第16話

 驚きすぎて、涙も出てこなかった。あの時、大君はたしかに婚約破棄をすると言っていたのに、どうしてこうなってしまったのだろうか。待ってて欲しいと言ってくれたのは、嘘だったのだろうか。考えても考えても分からなかった。あてもなく、私はトボトボと歩き続ける。


「美和?」


 後ろから名前を呼ばれ、ハッと我に返る。振り返ると翔が立っていた。いつのまにか翔の住むマンションまで歩いてきたようだった。


「そんな格好で。しかも手ぶらで歩いててどうしたんだよ。」


「あ、あれ?」


 手元を見るとカバンを持って来ていなかった。どこかに忘れて来たらしい。


「翔こそどうしたの?って大丈夫?」


 翔は片手に買い物袋をぶらさげ、反対の手でおんぶするあさひ君を支えていた。今にもあさひ君が背中から落ちてしまいそうだった。急いで、翔の持つ袋を代わりに持つ。


「美和。悪いな。ありがとう。でも、あんまり俺たちに近づかない方がいいかも。うつるかもしれないから。」


「え?」


 良く見ると、2人ともマスクをして赤い顔をしていた。


「熱があるの?」


「あぁ。2人で風邪ひいちゃって。」


 翔があさひ君を背負い直しながら言った。


「大丈夫?荷物は私が持つから早く部屋に入って。」


 慌てて2人を支え、マンションに促す。部屋に入ると、寝室まで付き添い、あさひ君をベッドに寝かせるのを手伝った。真っ赤な顔をしてぐったりしていた。首元を触ると熱く、熱が高いようだった。


「病院行った?」


「今、行ってきて帰ってきたところ。熱が2人とも39度近くあるんだ。」


 翔がハァハァ息をしながら辛そうに言った。


「翔も横になってて。私、お粥作ったりするから。」


「悪いな…でもマジで助かるよ。俺もちょっとやばくて。」


 翔はフラフラしながらベッドに入る。


「休んでて。」


 私はそう言うと、静かにドアを閉めた。キッチンに入ると、お粥を作り始める。しばらくして2人の様子を見に部屋を覗きに行くと、2人ともぐっすり眠っていた。首元を触るとまだ体は熱く、汗をびっしょりかいていた。急いでキッチンに戻ると、タオルを濡らし、寝室へ持ってきた。起こさないように、そっとあさひ君のおでこを拭く。パジャマも濡れているようだった。寝室を見渡すと子供用のパジャマが隅に畳んで置いてあるのに気がついた。あさひ君の体をそっと起こしパジャマを着替えさせる。慣れない子供の着替えに手間取るが、なんとか起こさずに着替えさせてあげることができた。翔の方に移動すると、翔の額や首元を、あさひ君と同じように拭く。さすがに服を脱がせるのは抵抗があった。できる範囲で体を拭き終わると、静かにドアを閉め、寝室を後にした。部屋を見渡すと、先日来た時と変わらず、部屋は散らかったままだった。2人が起きるまでの間、部屋を掃除することにした。散らばっているオモチャを拾い、おもちゃ箱にしまう。ソファに置きっ放しの翔の服をハンガーに掛け、散らばっている書類をまとめ、机の上に置いた。ふと、棚の上に置いてある写真に目が止まる。翔と、赤ちゃんを抱いて優しく微笑む女の人が写っていた。


「この人…。翔の奥さんだ。」


 生まれたばかりの赤ちゃんはあさひ君の面影があった。写真に写る3人はとても幸せそうだった。もし奥さんが生きていたら、私と翔は会うことはなかっただろう。寝室から、あさひ君の泣き声聞こえた。慌てて寝室へ行くと、あさひ君は熱にうなされているのか泣きながら寝ていた。胸をトントンと優しく叩いてあげると、あさひ君は泣き止み始めた。涙が頬を伝い、小さな手でギュッと私の手を握った。握り返してあげると、あさひ君は安心したようにスースーと寝息を立て始めた。空いている手で頭を撫でであげる。


「美和?」


 翔が目を覚ましたようだった。


「起き上がれそう?お粥作ったけど食べられそう?」


 あさひ君が起きないように小さな声で翔に話しかける。


「ありがとう。お腹空いて来たし、食べようかな。」


 翔はベッドから起き上がると、あさひ君に目をやる。


「美和。ありがとな。あさひの手握ってくれてたんだな。」


「さっきちょっと泣いてたから。」


 そっと手を離して立ち上がる。すると、あさひ君はパチっと目を開けた。


「あっ。あさひ君。起きちゃった?」


 慌ててあさひ君の隣にしゃがみ顔を覗き込む。


「お姉ちゃん?」


 あさひ君は熱でウルウルした目で私を見つめた。


「心配して来てくれたんだよ。お姉ちゃんがお粥作ってくれたんだって。食べるか?」


 翔があさひ君を抱き起こすと、あさひ君はコクリと頷いた。


「熱いから気をつけて食べてね。」


 梅干し入りのお粥を机に並べる。


「ありがとう。」


 翔はあさひ君を膝に乗せて、お粥を食べ始める。


「うまい。体が温まるよ。」


「お姉ちゃん。美味しい。」


 2人は少しずつお粥を食べる。


「少し食欲出てきたみたいで良かった。」


 まだ熱はありそうだったが、2人の食欲を見て、胸をなでおろす。翔はお粥を食べながら、部屋を見渡す。


「部屋も掃除してくれたんだな。本当に助かるよ。俺の両親は他界してるし、頼れる人がいないのに、俺までダウンしちゃって、本当にどうしようかと思ったよ。」


「そっか。たまたま会えてよかった。」


「そう言えば、今日結婚式でもあったの?ドレス着てるけど。」


 翔はドレス姿の私をじっと見る。


「あっ。ちょっとね…パーティーがあってね。でももう終わったから大丈夫。」


「そっか…。美和も疲れてるとこ悪かったな。もう大丈夫だから。心配かけたな。」


 翔はフラフラしながら、あさひ君を抱き上げる。食べながら寝てしまったようだった。


「ちょっと大丈夫?」


 慌てて翔を支える。


「ごめん。まだ熱があるみたいだ…。」


 翔はまた熱が上がってきたようで、赤い顔をしていた。


「私…。今日は泊まって行こうか?そんなんじゃあさひ君が泣いちゃった時困るでしょ?」


「ま、まぁな。でもいいのか?」


 翔がフラフラしながらも心配そうにこちらを見る。


「大丈夫。大丈夫。着替えさえ何か貸してくれたら大丈夫だから。ソファで寝れるし。」


 それに、家に帰って、櫂と顔を合わせるのが気不味かった。会えば、大君のことを色々と聞くことになるだろう。まだそんな心の準備はできてなかった。


「じゃあ、お願いしちゃおうかな。着替えはタンスに入ってる俺の服着てもらえばいいから。風呂も勝手に使って。」


「うん。ありがとう。じゃあ、使わせてもらうね。翔はゆっくり寝てて。」


「悪いな。」


 翔はフラフラしながらあさひ君と寝室へ戻っていった。2人が寝ているうちにシャワーを浴びることにした。編み込んでもらった髪をほどいていると、すごい勢いで大君の元へ走って行った慎太郎君のことを思い出した。あれから、大君とケンカになったのだろうか。みんな急に居なくなった私を探しているかもしれない。でも、まだ大君のことを聞くのは怖かった。それに、翔とあさひ君が心配で、置いて行くわけには行かなかった。

 シャワーを浴びて部屋に戻ると、すっかり日は沈み、電気をつけてない部屋は真っ暗だった。電気もつけずにソファに座り込むと、別れ際に見た、クシャクシャと笑った大君の顔を思い出した。大君は今頃どうしているのだろう。綾芽さんと一緒にいるのだろうか。どうしてこんなことになってしまったのだろう。大君は、綾芽さんに何かを耳打ちされると、みるみるうちに顔色が変わり、すぐに婚約を受け入れてしまった。綾芽さんに決定的な何かを言われたようだった。何て言われたのだろう。あの一言がなければ、大君は婚約はしていなかったはずだ。でも、婚約成立させてしまった今、私にできることは何もなかった。なにより大君が決めたことに、今更私が何か言ってもどうしようもない気がした。


「美和?」


 ハッと気がつくと、翔が後ろに立っていた。


「電気もつけずにどうしたんだよ。」


 翔が電気を灯す。


「美和?泣いてたのか?」


 慌てて頬に手をやると涙で濡れていた。自分でも気がつかないうちに、泣いていたようだった。


「何でもないから。」


 慌てて涙を拭く。


「どうしたんだよ。今日、なんか元気ないし、何かあったのか?」


 翔は慌ててタオルを差し出す。


「ありがとう。ちょっといろいろあってね。でも、もう終わったことだからいいの。」


 病気の翔を心配させないよう、無理に笑顔を作る。


「あー。もう。その顔。俺の前では無理するなよ。」


「翔…。」


 翔は私の頭をポンポンと優しく撫でる。耐えきれず、涙が溢れ出した。翔は優しく私を引き寄せる。私はしばらく翔の胸の中で泣き続けた。


「風邪移っちまうな。」


 翔は私を優しく引き離す。


「治ったらもっと抱きしめてやるから、無理すんな。」


 翔は私の涙を手で拭う。


「ごめんね。熱があるのに。もう大丈夫だから寝て?」


「ごめんな。そばにいてやれなくて。ちょっと横になるわ。」


 翔は寝室に戻って行った。翔が寝室に入るのを見届けると、ソファに横になり目をつぶった。もう大君のことを考えるのはやめよう。

 気がつくとあさひ君の泣き声が聞こえて目が覚めた。気がつかないうちに眠ってしまっていたようだった。慌てて寝室に行くと、あさひ君は泣きながら眠っていた。また胸を、優しくトントンしながら、手を握る。


 ****


「ん…。」


 気がつくとカーテンから朝日が差し込んでいた。私はあさひ君の手を握ったままベッドの横で眠ってしまっていた。あさひ君の首元を触ってみると、熱は下がっているようだった。


「よかった。」


 ホッと胸を撫で下ろす。2人を起こさないように寝室を出ると、朝ごはんにおじやを作ることにした。人参や白菜、ネギなどの野菜と豚肉を少し入れたオリジナルレシピだ。


「美和。おはよう。」


 翔がボサボサの頭を掻きながら起きてきた。


「おはよう。熱はどう?あさひ君は体触ってみたら、下がったみたいだったけど。」


「俺も下がったみたいだ。昨夜ゆっくり眠れたからかな。美和助かったよ。ありがとな。」


 翔の顔を見るとスッキリしたようで、元気そうだった。


「元気になって良かった。今、おじや作ってるから。櫂が風邪引いた時によく作る…。か、翔?」


 翔に後ろから抱きしめられる。


「治ったらもっと抱きしめてやるって言ったろ?」


「翔…。」


「昨日泣いてたのって、花火の時に一緒にいた奴のせいなのか?」


 胸がズキンと痛む。私は無言で頷いた。


「やっぱりな…。」


 翔はさらに腕に力を入れ、自分の方に私を引き寄せる。


「俺たちやり直さないか?」


「え?」


「妻が他界して、もう2度人を好きになることなんてないと思ってたんだ。でも美和と再会してから、ずっと美和のことばかり考えてしまうんだ。美和といて、また人を好きになることを思い出したんだ。今の俺たちだったら上手く行くと思うんだ。」


 A.私も好き

 B.好きじゃない

 C.黙る


「えっ…。」


 急なことで、何て答えたら良いのか分からなかった。


「答えは今すぐじゃなくていいから。美和が落ち着いた時に考えてみてほしい。」


 翔は私の顔を覗き込んで優しく微笑んだ。


「う、うん。」


「パパー。」


 あさひ君が起きたようだった。ドタドタとこちらに走ってくる音が聞こえてくる。翔はサッと私から離れた。


「あさひ。すっかり元気になったみたいだな。良かった。お姉ちゃんにお礼を言いなさい。」


 翔は元気よく飛びついてきたあさひ君を抱き上げる。


「お姉ちゃん。ありがとうございました。」


 あさひ君が元気よくお礼を言ってくれた。


「どういたしまして。おじや作ってるんだけど、食べる?」


「うん。食べる!」


 元気いっぱいのあさひ君を見て、私もつられて笑顔になる。


「おいしー。」


 あさひ君はおじやをパクパクと食べてくれる。


「うん。うまい。」


 翔も美味しそうに食べてくれる。このままここにいたら、毎日幸せかもしれない。笑顔でご飯を食べてくれる2人を見て自然とそう思った。


「あっ。お姉ちゃん。昨日、ベランダのお花にお水あげてくれた?」


 あさひ君は心配そうにベランダを見る。


「え?お水?ごめん。知らなくて、やってないの。」


「え〜。」


 あさひ君は大きな声を出すと、慌ててベランダからジョウロを持ってきて、キッチンでお水を入れようとする。


「一日くらい水やらなくても大丈夫だから。」


 翔が笑いながら、ジョウロに水を入れてやる。


「悪いな美和。保育園から持って帰ってきた鉢植えなんだ。好きな子から貰ったんだってさ。」


 翔がクスクスと笑う。


「大事なお花なんだよ。」


 あさひ君が頬を膨らませて、一生懸命ジョウロを運ぶ。その時、翔の携帯が鳴った。


「会社から電話だ。悪い美和。あさひと一緒に水やってもらえるか?」


 翔は慌て電話に出る。


「お姉ちゃんがお手伝いするね。」


 あさひ君と一緒にジョウロを持ってベランダへ出る。鉢植えは日が当たりやすいように、ベランダの手すりにワイヤーでぶら下げてあった。


「とどかないから、この台に乗ってお水上げるんだよ。」


 あさひ君が得意げに踏み台を運んでくる。


「そうなんだ。気をつけて登ってね。」


 あさひ君が落ちそうになっても大丈夫なように、あさひ君の後ろにしゃがみ込んだ。あさひ君は慣れた手つきでお花に水をあげている。


「うわぁ。ハチだ!」


 あさひ君が驚いてハチを追い払おうとする。ジョウロが手から滑り落ち、地面に水が飛び散る。


「あさひ君、動いちゃだめ。ハチに刺されちゃう。」


 慌ててあさひ君がハチに刺されないように庇おうとする。その時、あさひ君が足元を踏み外し、バランスを崩した。とっさにあさひ君を抱き止めるが、足元のジョウロに足を取られ、そまま後ろに転倒してしまった。頭に強い衝撃を受ける。


「お姉ちゃん!」


「美和!」


 薄れていく意識の中で、あさひ君と翔の声がこだまする。





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