29話 怒り
自分の手が、その男の腕を握り潰していた。
骨をへし折り、細胞に組織、腕を肉塊のように握力のままに粉砕し、相手の原型を留めさせようとする理性のリミッターすら外して、いつ間にか伸ばされていた手の中で、グシュリと全てが終わる音がした。
自分を突き動かしているものの正体が怒り、逆鱗に触れてしまったのだと理解しながら、それを制御する理性もまた、自分にやれと囁いていた。
殺す気だったのかもしれない。
男の絶叫が耳をつんざく中で、至ってクリアな思考で帝は崩れ落ちていく男を見ていた。
ピクリとも動かなくなった右腕に怯えるように、絶望に染まった悲鳴をこぼす男を乱雑な、ゴミを払うかのような蹴りで視界と思考、いずれからも消去する。
やっと状況を飲み込めてきたのであろう後ろの三人は、情けない悲鳴を上げながら逃げ惑う。
しかし、この場においてそれを認める程、帝の怒気は生半可ではなかった。それを殺意と呼べば、帝は妖精の力の行使すら躊躇わなかったかもしれない、しかし帝は、一人の人間としての怒りと定めていた。すなわち、暴力。
妖精の力であれば一瞬で済んでいただろうに、なまじ軟弱な意思が災いしてか、乱入者に対して逃げるという方法を最初にとった男たちに、あまりのその身勝手に、帝は桁違いの憤怒を向けている。
上段から振り下ろされた踵落とし。それはまるでギロチンの如く、頭を丸めた男の一人の右肩を容赦なく砕いた。野球部なのだろうか、その選手生命も人生も、何もかも破壊する一撃。
そしてそこを踏み台に、もう一人の後頭部に飛び蹴りを放つ。顔面を机の角に強打させ、顔を骨格レベルから歪ませる。足裏に血がつこうが意にも介さず、ぐったりとした体を踏んで最後の一人を睨む。
握られた拳の意図するのは、火を見るより明らかであった。しかし、そこに静止が入った。
「帝さん! もうやめろ!!」
「これ以上はダメです!」
「・・・・・・お前ら」
両側から挟むように伸ばされた椿と瑞生の腕が帝の行動を阻む。女子二人、抑制を忘れた帝の筋力を以てしては障害にすらなり得ないが、帝はため息をついて手の緊張を解く。
「た、助かった・・・・・・」
「ふざけんな!! オレはただ帝さんにばかり汚れ役をやらせたくないだけだ。お前を許したわけじゃない!!」
「・・・・・・死よりもつらいことがあるってこと、わからせてあげます」
烈火のごとくの怒りと、静かな、凍てつくような冷酷な怒りに当てられて、男は泡を吹いて倒れた。
静止はあくまで殺さないという最低限の保証に過ぎない。死ななければ何しようが構わない、それと意味として違うところを二人は抱いていない。
しばしば文ゲイ部の中では理性的と評される帝ですらこのザマなら、二人が怒らない道理はないのだ。
「・・・・・・警察はもう呼んである。連合の息がかかったやつらが人道的な配慮をしてくれることに期待するんだな、無理だろうが・・・・・・・・・・・・もう聞こえてないか」
一際激しい殺気を放って、帝は背を向ける。
男たちは誰一人として意識を保つこともできず、死屍累々と横たわっている。その眠りから覚めた彼らを待つのは、破滅。
連合には、加盟する妖精師の中でも一部しか知らない暗黒面がある。その影を垣間見せながら、無情に帝は彼らを切り捨てた。憐憫など、抱く余地もない。
★ ☆ ★
・・・・・・これは、どういうことなのだろうか。
揺蕩う現実と虚無の狭間を漂いながら、逃避同然にどこか俯瞰めいた視点で全てを見届けていた綾乃が、降って湧いた救済に対して感じえたのはそれだけの感想だった。
それとは比べ物にもならない困惑は胸の内で渦巻いているが、それが何かを知る由もなく、ぼんやりと薄く開いた目で、眺めている。
一人は記憶に新しい。そして一番信じられない。先日殺し合った、もしくは殺しかけた相手なのだ。それこそ、恨まれこそすれ、自分を助けに来るなどありえない。
あとの二人は、どこかで見た事のある少女たち、同学年だろうがその詳しいところまでは知らない。しかし、何かしら有名であった気もする。
男、九条帝が近付いてくる。反射的に身を構え、まだほとんど戻らないなけなしの腕力で体をかき抱こうとする。そこへ、投げ掛けられた一枚の布。
それが九条帝の着ていた学ランであることに、そして自分の肌を隠すため、自分の尊厳を守るためのものであることに、
「そんな意外そうな目で見られても困るんだが・・・・・・まあ、その、なんだ。怪我は無いか?」
呆気に取られて、その優しさに瞳の端が潤んだ。こんなことがあった直後に男の自分が下手に触れるような真似をすべきではないだろう、そんな思いが手に取るように分かる。しかしそれは腫れ物に触れるとはまるで別物、本気の心配であった。
「偶然、カーテンの隙間から中が見えてな、遅くなってすまなかった。・・・・・・そのせいでお前に嫌な思いをさせてしまった」
一体何の非が貴方にあると言うのか。それなのに九条帝は自分の愚かしさを恥じるように下唇を噛んでいる。震えた拳は、そんな彼の心情を体現していた。
「あ、あの・・・・・・」
伸ばそうとした手は九条帝の元へは届かない。物理的にも、内に生まれてしまった男性への恐怖のせいもあって。代わりにその手を取ってくれたのは若緑の髪をした快活そうな方の少女。
「・・・・・・分かってるぜ、あんたの言いたいこと」
そしてその少女はアイコンタクトでもう一人へと指示を送る。短めのスカートが艶めかしさを強調させながら、その立ち振る舞いは自信なさげというアンバランスな少女は九条帝の背中を押した。
「九条さん、行ってあげてください」
「あ、ああ・・・・・・」
九条帝は狼狽しながらも若緑の隣に並び、躊躇いがちな視線を綾乃へと向けた。
どうしようかと彷徨っていた手は、綾乃の頭の上に置かれて、その闇色の髪を優しく撫でた。手のひらの温かみが彼女の最後の防波堤を溶かしてゆく。
ダムが決壊したかのように、涙がとめどなく溢れてくる。はっきりとした九条帝の同様が涙に霞む視界の中に映りこんだ。
罪悪感、それとは違うが、泣き止もうと袖で目元を拭っても全く止まる様子はない。嗚咽が漏れる。自分の持つ途方もなく大きな何かが音をたてて崩れ行く。それは、九条帝によって抱き締められた瞬間に鮮明に、激烈に自覚させられた。
「ぅ・・・・・・ぅう、怖かった、怖かったよぉ」
子供のように泣きじゃくって、九条帝のシャツを濡らす。九条帝はそんな些細なことを指摘することなく、綾乃の感情の発露に全てを委ねた。
その細い体に手を回し、背中をトントンとまるで子供をあやす様に優しく叩いて慰める。
綾乃のことを慮ってか、二人は頷き合うと、妖精を召喚してその力を借りつつ男たちを運び出していく。
二人きりとなり、帝は気の済むまで泣かせようと心に決める。そのつもりだったのだが。
(なんなんだよ、この部屋に充満した匂いは、なんかうずうずとしてくるような・・・・・・なんというか)
とてつもなく拙いものであるように思えて、今にも肉体の制御権を奪おうとしてくる何かと戦っている。
その弱さをさらけ出してしまった綾乃に、決して負けてはならない帝の内心の奮闘はまだまだ終わりそうもない。
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