疑い深き現実

バタンッと激しく音を立て閉められた扉を見つめる。


「奴隷をやめたい……か、そんなこと言うやつだっけ……」


ぼんやりと宙を見つめていると忘れていた痛みが全身を走った。痛みに顔を顰めながら立ち上がる。まさかイシュルがあんなことを言い出すとは思ってもみなかった。いつもは馬鹿なことを言い出すのはロイで冷静なのはイシュルだからだ。だが分からなくもなかった。昨日英雄を目の前で見て惹かれたから。その存在感に。ロイが初めて英雄の話を聞いたのは3年前だった。剣を使い魔法を操り人よりも遥かに強い魔物を倒す。英雄譚。それを聞いた時は酷く興奮したのを覚えている。いつか自分もそうなりたいと心の底から思った。だが現実を知り始めたのもその頃で、その幻想は一瞬で消え去った。自分は英雄になれない。不可能だと知って、夢を抱くことすら馬鹿なことだと知って、仕方ないと思った。だが疑問には思はなかった。生まれた時から、世界を知った時からずっとそうだったから。仕方ないのだ。


部屋の外に出るとまだ空は薄暗くて朝特有の少し冷たい風が吹いていた。


「寒みぃな」


ゆっくりと仕事を残している六番倉庫へと向かう。昨日の残りだからすぐに終わるはずだ。終わるまでにイシュルは帰ってくるだろうか。もし、帰ってこなかったら今度スープでももらおうか、それとも仕事を変わってもらうのがいいか……


「ロイ・ノルゲン」


倉庫に行く脇道に入るところで聞き覚えのある低い男の声に呼び止められた。声で誰かも何の用かも分かるがロイはあえて言った。


「はい?何か用ですか?」


「昨日は何をしていた?彼は……」


「ああ!昨日は何故か人が街に集まっていてなかなか市場につけなかったんですよ。すみません。」


「人が集まっていた理由は?」


「いやぁ、それが全然わからなくて……はは」


「……」


ロイは作り笑いを浮かべながらヘコヘコと頭を下げる。


「買い物一つまともにできんとはな、ゴミが」


「すみません、ほんとに」


「だが、本来の目的は失敗してくれるなよ」


「……もちろん」


ロイが答える頃には男の姿はどこにも無かった。浮かべていた作り笑いを消し去って誰もいない場所に吐き捨てるように言う。


「分かってますって」





見上げた空には雲がぎっしりと詰まっていて太陽の光も青い空も何一つ見つけられなかった。確かにまだ興奮してるのかもしれない。こんなこと今まで考えたこともなかったのに。 パチンッ と頬を叩き息を吸う。冷たくなり始めた空気が全身を駆け巡って、馬鹿なことを言うなと諭してきているような気がした。もう1度英雄を思い出す。あの光景を思い出す。一度覚めたかのように思えたあのぐちゃりとした思いが込み上がってくる。再び頬を先程よりも強く叩き、


「馬鹿なことを考えるな、身の程を知れ」


そう、自分に言い聞かせる。ぼんやりと歩いていた先に海が見えた。いつも、汗水流して働いている港にいた。世間で今日が休日ということもあってか港にいる人はいない。それを確認して大きく息を吸う。



「だっああああああああああああああああああああああああっ!!!!!!!ああああああああ!!!!」


思ったよりも長く叫んでいたせいか少し息が乱れた。だが、自分の馬鹿な考えを吹き飛ばすための全力の叫びはなんの効果もなさなかった。

昔から何かを深く考えたことはない。これはこういうものだと割り切って生きてきた。こんなにも心に残り続けるのは初めてだった。特に何もしていないというのに疲労を感じ座り込んだ。


「よお、朝から元気だなイシュル」


「!グシュガーさん!おはようございます」


「おう。ロイはどうした?」


「ロイは……倉庫にいると思う」


「倉庫?休日なのにか?」


「うん、昨日のやり残しをやらなきゃいけないから」


「へぇ……で、お前はなんでんな朝っぱらから叫んでる?好きな娘でも出来たか?」


からかうような調子で言ってくるのに慌てて否定する。


「へ、違うって違う!えと……あの、グシュガーさんはさ、ん~と、悩んでることとかが消えなかったらどうする?」


「悩み事が消えない?そりゃ解決してねえからだろ?当然解決するが?なんだぁ?お前にもやっと恋という……」


「あ〜そうじゃなくて!……んぁ~解決出来ない悩みだったら?」


「出来ない?どうしても?」


「どうしても」


少し考え込んでからグシュガーさんが言った。


「それはそうだなぁ……諦めれるまで時間が経つのを待つ。忘れるまで他のことをする」


「忘れられなかったら?」


「忘れるんだよ。考える暇もねぇほど忙しくしてりゃいい」


「忙しくか」


「ああ、恋じゃねぇならなんの悩みだ?お前なんも考えてなさそうなのにな」


「…………」


なんの悩みか?その問に答えられなかった。答えていいものかわからなかった。グシュガーさんは何かとイシュル達を気遣ってくれる人だが立場がある。グシュガーさんはこの港で働く奴隷、クラン・レイバーが所有する奴隷の管理官なのだ。そして平民だ。今、イシュルが奴隷から逃げたいなどと言えば迷惑をかける。信用していない訳では無いがバラされるかもしれない。そうなったらおしまいだ。捕えられて他の奴隷達の見せしめに処刑されるか今の仕事よりもきついところに飛ばされるしかない。


「イシュル?そんなに言いにくい事か?」


「いや、そうじゃないけどさ、僕はなんで奴隷なんだろうなって」


「なぜ?そりゃぁお前の親がそうだったからだろ」


「うん。僕はせめて平民に生まれたかったな」


「なんでだよ?平民だってそれなりに大変だぜ?納税とか勤勉とかな義務があるんだよそれはそれは面倒な」


「知ってるよ」


そうだ、知っている。奴隷とは自由の代わりに権利と義務を放棄しているのだ。平民の方が辛いこともあるだろう。


「グシュガーさん、今度街の外に連れて行ってよ!まだ1回も行ってないからさ」


「ああ、機会があればな」


「それと、サボってないで働いた方がいいよ。勤労の義務義務」


「あぁ?うるっせぇガキが」


「へへっ、ロイの所に行くよ。サボってきてるから」


そう言って走り出す。これ以上いれば余計なことを言ってしまいそうだった。


「人の事言えんのかよ……」





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