遠くでノイズ混じりのゆうやけこやけが流れている。まだ日も浅いのに、必死になって遊び回る子どもは帰らなければならない。僕が小学生の頃からそうだった。近所に女子の同級生はいなかったけれど、二つ下の弟を目当てに、同級生の男子が度々我が家へ訪れた。

「今日も残念だったねぇ、今日も」

 放送が途切れると、ユクが間延びした調子で言った。大事なことだから二回言った、と笑う。

「しつこい、言わないでいいから」

「また行こうよ。そのうち食べられるだろうし」

「うん、ありがとう」

 年中空気を読まないユクが、珍しく僕を励ました。

 僕らは通りをまっすぐ進み、突き当たりの駅へと歩く。商店街は静かだ。繁盛する店は一つもない。7月末には祭りで賑わったのに、今ではまるで夢のようだ。

 自転車を手押しする少年が四人、僕とユクの隣を通り過ぎる。少年らは明日の放課後の予定を相談していた。まるで家に帰るまでの時間を、必死になって延ばしているみたいだ。

「子供って馬鹿みたい」

 ユクがふと呟いた。

「何、それ。わたしらも、大人からみれば子どもでしょ」

「あたしは小三のとき、すでにロックを聴いてたよ。ビートルズとか、スピッツとか、ゆらゆら帝国とか」

「へえ、おませさん」

 名前を言われても、僕は音楽には人より疎いから、パッと楽曲を脳内再生できなかった。

「まあね。歌詞の意味とかさっぱり。今でもよく分からないけどね。ミュージシャンが歌いたいこととか、全然」

「成長したのに?」

「色々と成長した、けど、分からないことばっかり。分かろうとしても分からないし、分かろうとしなかったら、やっぱり分からない」

 成長の色はどこだろう。出会う以前のユクなんて僕は知らない。ユクは、どんな大人よりも魅力的な外見、それとは反対に、意識が内側ばかりへ向いた子どものような態度が目立つ。

 でもユクは、僕よりも多くを知っている。ユクはよく、知識の必要不必要を気に留めずに本を読む。学校の休憩時間、僕がそばにいない時には決まってハードカバーの本を読んでいるらしい。本の表紙を盗み見ても、それらに共通する情報はなかった。犯罪、料理、快楽殺人、恋愛、自殺、セックス、家族愛、難病、麻薬。日替わりに彼女は本を読み潰していく。内容からして、大半は学校の図書室には存在しない書物だった。

 とにかく何でも知っている。休日に恋人とデートをする楽しさだって、一人でいても寂しくない方法だって、ユクは知っている。

 ユクが妙な話をしてもついていけない。僕は別の話題を持ち出した。

「今何ヶ月? バシ君と」

 尋ねるとユクは指を折り、

「今月で……八ヶ月」

 と、頼りなく答えた。

「たまに思うけど、よく続くよね」

 僕は今まで、誰かと付き合ったり、手を繋いだりした経験はない。それでも、八ヶ月という数字は酷く途方もない。八ヶ月、約、三〇日×八。その間に二人で買い物に出かけて、手を繋いで、キスをして、喧嘩をして、それでも持ち直して、ついには互いに中身を見せ合うのだろうか。

「そうかな。前の彼氏とは、二年くらい付き合ったけど」

「まじで、っていうか、いつ?」

 ユクの恋人、バシ君のことは度々聞いていた。どころか面識もあった。バシ君ことイシバシ君。目が細く、過ぎない程度に背の高い男で、特別女から求められそうなタイプではなかった。

「中学一年の終わりから、三年のクリスマス前までね。二つ年上の人」

「でも別れちゃったんだ」

「クリスマスイブに浮気された」

 随分と軽やかにカミングアウトするから、僕は絶句してしまった。どうやらユクは僕の表情からそれを察したらしかった。

「中二のときのクリスマスイブに、そいつからネックレス貰ったんだよ。値段は知らないけど、凄く綺麗だったから気に入った」

 ユクは脚を子どもみたいに振り上げて歩いている。首を上に向けて、暗くなりかけた空を、呆けた表情で拝んでいる。ユクが街灯にぶつからないか不安になる。

「だから次の年は、あたしが何かプレゼントしようかなんて、思ってさ。あいつは気にしないって言うけど、あたしは貰いっぱなしが嫌だったの。だから内緒で、お金貯めたんだ。お正月のお年玉にも手はつけなかったし、お小遣いも使うのは最低限。その年のクリスマスまで頑張って貯金して、三万円くらいになったから、あいつの好きそうなアクセサリー買ったんだ。でもあいつは、イブにアルバイト入っちゃったから会えないって言うの」

「ユク、もういいわ……後は大体想像できるし、こっちまで病みそう」

「別に病んでなんかないよ。あたしが病むように見える?」

 ユクは両腕を広げてみせた。まるで、泥酔した中年親父が「酔ってないよ」と主張する様子だ。冗談めかして「見える」と答える。

「まあご察しと通り。あいつはイブに他の女と浮気してた。あたしが一人で、この通りを散歩してたらね、あいつがその辺で、女といちゃついてるのを目撃したの」

「最悪じゃん、そんなの」

「後で気づいたけど、あたしはお金を貯めるために、あいつと遊びに行くのも削ってたんだ。あいつはあたしの分まで払ってくれてたけど、それに甘えるのが嫌で。だからあいつは、あたしに愛想が尽きて、そこらのブスと付き合ったんでしょうね」

 まるで楽しそうに語るユクは破滅的で、そんなユクでもやはり美しい。何をしても様になってしまう。

「バシ君は浮気しないし。というかできない。そんなにもてないし、最高だよ。ルリも――」

「やめて」

「最後まで言わせてよ」

「大体わかるから。どうせ彼氏作るならなんとかかんとか、でしょ?」

 あたしの経験はこうだから、こうしたほうがいい、と教訓を残すんだろ? 彼氏を作るなら、徹底的に縛りつけろとでも。

 ユクには微塵も悪意がない。だからいつも困ってしまう。僕よりもずっと、ユクは美人。だから何を言っても、優れている人間の嫌味っぽい助言に変化してしまう。

 そして僕の奥底のほうから濁った色の嫉妬がじわじわ湧いてくる。そして、ユクに嫉妬しているブスな自分が嫌いになる。

「あのさ、聞いてもいい?」

「出た、ユクの『聞いてもいい?』が」

 頻繁に尋ねているつもりはないが、ユクが言うならそうなのだろう。

「ダメ?」

「いいよ」

 ユクは僕の質問に期待している様子で、目尻と、唇の端を緩ませていた。

「あのさ、ユクってキスしたことある?」

 ユクの表情が一瞬凍った気がした。歩く速度は変わらないけど、表情のない仮面にヒビが入ったように見えた。

「うん、あるよ」

「キスってさ、どんな感じ?」

「どんな感じ、ねぇ」

 ユクが言葉に詰まる。僕はとても陳腐で恥ずかしい質問をしたはずなのに、妙に落ち着いていた。

「気持ちいいとか、気持ち悪いとか。ディープとか、フレンチとか」

 ユクは何でも知っている。僕の知らないことを何でも。少なくとも僕はそう思っている。知っていることといえば、フレンチキスが可愛い語感とは裏腹に、ディープキスを意味していることくらい。役に立たない知識の中でも、特別役立たない知識だ。

「別に、普通だったよ?」

「普通?」

「そ、普通。良くも悪もなく、普通。あー来た、今唇くっついたぁ、みたいな」

 ユクは大仰な手振りで、発言を冗談めかせた。

「へえ。じゃあ、味は?」

 ユクはついに吹き出した。

「味って、変態なの?」

「なんか、よく言うじゃない。初キスはレモンの味とかさ」

「それ、昔の曲で言っていただけだよ、多分。そんなわけないじゃない。ていうか、唇だけだから、味とかわかんないし、強いて言うなら唾液の味」

 ユクの回答は普通だった。どうしようもなく普通。期待外れとは言わないが、想像以上の答えではなくて、興味を失くしてしまい、僕は「ふぅん」と喉を鳴らすしかできなかった。

「ルリはキスがしたいの?」

「別に、したいとかじゃないよ。ただ興味があったから。なんか、映画とか、ドラマとかのキスを見てもさ、全部嘘っぽくて、まぁ、俳優同士だから実際嘘なんだろうけど。だからリアルでもそうなのかなって。好きな人相手なら、そういう風にはならないのかな、って思って」

 何の映画だったかな。父親に連れられて観に行ったハリウッド超大作。悪との戦いを終え、ワイルドな女性と冴えない主人公が、黄色いクーペの上で濃厚なキスを交わす。映画の大筋は忘れてしまったが、最後の蛇足なシーンだけは頭に刻まれている。

 濃厚なキスであるほどに、偽物染みていく。

「じゃあさ、試してみない?」

「試すって、何を」

「わかってるくせに」

 そうだ。僕は馬鹿じゃないからわかる。ユクが試したいのではなく、僕が試したいのだ。ユクの顔は幼稚な女の子みたいに緩んでいる。きっとその表情は仮面だ。僕にだけ見せる、ユクの大人っぽい姿が、仮面の下に隠されている。

 ユクは僕の手首を掴んで、帰り道を逸れていく。営業日が気まぐれなゲームショップの角を曲がる。薄暗い細道は別世界への通路みたいで、肩が小刻みに震えた。ユクの肩に目を向ける。僕と同じく、小さく震えた瞬間を目撃してしまう。細道をずんずんと進むと、やがて大通りの静けさとは違う、何者も存在しなさそうな、薄暗いところへやってきた。

「ユクさぁ、本気で言ってるの?」

 警告のつもりだった。冗談ならやめろ、なんて言えなくて、まるで責任をユクに押しつけるようだった。

「本気だよ? あたし、こういうときは嘘吐かないじゃない」

「それは、そうだね」

「そうだよ。だからさ、」

 なんだか視界がぼやける。薄いモザイクを張ったように、ユクの顔が歪んで見えた。

 いつかビールを飲んだときの感覚を思い出した。母親の飲み残したビールを盗み飲んだ。口づけから喉越しまでずっと苦かった。が、何をしても許されるような、開放感がしばらく、僕の全身に巡っていた。

 ユクの腕が僕に伸びた。僕はまだ、仮想の酩酊の中にいて抵抗できない。首筋に冷たい掌が触れて、ヒッと、短い悲鳴を漏らしてしまう。

「バシくんは、いいの? 付き合ってるんじゃないの?」

 きっとこの言葉も、ユクには届かないだろう。だって僕が苦し紛れだと自覚しているし。

「いいじゃない、キスくらい。減るものじゃないでしょ?」

「いや、ユクはさぁ、減らないだろうけど、わたしは……」

「初めて?」

「……うん」

 本当はヴァージンがどうこうとかどうでもいいけど。

「いいじゃない、練習台だと思ってさ」

「練習台?」

 僕は、自分が壁に追いやられているとようやく気づいた。いつのまにか、ユクの手とは違う、冷たい壁と背が触れた。夏だから制服は薄くて、壁の感触が背中へよく伝わる。モルタルの細かな凹凸は少しだけ不快だった。

「そ。キスが初めてかどうか、なんて、キスの後のことと違って、口で言わなければ分からないんだし」

「なんか、そういうのって、卑怯じゃない?」

「そんなことないよ。誰だって嘘は吐くし。あたしはもしかしたら、ユクにたくさん嘘をついているかもしれないよ? ユクのことが本当は嫌いかも知れない。実はユクよりも成績が良いかもしれないし、それに、もしかしたら、バシくんとは、付き合っていないかもしれない」

「変なこと、言わないでよ。馬鹿みたいじゃん、そんなの」

「だから、だからさ、今から馬鹿みたいなことをするの」

 馬鹿みたいだ、何もかも。ユクの手の感触も、大きな瞳も、薄っすらと輝く唇も。

暗い路地で、呼吸しているのはきっと僕たちだけだ。今だけは世界が二人のものに思える。遠くで鳴いているカラスも、ガラスで隔てられた別の空間の生物みたいだ。

「ほら、目、つぶって」

 僕を玩具にするように、ゆっくりとユクが顔を近づけた。吸い込まれそうな瞳に圧倒された。僕はもう、目を閉じるしかなかった。視界が真黒にになると、それ以外の感覚が敏感になる。ユクの呼吸が僕に届いた。

「…………」

 殺されたっていい。

 あれ、なぜそんなことを考えた。違う、殺されたって、じゃない。ユクに何をされたっていい、と僕は無意識に思ったのだ。

 時間が経っても、僕の唇には何も触れない。一秒が永遠に思えてしょうがない。きっとユクは、僕を焦らせて遊んでいるのだ。

 待ちわびて、やっと僕に与えられた感覚のは細い痛みだった。鼻を両側から押し潰されたせいだった。たまらず目を開く。その瞬間に、

「あははっ」

 とユクが吹き出した。

 ユクの右手が僕の鼻をぎゅっとつまんでいた。

「ほんとにキス、すると思った?」

 やっと僕は、からかわれたのだと悟っ。僕のすべてをユクに見透かされて、ユクの玩具にされた。僕の反応具合まで予測されて、掌の上で転がされて。

 心がむかついた。

 ユクの表情は、ありがちな若者の笑顔そのものだった。この綺麗な笑顔を壊してやりたい。何笑ってるんだ、お前。何がそんなに楽しかったんだ。笑ってんじゃねぇよ、ユク。

 ユクは僕の反撃を想像もしないだろう。それに、僕はそれを実現する力を持っている。僕は笑いまくるユクを壁に押しつけて、覆いかぶさった。

「馬鹿にするな」

 馬鹿にするな。

 驚いた表情のユク。目も、口も、驚いた様子を貼りつけている。少し開いているユクの、柔らかそうな唇。眺めている間も無防備なそれに唇を重ねた。

 暑い。体の底から暑い。バニラのアイスクリームみたいに、頭から溶けてしまいそう。 口の中では、二つが溶け合って、一つになってしまいそうだ。

 ユクから離れると、ユクは精一杯呼吸した。

 僕は少し頭が痛かった。キスしている間、呼吸しなかったせいだ。

「馬鹿に、するなって」

「さっきしてただろ」

 ユクは目をまん丸くして、ぽっかりと口を開けていた。呆然とした、見たこともない表情だ。

 ユクの開いたままの口が愛おしい。いっそ溶け合いたい。混ざり合って、一つの生き物になってしまいたい、と無茶苦茶な妄想が走った。

 少しだけ酔いが薄れていた。全身は熱いままだけど、頭は氷を押しつけられたように冷めていた。それでも、まだこ酔っぱらったような感覚が愛おしくて、またユクに顔を近づけた。「ちょっと……」と抵抗するが構わない。

「自業自得だよ、馬鹿」

 馬鹿なままでいいから、一秒でも長くこの酩酊を続けたい。


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