第3話 ウィルの失踪

「――くなっ、リディ!」

 シャルナークは自分の叫び声に飛び起きた。一瞬ののちに、自分の部屋にいることを把握し、無意識に止めていた息を吐き出す。

(いまさら夢にみるなんて)

 自嘲の笑みを浮かべてシャルナークはこめかみに手をあてた。

 ソマリスから帰国して早ひと月になる。この数週間は父王や次兄クラウドの補佐をして過ごしてきたが、五日後に行われる官吏任官の典礼でシャルナークも正式に任官されるはずだ。

(そのあとの披露式典にはリディもくるだろうか……)

シャルナークはたった今夢に見た女性のことを想った。

 十二歳で故国を離れてから六年間かたときも忘れなかった従姉、リディアンヌ。

彼女は現王妃である母の妹が嫁いだランスコート伯爵の娘だ。ひとつ年上の彼女は叔母に連れられてよく王宮にも遊びにきていた。同じ年頃ということもあって、アレクシオンと三人でよく一緒に遊んだものだ。子供心にも息苦しく感じていた王宮の生活の中で、彼女のくったくのないまっさらな笑顔はどれだけ救いだったか。

 いつか彼女と結婚する。リディは僕がずっと守る。自然にめばえたその想いだけを胸に秘め、彼女と会えない時間をひたすら耐えてやっと帰ってきたのに。

 一番に会いに行った彼女は、お帰りなさいとやわらかく微笑んだあとで言ったのだ。

『ソマリス王国の王太子殿下に嫁ぐことになりました』


 シャルナークは掻きむしりたくような胸の内側の苦しさに顔をゆがませた。

(よりによってあいつがリディの相手なんて……)

 あきらめたくない。だがこれは国同士の政略結婚だ。自分ひとりが騒いでどうにかなる問題ではない。せめて相手が知らない人間ならまだよかったものの……。

「シャルナーク、具合でも悪いの? 全然進んでいないようだけど」

 はっと気づくと、自分に家族の視線が集中していた。母であるフィオーネ王妃は心配そうに、父レオナルド王はいつも通りの厳めしい顔つきだ。次兄クラウドはどこか面白そうに、末の妹姫エリザベートはめずらしいものを見るような目で見つめている。

 家族を大事にしている父王は、家族が一日の中で一度は顔を合わせられるようにと、『王城にいる間はどんなに忙しくても必ず朝食を家族一緒に取ること』と決めている。今日ここに集まっているのは、留学中のアレクシオン、部隊演習で国境へ遠征して不在の長兄ジェラルドを除く父、母、次兄、妹、そして自分だ。

 留学していた六年間に帰国したのは二回だけ、それも王室の行事に出席するための公式的な帰国だったため、家族と家族らしい会話もできないまま、ずっと離れて暮らしてきた。だから、この朝食の席も未だ緊張感がぬぐえない。だが、一月ぶりに夢という形であの時の出来事を鮮明に思い出させられ、思わず意識を飛ばしていたようだ。

「お食事中にぼうっとするなんて、シャル兄様らしくないわね」

 エリーがかわいらしく首をかしげる。顔にはまだあどけなさが残るが、久しぶりに会ったエリーは十五歳の立派な王女に成長していた。

 留学する時、エリザベートはまだ九歳だった。記憶に残る小さな少女から急に大人に近づいたエリーとどう接すれば良いかと、シャルナークは内心困惑していた。自分の愛想のなさは自覚しているし、子供に懐かれる要素はゼロだ。だが、エリーはめったに会えなかった双子の兄王子たちにあこがれを抱いていたようで、人懐こく話しかけてくれた。エリーのおかげで、家族の中に少しずつ溶け込めて来ていると思う。もっとも、王族という立場である自分たちは、普通の家族とは家族としてのあり方は違うだろうが。

 シャルナークはナイフとフォークを音をたてずに置くと、軽く頭を下げた。

「いえ、失礼いたしました母上。少し考え事をしていたもので」

「そう? それなら良いのだけど」

 ほっとしたような暖かな空気が流れたところで、シャルナークのはす向かいからじっと見つめていたクラウドが誰もが聞き惚れるような声で唄うように言った。

「母上、シャルも思い悩むことくらいあるでしょう。それでなくても自分の友人と従姉が結婚するとあっては嬉しさと淋しさがいり混じるものです」

 シャルナークは瞠目した。考えていたことを正確に読まれていただけでなく、なぜリディの結婚相手であるソマリスの王太子が自分の友人だと知っているのか。だがすぐに冷静になる。王太子が自分と同じ学び舎にいたことは公になっている。同じ王族という立場同士、親しくなるだろうことは少し推測すれば誰にでもわかる。

(もしくはクラウドの手の者が学院内にいたのか……)

それでなくともクラウドの情報収集力は昔から突き抜けていた。国内のことはもちろん、国外の情勢も主だったことはもちろん、それ以外も正確に把握しているだろう。

「まぁ、ソマリスのフェルディナンド王太子殿下と知り合いなの?」

 母におっとりと聞かれ、シャルナークは渋々、だが顔には出さずに答える。

「王太子殿下は高等学校からの同級生です。彼も一緒に大学に進学し、今年卒業しました」

「そうなの」

「お父様は殿下に会ったことはおありなんですの?」

 目をきらきらさせてエリーが父王に尋ねる。

「いや、私もまだ会っていない。来月正式な結婚の挨拶のために、ソマリスの使節団とともに私も来訪することになっている」

「結婚……」

 エリーがうっとりと想いをはせる。大好きな従姉の結婚ともあって、興奮で頬が紅潮している。

 王族同士の結婚ともなれば、婚約してすぐに結婚というわけにはいかない。まずは両家の顔合わせ、そして国家間の挨拶を経てから正式に婚約したことが公示される。それから婚約式がとり行われ、その後晴れて盛大に結婚式が行われる。

「それで父上、来訪の日程は?」

 クラウドの問いに王が答える。

「一週間後だ。婚約式はその二月後を予定しているが、私はその時期は予定があって出席できない」

「婚約式には我が王家からも出席しなければなりませんね。誰を行かせるおつもりですか?」

 クラウドがにこやかに尋ねる。

「まだ決めていないが……」

「あたし行きたい! リディ姉さまのお式出たい!」

「エリザベート、『わたくし』とおっしゃいな」

 母にやんわり注意され慌てて言い直したが、

「お前にはまだ無理だ。今回はあきらめなさい」

 父王にはっきりと言われ、泣きそうになる。女の子にとって舞踏会は憧れだが、エリーはまだ出たことがないのだ。隣でうつむく妹を慰めようと手を伸ばしかけた時、クラウドが悠然と微笑んだ。

「エリー、今回は残念だけど、結婚式はまだ先だから、その時までに一人前のレディになれていればきっと出席できるよ」

「本当?」

「本当だとも。そうでしょう、父上?」

「結婚式は来年の予定だ。その時にはお前も十六。出席は考えてもいい」

「ありがとうお父様、クラウド兄様! あたし……わたくし、頑張ります!」

 シャルナークは口元に笑みをたたえたクラウドに探るような視線を向けた。その視線を捕えたクラウドは艶然と見返してきた。

(この兄上がただからかうためだけにこの場でこの話を持ち出してくるわけがない)

 昔からシャルナークはこの腹黒い切れ者の兄の悪戯対象だった。クラウドにはどんな隠し事もすぐ暴かれてしまったものだ。リディへの想いも自分から言ったことはないが、クラウドには見抜かれていただろう。

(何を考えている……?)

 からかうことだけが目的なら、家族がいる場所ではやらないだろう。何か意図があってわざとこの話題を出したのだ。その真意を図りかねていると、クラウドが純白のナプキンで優雅に口もとをぬぐってから言った。

「父上、エリーは無理としても婚約式にはやはり王家から誰も出ないわけにはいかないでしょう。誰かを名代として送らなければ」

「そうだな。ジェラルドに行かせようとも考えていたが……」

 父王の目線がテーブルをぐるりと一回りし、シャルナークのところで止まった。

「シャルナーク、お前が王家を代表してソマリスへ行ってくれるか」

「わたしが……ですか?」

「あなた、シャルナークはまだソマリスから戻ってきたばかりですよ」

「王太子は友人だというし、ちょうど良いではないか。お前も友人を直接祝いたいだろう? 王家の代表として立派に勤めを果たしてきなさい」

「…………承知いたしました」

 深く頭を下げ顔をあげると、満足そうに手を組んでいるクラウドと目があった。その眼の奥で何かが光ったような気がした。

(そうか……友人だという話を出したのは、俺をソマリスへ行かせるため? でも何のために?)


 食堂を出ると、シャルナークは先に部屋を出ていたクラウドを追いかけた。ほどなくひとり歩くクラウドの後ろ姿を見つける。護衛もつけずに歩けるのは、ここが王族専用の内宮であり、出入口は厳重に警備されていることと、王子たちは皆自分の身は自分で守れるほどの武術を身につけているからである。

「兄上」

 クラウドはゆっくりと振り向いた。一瞬優雅な舞を見ているような錯覚におちいる。ただ振り返るというしぐさだけでも人を惹きつける、そんな得もいわれぬ魅力をクラウドは持っている。そしてそのことを誰よりも自分で理解している。クラウドはそういう男だ。

「俺をソマリスへ行かせたかったんでしょう」

 問いではなく答えを出すと、クラウドはにっこりと笑んだ。合格、とでもいうようなその傲慢な笑みを知っているのは、自分とジェラルド兄上くらいだろう。

「目的はなんですか?」

「目的? そんなの決まっているじゃないか。愛しいリディが親友にさらわれるところをみせてやりたい。それだけだよ。きっととてもいい顔をするんだろうね。ぞくぞくするよ。ああ、でも残念なのはその顔を僕が見られないことだ」

「……あなたという人は、六年も離れていたのにまったく変わっていませんね」

 昔から幾度となく繰り返されてきたこの手の会話にはもう慣れた。下手に反応するともっと喜ばせるだけだとわかっている。

(このド変態兄)

 心の中で悪態をつく。

「シャル、キミは変わってしまったね。昔はもっとかわいく怒ってくれたのに。その言葉づかいも、ここは二人きりなんだからもっと兄弟らしくしていいんだよ」

 至極残念そうにおおげさにため息をつく兄に、シャルナークは冷たく言い放つ 

「そんな小芝居をしていないで、さっさと本当の目的を言ってください」

「かわいい弟には旅をさせろというだろう?」

「そんな諺はありません」

「一年前に僕が立ち上げた法務省管轄の特別機関はなにかな?」

「ですから……は?」

 突然の質問に眉をひそめる。

「答えは?」

「……今すぐには」

「じゃあ宿題だ。答えは二日後に聞くよ。それまでにしっかり調べてくるんだよ」

 クラウドはシャルナークの肩に手を置くと、優雅な足どりで立ち去った。


「何これ!?」

 ディアナは呆然として室内を見渡した。

 午前の授業が終わり、食堂でお昼をとっていたディアナを、ウィルの研究室の学生が呼びに来た。マクリード助手が資料室に来てほしいと言っているというのでとりあえず来てみたところ、中は散々たる状況であった。

 部屋の三方に置かれた背の高い棚はほとんどからで、真ん中の広い机には紙束の山がいくつも折り重なって積まれていた。床にも同じような紙があちこちに散らばっている。まるで泥棒が盗みに入り、手当たり次第に荒らしていったかのようだ。

 横で同じように口をあけたまま目を丸くしているネリアの後ろから、ウィルが申し訳なさそうにこめかみを指でかきつつ進み出た。朝の寝癖がまだつきっぱなしだ。

「サイモン教授の授業の準備で論文が必要だったんだけど、探しているうちにこんなことに」

「ここ確か一週間前に整理したばかりだったと思うんだけど」

「うん、今朝来た時はとても綺麗に並べられていたよ。おかげで論文も早く見つかると思って――」

「で、見つかったの?」

「ああ、これだよ」

 ウィルは嬉しそうに両手に持った紙の束を胸の前で掲げてみせた。

「そう。よかったね」

「それで、すまないけど……」

「ここを片づけてほしいのね。また」

「僕ももちろんやるから」

 ウィルが力強く言った途端、トントンとドアがノックされ学生が顔を出した。

「マクリード助手、サイモン教授の授業がはじまります」

「あ、ああ」

 学生と姪の顔をとまどったように交互に見るウィルに、ディアナはため息を一つついて言った。

「わたしとネリアで片づけておくから、授業に行ってきて」

「あ、ありがとうディアナ。ネリアも、今度お礼はするからね。ああ、今日は遅くなるから、しっかり戸締りしておくんだよ」

 ウィルは慌てて論文を抱えるとバタバタと出ていこうとしたが、思い出したように振り返った。

「そうだ、パンありがとう。おいしかったよ」

 にっこりとほほ笑んだウィルに、ディアナも笑顔を返す。

「そう、よかった」

「じゃあ本当にすまないけどよろしく頼むよ」

 ウィルが出て行ったあと、ネリアが部屋の中を見渡して盛大にため息をついた。

「ついこないだ片づけたばかりの部屋をこんだけ散らかせるって、ある意味天才だわ」

「ネリア、ごめん」

「まあ、片づけがいはあるわね。しょうがない、やるか」

 口ではわるく言うけど、生来世話焼きのネリアはこんな時率先して動いてくれる。ぼやきながらもさっそく落ちた紙を拾いはじめたネリアを見て、ディアナは口元を持ちあげる。

(ホント、ウィルってば……)

 研究のことになると周りが見えないのは相変わらずだ。

「絶対お礼させるからね」

「それはそれで嬉しいけど」

 ネリアは天井を見上げた。

「ウィリアムさんてなぜか憎めないのよね」  

 そう。ネリアの言うとおりだ。

 髪には寝ぐせ、シャツはいつもはみだしている。忘れ物はしょっちゅうだし、頼んでいたことも研究のことを考え出すとすぐにどこかに飛んでいってしまう。はたから見れば手のかかる子供のような大人だ。なのに憎めないのは、単純に家族だからなのか。それとも研究一筋だった父とどこか似ているからだろうか。

「ちょっと、何突っ立ってるの? 早く動いて、ほらほら」

 今から大変な作業が待っているのになぜかほほ笑んでいたディアナは、ネリアに叱咤され慌てて机上論文と紙を仕分けはじめた。たぶんウィルが中身を出したのだろう、簡易に留められただけの論文は内容を見て区分けし、きちんと紐で閉じる。さらに三方の壁際の棚に年代ごとにきちんと並べる。これだけの作業を今日中に終わらせるには、手を止めている暇なんてない。午後は授業がなくてよかった。しばらくカサカサという紙の擦れる音だけが響く。

「静かねぇ」

 狭い部屋の真ん中に置かれた机に座って論文の整理をしていたネリアが伸びをしながらつぶやいた。ネリアの向かいに座って同じ作業を淡々とこなしていたディアナは手を止めず返事をする。

「そうね。大学の周りは緑も多いし、静かでいい環境よね。マラードの王都はどこでも活気があったものね」

「それはそうだけど、そうじゃなくて」

 目の前に積まれた紙束が吹き飛ぶのではという程のわざとらしい盛大なため息をついてから、ネリアは作業を再開した。

「ヴァンベールに戻ってきてから、竜巻伯爵と会ってないじゃない? なんか最近物足りないっていうかさ、くせになっちゃったのかなーーあの感じ。竜巻の真ん中を駆け上がりたい、みたいな」

「それなんなの……」

 本気で残念そうなネリアとは対照的に、ディアナは全速力で走り終えた後のようなさっぱりした表情を浮かべながら慎重に穴に紐を通す。

「わたしはもう会わなくていいと思うと本当にほっとするよ。もうあいつに振り回されるのはうんざり」

「言わなかったんでしょ? 劇団やめることも、こっちに戻ることも」

「そうよ。だからもう会うこともないわ。王子様なんて本当なら出会うはずもない遠い人なんだから」

「でも向こうは調べようと思えば簡単に調べられるんじゃない? 劇団に聞けばヴァンベール出身だってこともわかるし、侍従とか付き人とか動かせる人は周りにはたくさんいるだろうしさ」

「わざわざ調べてまで来るとは思えないけど。だってあいつの連れてくる女性、いつも違ってたじゃない。しかもみんな揃いも揃って高そうな身分のお嬢様。たまたま自分の周りにいない庶民をからかうのが面白かったんだろうけど、目の前からいなくなった誰かのことなんて、最初からいなかったみたいになるわ」

「そうかなぁ」

 納得していなさそうな声は聞き流してぎゅっと紐を結ぶと、ディアナはふた抱えほどの論文を棚に戻した。

「よし」

 ほこりを払うように手をたたいて振り返ると、机の上にはまだ三つほどの手つかずの紙の山が居座っていた。げんなりした気分になりつつ、壁にかかった丸時計を見上げると、三時少し前をさしている。

「少し休憩する?」

「賛成」

 同じように飽き飽きしていたらしいネリアが一も二もなく首肯する。

「あたしビスケット焼いてきたから食べよう」

「じゃあお茶入れてくるね。何がいい?」

「ローズヒップ。最近お肌荒れ気味なのよね」

「はいはい」

 ディアナは隣にあるウィルの研究室で手早くお茶を準備して戻ってくると、机上にあった紙の束は見当たらず、代わりにビスケットが並べてあった。香ばしく焼きあがったビスケットはほんのり甘い香りがしておいしそうだ。

「おいしいお茶とお菓子はいい気分で味わわなきゃね」

 手つかずの紙束を部屋の隅に追いやったらしいネリアはすました顔で椅子に座った。

 部屋の中にローズヒップの爽やかな香りが漂う。ふたりで同時にほおばったビスケットはほんのり甘く、サクッとしていて絶妙な焼き加減だ。

 穏やかな時間(とき)が流れる中、ネリアがぽつりと言った。

「ねぇ、演劇はもういいの?」

「え?」

「こっちに来てからほとんど劇団やお芝居の話してないじゃない? マリードにいた時はあんなに毎日芝居づけだったのに」

「…………」

 ネリアに訊かれ、ディアナは最後の舞台が終わった時の様子を思い返す。ヴァンベールに帰ってきてから何度か夢でも見たあの時の光景。

 目も開けられないくらいの光の渦。総立ちの客席の喝采と興奮と感動。舞台上でひとつのものを創りあげた一体感とやり遂げた達成感。様々な感情が劇場を埋め尽くす。

 その中で自分ではない誰かとして立っていると、まるで幻想の世界に紛れ込んだような不思議な感覚におそわれた。あの時、自分は何を思ったんだろうか。

(――――わたしは……)

「続けるよ」

「え?」

 急に言われて、ネリアが瞬く。

「だからお芝居」

「でも、ここにいたら無理でしょ。この大学、演劇の同好会はないみたいだし……」

「今はね。……ねぇ、はじめて〈夢幻遊戯〉のお芝居を見たとき覚えてる?」

「覚えてるよ。あの時はびっくりしたもん。ディアナ、舞台終わっても全然動かないかと思ったら、急に走って楽屋口まで行っちゃってさ」

「とにかく身体に雷が落ちたかと思うくらいビビッてきて。感動っていうよりももっと強い気持ちがあふれて。気づいたら走ってたんだよね」

「支配人びっくりしてたよね」

 いてもたってもいられず〈夢幻遊戯〉に入団させてもらえるよう何度も交渉した。

「最初は時間の許す限り無理やり雑用をてつだったりしてね。入団させてもらえた時は本当に嬉しかった」

「一緒にいたあたしまでいつのまにか入団することになってたしね」

「ネリア器用だったから、腕を買われたのよね。ネリアの仕立てる服大好評だったし、舞台化粧も指名度一番だったし」

「まぁ演技は無理だけど、手先を使うことなら誰にも負けない自信はあるわ」

 二人で目を見合わせ、笑う。あの頃はとても輝いていた。お芝居をつくることが自分の自信につながっていた気がする。

「はじめて舞台に立たせてもらった時も、最後の舞台でも、思ったことはひとつだったんだ」

 自分と違う誰かになることで、新しい自分を見つけられる。

「わたしにとって舞台は、自分を探すことなんだって」

 自分探しは簡単にやめられるものじゃない。

「わたしお芝居が好き。だからいつかまた舞台に立ちたいの」

「じゃあその時はあたしが衣装と舞台化粧担当するわ」

「うん。でも今はお父さんのためにもこの大学でしっかり植物の勉強して、無事に卒業しないとね」

「もうすぐ前期試験もあるしね」

「それは言わないで……」

「さ、そろそろ再開しないと、夜までかかっちゃうかもよ」

「そうだね」

二人が論文の整理を続けようと腰をあげた時、重いノックとともに扉がガチャっと開いて体格のいい壮年の男性が入ってきた。

「サイモン教授」

 サイモン教授と呼ばれた厳めしい顔つきの男は、眉間にしわを寄せたまま部屋をぐるりと見渡すと、ディアナを見た。

「マクリード助手を見なかったか」

「いえ、ここには来ていませんけど」

「そうか」

 それだけ言うと、サイモンはすぐに踵を返した。

「急に来るとびっくりするよね、サイモン教授は」

 息を止めていたのか、ネリアが胸に手をあてて嘆息した。

「あんな顔してるけど、別に怒っているわけじゃないんだと思うよ。ウィルもいい人だって言ってるし」

「だとしてもよ、もともと強面なのに、眉間にしわ寄ると怖さが倍増じゃない」

「それより早くやろう。ホントに帰れなくなっちゃう」

「そうね」

この時はディアナはまだ知らなかった。このことがある大きな事件の幕開けになるということに――――。


 次の日のお昼前。

 ディアナはヴァレンタイン大学農学部の敷地内にある温室にいた。ここには研究に使う植物や薬草、ハーブ類がたくさん植えてある。その世話は学生が順番で行っていて、今日はディアナが当番だった。朝一の授業が終わってからすぐここに来たディアナは、すべての植物に水をやり終わってふうっと一息ついた。かがんでいたので、腰が痛い。

「あとは肥料を取りに行かなきゃ」

腰を伸ばしながらつぶやくと、入り口のところにかかっている作業用の前掛けを取る。前の当番の時に肥料を運んだら、服にこぼしそうになったのだ。一応年頃の女子としては服にシミをつけるのは避けなければ。

 前掛けをつけて外に出ると、正面からサイモン教授が険しい顔でやってくるのが見えた。相変わらず眉間に深いしわが寄っている。こちらにまっすぐ向かってくるところを見ると、温室に用があるようだ。

「こんにちは」

 目の前で立ち止まった彼に軽く頭を下げると、サイモン教授は熊のような顔をディアナに向けて低い声で言った。

「マクリードは昨日家に帰ったか?」

「ウィル……叔父ですか?」

 昨日もウィルを見なかったかと聞かれたが、まだ会えていないのだろうか。戸惑いながらも答える。

「昨日は……帰っていないと思います」

「帰っていない? それは確かか?」

「ええ」

 うなずきながら、昨日のことを思い返す。

 資料室の整理を頼まれたのが午後一時前。それからウィルはサイモン教授の授業に行った。遅くなると言い残して。ディアナはあのあと夕方には家に帰ったが、寝る時間になってもウィルは帰って来なかったので先に寝てしまったのだ。

 今朝起きた時もウィルはいなかった。どうかしたのかなとちらっと思ったが、ウィルはよく研究室に泊まることがあったので、特に気にせず出てきたのだが……。

(でもよく考えたら変だわ。ウィルは泊まりの時は必ずわたしに連絡をくれるのに。遅くなると言ったのに帰ってこなかったこと、今までなかった……)

 急にすっと体温が下がったような気がした。サイモン教授の顔をおそるおそるうかがうと、しわがさらに深くなっている。黙ったままのサイモンに耐え切れず、ディアナは口を開いた。

「あの、叔父がどうかしたんですか? 昨日は研究室に泊まったんじゃ……」

「研究室にはいなかった」

「じゃあどこに」

「マクリードと最後に会ったのはいつだ?」

 有無を言わせぬ声音で聞かれ、不安に思いながらも考える。

「ええと、昨日の一時頃です。資料室で、サイモン教授の授業に出ると言って出ていきました」

「授業に行くと言ったのか」

「はい」

「だが、彼は来なかった」

「え?」

 聞き間違いかと思った。だが、サイモンは表情を崩さず繰り返した。

「昨日マクリードは私の授業に来なかった」

「そんなはずはありません。確かに出ていくのを見ました」

「だが来なかったのは事実だ」

 ディアナは信じられなかった。研究が好きで、父と同じこの仕事を愛しているウィルが大事な講義を投げだすなんてありえない。心の中で言ったつもりが言葉に紡いでいたのか、サイモンが眉をあげた。

「私もマクリードが仕事をないがしろにする男だとは思っていない。だが、君が会った後、誰も彼の姿を見ていない」

「そんな」

 ディアナは前掛けをつけたまま走り出した。そのままウィルの研究部屋へと駆け込む。

 見慣れたウィルの机は遠目から見てもいつも通り雑然としていて、昨日ディアナがお茶を入れに来た時となんら変わっていないように思われた。

 ほっとしたのか、それとも胸騒ぎがしたのか。歩み寄って何の気なしに机の引き出しを開けてみた。

 目に飛び込んできたのは、見覚えのある柄の布。

 今朝、ウィルのために持ってきたパンを包んでいたものだ。きれいに折りたたまれて中央に置かれていた。先の開いたペン先や少し欠けたスコップや、手紙に本……いつも色々なものが雑然と入っているはずの引き出しに、それだけが。

 震える手でそれを触ろうとした時、引き出しの奥で光ったものに目をやって、ディアナは一瞬息をとめた。

 それは、いつもウィルがかけている銀ぶちの丸眼鏡だった。


 眼鏡を手に取ったままどれくらいそこに立ち尽くしていたのか。おそらくは長い時間ではなかったはずだ。気づくとサイモンがドアの前に立っていた。

「サイモン教授……」

 サイモンはディアナの手に握られている眼鏡に気づいたが何も触れず、ただ「資料室へ来なさい」と言い部屋を出て行った。

 そのあとを追いかけるように資料室に入るとネリアがいた。おそらく、ウィルの姿が見当たらないということは聞いたのだろう。心配そうな目線を向けてきた。

「何か変わったことはないか」

 サイモンの言葉の意図がわからず、ディアナは繰り返した。

「変わったこと?」

「君たちは一週間前と昨日、ここを整理しているね」

「はい」

「マクリードもよくここに来ていた。特にここ数日は毎日足を運んでいるのを見た」

「それがどうかしたんですか?」

「もしも失踪したのなら、ここに何か手がかりがあるかもしれない」

「失踪?」

 大げさな物言いにネリアは冗談だと思ったようだが、真面目なサイモン教授の顔を見て表情を引き締めた。

 ディアナは冷静だった。無意識に唇をかみしめる。失踪という言葉をわざわざ使ったということは、何か事件に巻き込まれた可能性があるということだろうか。だが、眼鏡が引き出しにいれてあったことも含めて、あいまいなことばかりでなにひとつ確証がない。

「あの、失踪したのが事実だとして、警察には届けないんですか」

 ネリアがおずおずと訊ねると、サイモンは一瞥して言った。

「まだ何も証拠がない。ただいなくなったというだけでは警察は動かない」

「だから証拠を探すんですね」

 ディアナがおぼろげながら理解したことを見抜いたのか、サイモンはうなずくと論文が収められた棚に手を伸ばした。手に取ったのは目録だ。

「この目録にないものがあれば、誰かが持ち出したということだ。その内容が糸口になるかもしれない」

「わかりました。探してみます」

 すぐに棚に向かったディアナに続き、ネリアも違う棚の前に立つ。二度の整理のおかげで、だいたいの内容と位置は把握している。

 一時間ほどかけてすべてを照合した結果、論文が五冊なくなっていることが分かった。整理作業をやっていなかったらもっと時間がかかっていただろう。

「なくなっているのはこれですね。『寒冷地における土壌の性質について』の論文、あとは肥料や土に関する資料が四点」

 ネリアが目録を確かめながら報告する。

「土について調べていたのかな」

「でも年代も筆者もバラバラだし、特にそれ以外の共通点はないですね」

サイモンは厳しい顔をしたまま何も言わない。ディアナもがっかりした顔を隠せなかった。証拠になるようなことは結局何も見つかっていない。

「サイモン教授、ここにいますか?」

 部屋の外から男の声がして、開いた扉から顔をのぞかせたのは植物学科主任教授のオルガ―だった。

「ああ、いたいた。さっきから探していたんですよ」

 オルガ―はほっとしたように、せかせかと部屋に入ってきた。がっちりとした体格のサイモンとは対照的に、ひょろっとして線の細いオルガ―は見るからに気の弱そうな印象を受ける。

「何か御用ですか」

「ああ、学科長から伝えるように頼まれましてね。実はあなたのところの助手の……何と言いましたかな、マスード? いやムクードだったかな?」

「マクリードですか?」

 オルガ―に話しかけようとしたディアナを視線で押しとどめ、サイモンが落ち着いた声で示す。

「そうそう、マクリード君だ。いや、彼はソマリスの大学院から去年戻ってきたばかりでしたね。優秀な人材を失うのは我が大学としても残念な限りですが、あちらでも頑張ってくれると――」

「失礼ですが、オルガ―教授」

 これ以上聞き続けていられず、ディアナは話をさえぎった。

「ウィル……マクリード助手が今どちらにいるかご存じなのですか?」

「なんですか君は」

 突然話の腰を折られ、明らかに不愉快そうなオルガ―は、じろりとディアナを見た。

「彼女はマクリード助手の姪です」

 サイモンは簡潔に紹介すると、口を挟むすきを与えず続けた。

「マクリードは今どこに?」

「どこにって……ソマリスの大学に決まっているじゃありませんか」

「ソマリス?」

 三人の驚きように、さすがにおかしいと気づいたのか眉をしかめる。

「もしかして、何も聞いていないのですか?」

「どういうことでしょう」

「いやどうしたもこうしたもないですが……」

 オルガ―は軽く咳払いをすると、その場にいた皆が愕然とする内容をさらりと口にした。

「彼はこの大学をやめたんですよ」

「やめた!?」

「やめたとは? 私は何も聞いていません」

 サイモンが迫力ある顔をゆがめ厳めしく問うと、オルガ―は怖気づいたように身をひいた。

「さぁ……私も学科長から聞かされたもので詳しいことはわかりませんが、なんでもソマリスの大臣のご令嬢との婚約が決まったそうです。それでソマリスの大学で助教授として採用されることになったとか」

(婚約? やめた? 助教授?)

 オルガ―の声はディアナの耳に入ってきていたが、その内容は信じられないことばかりだった。仮に本当だったとしても、それを誰にも、ディアナにすら告げずに勝手に出ていくなんてことは絶対にありえない。

「そんな話はまったく初耳ですが」

「いや、それは私に言われても……そうだ、忘れていました」

 サイモンに無言の圧力をかけられ冷や汗を浮かべていたオルガ―ははっとすると、背広の内側に手を入れ白い封筒を取り出した。

「学科長から手紙を預かっていたんでした。いや、まさか何も知らないとは思わなかったのですっかり出しそびれてしまいましたよ」

 サイモンが受け取り封をあけると、三つ折りの便せんが一枚入っていた。開いた手紙をサイモンの横から伸びるようにして覗きこむ。


『親愛なる皆様へ

所用でソマリスへ行くことになりました。しばらく戻れません。

急ぎのため挨拶もできないまま旅立つことになり、本当に申し訳ない。

ではお元気で。

                       ウィリアム・マクリード』 


「……確かにウィルの字だわ」

「またずいぶんと簡潔ですな」

 オルガ―も内容をちらりと覗いたらしい。黙ったままの三人と重苦しい空気に耐え切れなくなったのか、オルガ―が勝手に弁明をはじめる。

「いやいや、向こうも急に退職された方がいたらしくてね、人手がどうしようもなく足りなかったのではないですかねぇ。かなり急ぎの話だったみたいですから」

「それにしても、教授がおっしゃっていたことはなにひとつ書かれていません」

「家族なのに、大学をやめたことや婚約なんて大事なこと何も知らせないなんて……ありえません。本当に自分からやめたんでしょうか」

 ネリアとディアナに責めるように畳みかけられ、オルガ―はまたも不機嫌そうに鼻をならした。

「だから私に言われてもですね」

「とにかく、この手紙はマクリードが書いたものに間違いないんだな?」

 サイモンがディアナに確認した。ディアナは便せんを受け取り、じっと見つめる。穴の空くほど見つめても、確かに見慣れたウィルの字だ。見間違えるはずはない。

「――はい、間違いありません」

「だとしたら、少なくともマクリードは今ソマリスにいるか、向かっていて無事なんだろう」

「でも」

「今はそれ以上はわからない。とにかく学科長に私が直接聞きに行く」

「学科長は明日まで戻られませんよ。学会の会合で先ほどお出かけになりましたからね」

 オルガーの言葉に、サイモンは片眉を上げた。

「でしたら明後日の朝一で伺います」

 

 翌朝、いてもたってもいられずディアナはいつもより早い時間に家を出た。大学に向かう慣れた道を上の空で歩きながらも、昨日から『婚約』の二文字が頭の中をぐるぐると回りつづけている。

(ウィルが結婚だなんて……)

 確かにウィルは二十三歳の立派な成人男子だ。これまで四年も離れて暮らしていたのだから、自分の知らない恋人のひとりくらいいてもおかしくはない。

 しかもサイモン教授が昨日帰り際に言っていたのだ。昨年ソマリスから帰国したあとも、何度か足を運んでいたようだ、と。それがソマリスにいる恋人に逢いにいっていたとしたら、つじつまが合わないわけでもない。彼女に請われて婚約を早め、義父である大臣に急ぎ助教授として着任しろと言われたのだとしたら……。

 はっと気づくと目の前に扉がせまっていて、ディアナはあわてて歩みを止めた。

「あれ、資料室……?」

 どうやら無意識にウィルと最後に会った場所に足を向けていたらしい。踵を返そうとしたが、ふと思いとどまる。

(もう一度確かめてみようかな)

 昨日は気づかなかったが、もしかしたら何か見逃したことがあるかもしれない。そう思い、ディアナは扉を開けた。

「〰〰〰〰〰!」

 開いた途端白い巨体が目の前に立ちはだかり、ディアナは悲鳴をあげそうになった。

「――サイモン教授?」

 すんでのところで白衣を着たサイモン教授だと気づいて悲鳴を飲み込む。

 彼は目録を手に持ち、扉の真横の棚の論文を確認しながら照らし合わせている。昨日ディアナとネリアがやった作業だ。

「他にも失くなっている資料がありましたか?」

 黙々と作業を続けるサイモンが気になり、おずおずと訊ねる。

「いや、昨日の五冊だけだ」

「だったらどうして」

「……少し気になることがある」

 サイモンが低い声でそう言った時、突然扉が乱暴に開かれた。

 バンッという大きな音とともに、数人の男が資料室になだれ込んできた。揃いの黒のスーツを身につけた屈強な男たちは、サイモンを取り囲んだ。その迫力にディアナは壁際に後ずさった。

「何事でしょうか」

 サイモンが落ち着いた声音で問うと、ひとりが進み出てサイモンの眼前に書状を突きつけた。

「マクリード助手の論文持ち出しの件で倫理委員会が開催されます。すぐにお越しください」  


「貴重な国の財産である論文を持ち出すとはゆゆしき問題だ」

「学者の風上にもおけない」

「しかも他国で出世のために利用するとは」

「突然いなくなったそうじゃないか。サイモン教授、あなたの管理不足が問われることだ」

 倫理委員会とは名ばかりで、会議室内はウィリアム・マクリードと指導教官であるサイモン教授への非難を吐き出し尽すだけの場と化していた。当のサイモンは聞いているのかいないのか、無言を貫いている。

 オルガ―がドンドンと机上をたたくと、ようやく室内は静まった。立ち上がり、ゆっくりと学内の有力者たちである出席者を見渡してから、鷹揚に話しだす。

「この件を国立研究所に報告したところ、国の機密問題にかかわっているかもしれないとの返答がありました。私はこれから法務省に出向き、審議委員会に参加することになっております。その結果次第でマクリード助手、およびサイモン教授の処遇を決定することとします。みなさん、依存はないですな?」


 研究部屋でやきもきしながら待っていたディアナとネリアは、戻ってきたサイモンから倫理委員会の様子を聞かされた。ウィルが国の機密情報をソマリスに流したと疑われているらしいこと、罪が確定すれば、国際指名手配される可能性があること……。

「これからマクリードのことで法務省で審議委員会が開かれる」

「そんな……国の機密を売るなんて、ウィルにそんなことできるはずがない」

「やったっていう証拠は何もないんですよね? だったら罪に問われることはないんじゃないですか?」

 ネリアは明るく言ったが、サイモンは苦い表情を崩さない。

「やった証拠なんて関係ない。重要なのはやっていないという証拠が出てこないことだ」

「それってつまり……」

「だれの策略かはわからないが、今回のことはマクリードに罪をかぶせるために行われたのかもしれない」

「! そんな……」

「罪が確定したら、どうなるんですか」

 青ざめたネリアの横で、ディアナは気丈に尋ねた。答えは漠然とわかっていたが、聞かずにはいられなかった。

「国際指名手配されて、捕まるだろうな」

「――――」

 サイモンは捕まるとだけ言ったが、国に関わる機密を漏洩させたと断定されれば、命の保証もないかもしれない。誰かが機密をもらした罪をウィルになすりつけようとしているのだとしても、ウィルが国内にいない現状では真実など関係ない。権力を持つ誰かが有罪だと叫べばそれで終わりなのだ。

 ディアナは床を見つめ、両手を強く握りしめた。父を尊敬し、父と同じ道を志したたったひとりの家族。もう、大切な人を失いたくはない。

「わたし、法務省に行きます」 

 ネリアがはっとしたようにこちらを見た。むっつりと黙り込んでいたサイモンもゆっくり目を向ける。ディアナははっきりと言った。

「審議委員会でウィルの無実を訴えます」

「やっていない証拠は何もない」

「一番近くにいたわたしは彼を一番よく知っています。証拠はなくても、罪になる前に捜査をしてもらうよう願うことはできる」

「無駄だ」

「無駄かどうかはやってみなければわかりません」

 サイモンの眼が細く鋭くなる。静かに見返してきたディアナのその双眸に強い意志の力が湛えられているのを読み取ったサイモンは、短く嘆息した。

「審議委員会が開催されるのは外宮である秋嘉殿の政務棟だ。外宮内は一般人でも入れるが、政務棟は官吏と警備以外立ち入り禁止だ。会議室に至っては関係者以外はまず入れない。今回は私も参加は許されていない」

 どうする、と目で問いかけられたディアナは焦燥にかられながらも思案した。身ひとつで闇雲に突っ込んでいっても、中に入るどころか城門で突っ返されるのがおちだ。だが宮殿に知り合いがいるわけでもないし……。

「そうだ、セナなら宮殿に入る方法知ってるかも」

「そうね、王宮に出入りする知り合いがたくさんいるって言ってたし」

 ディアナの思いつきにネリアの顔にぱっと赤みがさす。だが、サイモンは首を振った。

「審議は一二時からだ。あと三時間もない。これから連絡を取って策を練って手配をするのは不可能だ」

「そんな……じゃあどうすれば」

 考えれば考えるだけ思考が上滑りしてまとまらない。こうしているだけで時計は無情にも時を刻んでいく。カチカチと秒針が進む音だけが頭の中にこだまする。

 ウィルを助けることはできないのだろうか。子供の時からずっと一緒だった兄のような人。失うのを黙ってみてる? いや、そんなことはしたくない。でも。

 泥のような感情の渦に沈みそうになった時、ネリアががたんと立ち上がった。

「そうよ、あるじゃない!」

「何が?」

「武器よ、あなたの武器」

「武器?」

「そう、これはディアナにしかできないわ。そして、あたしがいなくても成り立たない」

 飲み込めていないディアナに、ネリアはセナがのり移ったかように不敵に笑った。

「任せて。絶対に宮殿に入り込めるようにしてあげる」

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