僕のかみさま - 2/4

 唐突な声に雲凛が振り返ると、雲凛の後ろに、いつのまにかもう一人の少年が立っていた。雲凛と同様の白装束に身を包み、濡鴉ぬれがらすの黒髪を頭頂付近で一つにまとめた、年の頃13,4のすらりとした少年。彼は雲凛と同じ髪結いの丁稚で、名を雲快うんかいといった。


「神水は──あとはいいから。西方のもんには気をつけな。面倒なんが多いき」

 雲快は雲凛の両脇に手を差し入れ立ち上がらせると、尻をはたいてやった。

あにさん、僕、悪くない」

「分かっとる。雲奎さまのとこに、先に行き」

 狼狽する雲凛を余所に、雲快は水盆を拾うと、音もなく路地に消えた。雲凛はどうしたらいいかわからず、しかし言われた通りにすることにした。


 食匣の長屋が途切れたところの路地を入り、迷路のような道を何度か曲がると、一つの部屋の前で雲凛は立ち止まった。鳳蝶アゲハチョウを模った看板の下の入り口は、障子が開け放たれ、褄紅蝶ツマベニチョウの柄が入った薄い絹の暖簾が揺れている。雲凛がそっと中を覗くと、御簾を巻き上げた奥の窓からは朝の褪めた光が入り、狭い部屋を薄明るくしていた。


 小さな立方体のようなその部屋の左右の壁面は、全面に格子模様が描かれているように見える。それらは全て作り付けの、浅い引き出し付きの棚だ。入って手前には土間があり、奥の畳間が一段高く、窓の下には横長の作業台。その作業台の前に、寝間着のまま座り込み、手元の展翅板てんしばん(蝶などの標本を作成する際に使用する板)を覗き込む師の後ろ姿があった。

 雲奎の首元でまとめられた髪を窓からの風が弄んで、部屋の全体にクスノキの香りを広げた。


「はよ、ございます」


 雲奎は手を止め、振り返った。その目の下には、隈ができていた。

「はよう。雲快はどうした? 神水は?」

 雲凛は、何と言っていいかわからず、黙り込む。雲奎は立ち上がり、聞いたことは忘れたように、作業をしていた展翅板を棚の一つに仕舞った。

 石畳を草鞋で駆けてくる足音が聞こえ、雲凛は落ち着きなく視線を泳がせた。足音は一寸手前で止まった。少しの間を置いて、息を整えた雲快が、神水のたっぷりと入った水盆を手に入ってきた。

 朝の光の中で、兄丁稚の体からは、柔らかく湯気が上がっていた。


「はようございます」

「兄丁稚が遅れるか」

「すみません」

 雲快は丁寧に水盆を置き、畳のふちに膝をついて左腕の袖をまくると、手首を上にして雲奎に差し出し、こうべを垂れた。雲奎は無言で懐から尺を取り出すと、雲快の、その柔らかい腕の内側をしたたかに打った。痛そうな高い音が三度、ピシリと狭い部屋に響き、雲凛は目をそらして喉の奥で悲鳴を殺した。

 神水汲みは一番下っ端の丁稚の仕事ゆえに、本来叱られるべきは雲凛なのだが、雲凛には何も言えなかった。

 雲奎は雲快の袖を元に戻し、冷たく湿った雲快の赤い指先を少し握った。雲快が両手と額を畳につけ、お辞儀をしたのを見届けると、雲奎は丁稚二人に背を向けあぐらで座り直した。

 雲快は畳に上がり雲奎の寝間着の首元を緩めると、着物の合わせから布の巻物を取り出す。固く結ばれた巻物の紐をほどき、それを畳の上に広げると、中から乾いた音を立てて種類の違う幾つもの櫛が出てくる。雲快はその中から最も目の荒い朱塗りの櫛を選ぶと、水盆を引き寄せその櫛を神水に浸し、それを見た雲凛は、引き出しの一つから取り出した麻布を、もう一つの水盆に浸した。雲快は水盆から櫛を取り出し、雲奎の髪を解いて、櫛を滑らせる。

 髪結い丁稚の朝の仕事は、師の髪を神水でくしけずることから始まり、抜けた髪の毛を焚き上げることに終わる。髪の毛には神様が宿ると言われるこの社町で、川平子たちの髪を触っていいのは神職の一つである髪結いだけ。そして、その髪結いの髪を触っていいのは、髪結いとその丁稚だけなのだ。

 手持ち無沙汰の雲凛は、何とはなしに外を眺めた。空はあっとゆうまにその色を変えていた。外ではムクドリが鳴いている。雲凛は入口の直ぐ外を歩く猫と目が合う──雲凛の大嫌いな川平子の、可愛がっている猫だ。雲凛は睨みつけ、障子を閉めた。

 一通りき終わると、雲快はより目の細かい櫛を取り出し、雲奎の髪をまた梳る。雲凛は雲快から櫛を受け取ると、神水に浸した麻布で、それを綺麗に拭き取った。櫛を巻物のあるべき場所に戻し、麻布を神水で洗う。

 最後の櫛が終わると、雲快は、慣れた手つきで師の髪をまとめた。雲奎のすっきりとした白い首筋が現れる。雲凛は櫛、油類などの道具を片し、水盆の横に正座した。その横に雲快も正座し、今日一日の予定を師に述べた。

 祭祀前のこの時期、髪結いである雲奎はもちろん、いわゆる「使える丁稚」である雲快も忙しいようであった。雲凛はできることがあまりない上に、共同学舎に行かねばならない。雲凛は雲快の声を聴きながら、疎外感に少しだけむくれた。雲奎はというと雲快のそれらを聞き流し、生返事をすると、早速くるりと背中を向けてかんざし作りに戻ったようであった。

 そうして雲快と雲凛は、焚き上げのために髪結い部屋を後にした。

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