、手を口に当てる。


 慧子のすぐ後ろで「ウッ、ウッ、ウッ」とうめく声がした。返り見ると、ブラッドレー中佐だった。中佐の服に出血の跡はない。防弾ベストの上から撃たれて一瞬気を失っていたが、今度は、脳に衝撃を受けているのだ。


 「セナ捜査官、梨花の『力』は、戻ってしまったの?」慧子は、思い切って、セナに尋ねた。「そのようです、博士」」セナが地面から銃を拾いながら答えた。


 「これも、梨花がしていることなの?」という慧子の問いに、セナは「わかりません。私も、こんなことは、初めて見ました。ただ、博士には申し上げにくいのですが、梨花の力は、復活してから、以前よりどんどん強くなっているようです」と流暢な日本語で答えた。


 「ところで、マスムラ捜査官、あなたは、どうなさいますか?私は、あなたと闘いたくありませんが」と、セナがマスムラに話を振った。


「私は、この国では、捜査権も逮捕権もない。ここには、単なるオブザーバーとして立ち会っているだけだ。レノックス博士も同じだ」と、マスムラが落ち着いた口調で応えた。

「では、私たちは、ここから立ち去ります。お元気で。そして、マスムラ捜査官とも、レノックス博士とも、二度とお会いしないことを祈っています」セナが穏やかに言った。


 慧子は、だまってうなずいて返した。まだ口を手でふさいでおののいているドクター・アトキンソンに「ドクター・アトキンソン、梨花のことをよろしくお願いします」と声をかけると、アトキンソンが慧子に目を向けた。怯えた目だったが、それでも、目線でうなずいてみせたと、慧子は感じた。


 梨花は、まだ、白目を剥いて全身を震わせていた。おそらく、慧子たちが分乗してきたSUVのドライバーたちも、行動不能にしているだろう。あの中のどれかに乗って、ここを脱出し、どこかでクルマを乗り換えればいい。DIAのクルマには、みな、追跡用GPSが装着されているから、長く使うのは危険だ。もちろん、セナなら、そんなことは、百も承知だ。


「それでは、マスムラ捜査官、レノックス博士、お元気で」と言い残して、セナは、梨花とアトキンソンを連れて夜の闇の中に消えていった。



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