七日目

「佑樹、キャリーケースに荷物は詰め終わった?」

「うん、もうまとめた」

 母が部屋に来て片付けを促す。今日でこの小旅行は終わりだ。長いか短いかはよく分からないけど、名残惜しくはあった。

「どこに行ってるのか知らないけど、夕方までには帰ってきなさいね」

「分かってるって」

 久々に温かい朝食を食べる。トーストとベーコンとスクランブルエッグの簡単な食事だったけれど、なんだか美味しく感じた。母が自分の食器を洗っているのに対して父は目線をテレビと新聞に行ったり来たりさせながらのろのろと朝食を食べていた。

「なんだお前、こっちで新しい友達でも出来たのか」

「そんなとこ」

「そうだな、結衣ちゃんも大変みたいだし、新しく誰かと友達に成るってのはいい経験だ」

「結衣ちゃんも根を詰め過ぎじゃあ無い? 息抜きに成れば良かったんだけど」

「あの子は努力家なんだなぁ。なかなか出来ることじゃないよ、きっと良いところに合格する」

 ごちそうさまでした。食器を片付けて、サンダルを履いて、家を出た。時間は昨日より少し遅いぐらいだろうか。それでも佳那子は待っているだろう。朝早くあの公園に来て、ブランコに座っているのだ。

 公園までの道程も慣れたものだ。まず川へ行き、そこから下流に沿った砂利道をしばらく歩いて、途中綺麗に舗装された道に別れるから、そこをずっと進む。しばらく歩くとまずブランコの支柱が見え、少し進むと白いワンピースが見えるのだ。

 しかし佳那子は居なかった。

 いつものブランコは、寂しく風に揺れていた。

 心臟がドキンと一度、大きく跳ねた。当たりを見回してみるけれど何処にも姿が見当たらない。僕を驚かせようとしてどこかに隠れているのだろうか。そう思って遊具の裏や公園の茂みの影など一通り探してみるけれど見つからない。いや、きっと見落としが有ってそこに居るに違いない、もう一探すが影も形も無い。もしかしたら余程上手く隠れているのかもしれない。

「佳那子ー! 降参だよ、見つからない、どうか出てきてくれ、遊べる時間が減っちゃうだろー!」

 荒れた公園に声が虚しく響いた。もし他に人が近くに居たらどうしようと一瞬考えたがどうでも良いことだった。佳那子に会う事が僕にとって何よりも大事だった。

 どこかで今の僕を見て笑っているんだろうか。寂しそうに、一人叫び出した僕が面白いんだろうか。こうなったら狂ったほど叫んでやる、思わず出てこない事が申し訳なくなるくらいに叫んでやる。

「佳那子ー! 佳那子ー! 佳那子ー! 佳那子ー! 佳那子ー! 佳那子ー! …………」

 ……しばらく叫んでいた。後の方の叫びは殆ど嗚咽に成り喉がヒューヒューと鳴る。呼吸が苦しい。ここまでしたのだから、ここまでしてしまったのだから、どうやら近くに佳那子は居ないらしいと、そう考えるしか無かった。

 もしかしたら何らかの理由で少しこの場所を離れている、あるいは遅れているのかもしれない。もしそうならばこの公園で待ってればいつか会えるはずだ。佳那子もいつまでも待つと言っていたのだから、彼女も僕がこの場所でじっとしている事を期待しているのかもしれない。

 僕は待った。彼女がそうしていたようにブランコに座って待った。いつの間にそれほど時間が経っていたのか、太陽はなかなか高い位置まで来ていた。今日は雲一つない快晴だ。鉄の持ち手の所が暑く成ってきたので、やり場のない腕をだらんと垂らした。

 不意に左後ろからガサッという物音が聞こえた。思わず振り返ったが何も無かった。恐らく狸だか狐だか、少なくとも彼女で無いものが少し茂みを揺らしただけのようだ。

 佳那子はいつまでも待つと言っていたが僕はそろそろ我慢が出来なくなっていた。先程のように物音一つ立てられただけで一々反応してしまうのが癪に触った。

 僕は彼女の家に行く事にした。この公園からは一本道のはずだからすれ違う事は無いと思うが否定は出来無かった。それでもここでただ待つ事は苦痛で、ともすれば地団駄でも踏みそうに成っていた。

 走り出した。公園を出て少し歩くと現れる広い道を、僕は彼女の家の方へ。どうせ車なんか通らないから道のど真ん中を突っ走った。すぐさま足が痛くなる。サンダルなんか履いてくるんじゃ無かった。さっき叫んだので上手く呼吸が出来ない。すぐに苦しくなって、あばらのあたりが痛くなって、息が細くなって、その場で僕は膝に手をついた。

 辺りは彼女と歩きながら何度も見た古い電話ボックスや、もう誰も住んでいないであろう家屋がある場所だった。まだここか、彼女の家までまだまだあるな。

 呼吸を整えながらゆっくり歩く。暑くて、喉が乾いてしまった。それでも前へ進んだ。代わり映えのしない景色が恨めしかったが、足だけは休めない。

 またしばらく歩いたような気がして、そう、この道はしばらく歩いたような気がするのだ、だからそこからまた歩くのだ。大体体感で、しばらく歩いたと思った所から倍歩くと彼女の住んでいる住宅地に着くのだ。そうだ、だから今は半分ぐらいだ。自分の頭が回っていないのを感じた。ゾンビに成った気分だった。

 ふと目の前に、黄色と黒の、立入禁止の看板が立ちふさがった。昨日まではこんなもの無かったのに、もしかしたら先の道で何か起こったのだろうか。気にはなったけど、もう体力が無くて歩く足はむしろ遅くなった。それでも前へ、前へ……ずっと歩く……。

 おかしい、流石に歩き過ぎだ。そろそろ分かれ道が見えてくるどころか、もう過ぎ去っているとしか思えない。見落としてるなんてバカな事は無いはずだ。彼女と何回来たと思っているのだ。

 昨日までの道とはどこか違う気がする違和感に耐えられなく成って足を止め、日陰に入った。もう全く同じような景色が続くから、ふとした瞬間にどっちが進行方向か分からなくなりそうで怖かった。いや、もしかしてもう間違えているのじゃないか、あの膝に手をついた時に、もしかしたら無意識のうちに振り返ってしまい……いやそんなはずは無い……行きはあの電話ボックスをこの方向で見ていたはずだ……。

 自分に自信が持てなくなっていた。というか自分に自信があるなら、もう流石に通り過ぎている、と考えて間違いない。

 よし、決めた。五百歩。百歩を、後五回。それだけ数えて分かれ道が見つからなかったのなら、僕は見逃して通り過ぎたという事にして引き返す。そう決めた。

 休んだおかげで身体はだいぶ楽だ。よし、数えよう、一、二、三、四、五、……

 ……、九十九、百。一回目。一、二、三、四、五、……

 ……、九十九、百。一、二、三、四、五、……

 ……、九十九、百。一、二、三、四、五、……

 ……、九十九、百。一、二、三、四、五、……

 ……、九十九、百。……

 思わず大きいため息が出た。日はもう一番高い所から少し傾きかけていた。もう泣きそうになりながら、振り返って足をなんとか前に出した。

 僕はバカだなぁ。なんでこんな長い距離を歩いたんだ。どう考えても彼女の家はもっと近かった。もうこれじゃ佳那子と遊ぶ時間も無い。ちょっと会って、来年までのお別れを言うだけだ。でも、ここまで来たのならそれで十分だ。

 立入禁止の看板を通り過ぎ、やがてまた、佳那子の住む住宅街と公園の間に有るはずの電話ボックスが見えてきた。

 どうして? 僕は混乱した。どう考えてもここまでの道に佳那子の住む住宅街への脇道は無かった。

 いや、間違いなく昨日までは有ったはずだ。佳那子と手を繋いで、脇道に逸れるとあの急に現れる住宅街が有ったはずだ。どうして、どうして。

 もしかしてさっき引き返したあの地点の先だったのか? いやそれは流石に遠すぎる、いや、僕が疲れすぎていて距離を誤ったのか? いやしかし……。

 もう、さっき引き返した地点の、その更に先へ行く事は時間的に不可能だった。体力も保たないだろう。帰るしか、無い。

 しかし僕はまだ一縷の望みを見ていた。あの公園に帰ったら、もしかしたら、もしかしたら佳那子が居るんじゃないか。そうだ、元々はあの公園で落ち合う予定だったし、やはりあの時佳那子は公園から少し離れていただけなのかもしれない。

 よし、あの公園に戻ろう。僕にはそれしか無い。空はもう夕に染まり始めていた。


 しかし、やはり佳那子は居なかった。相も変わらず草がぼうぼう生えているだけのただの公園だ。

 ああ、もう彼女には会えないんだ。僕は理解した。多分そういうことなんだ。そうだ。

 もう佳那子の事を考えたくなかった。つらくなる。僕は何度もそうしたように、ブランコに座った。持ち手の鎖がきぃきぃ音を鳴らす。ここに座るだけで佳那子が自分を見ているような気がしてならない。あの黒くて大きくて深い瞳が僕を見ているに違いない。しかし佳那子はいないのだ。僕は佳那子とはもう、会えないのだ。



 まどろみの中で車掌の声が最寄り駅の名前を告げる。どうやら眠っていたようだ。無理矢理身体を起こして電車から降りる。人と人の間を縫いながら駅から出た。

 外はもう肌を刺す冷たい季節になっている。冷える手を擦りながら薄暗い帰路を歩く。電灯が弱々しく光る児童公園には、もう子供一人居なかった。

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夏蕾 tu-buri @nurumayukaku

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