六日目

 次の日は意外と早かった。昨日と同様に大分早い時間だったが、佳那子ならもう居るに違いないと確信していた。冷蔵庫を覗くと惣菜パンが入っていた。母が昨日の僕の行動を思って買ってきたのかもしれない。口に詰め込んでから気づいたが温めれば良かった。

 僕はゆっくりあの公園に向かった。昨日息を切らして彼女に会った恥ずかしさも学んだし、今日一日存分に相手をしてくれると言っていたから、少しでも体力を残すのだ。そう思って、少なくとも途中まではそう思って歩いていたのだが、あの公園が近づくに連れて、今日遊んでくれる佳那子に近づくに連れて、なんだか気が逸って、気がついた時には走っていた。

 またあのブランコに彼女は座っていた。昨日と同じように僕を見かけると手を降った。僕は彼女に駆け寄った。

「今日は早かったね」

「佳那子の方が早かったじゃん」

「家からここ、近いからね」

 そう言うとまた昨日と同じように、僕の手を取ってくれた。僕は嬉しかった。

「行こう。今日は、いっぱい遊ぼう?」

「うん」

 彼女の手は冷たくて小さくて細い。ああこの手だ。この手の感触だ。ここまできたのなら、もう片方の手も繋いでしまって、二人で前へ歩く事さえ忘れてしまっても良いと思った。今すぐにこの手をぎゅっと握りしめたかったが、そんな事したら彼女になんだと思われるだろう。だから僕はその手を、悟られないように少しずつ力を入れていった。


「今日は鬼ごっこしよう?」

「うん」

 佳那子と遊べるならもうなんの遊びだって良かった。

「じゃあどっちが先鬼やる?」

「僕がやる、追いかける方が好きなんだ」

「分かった、じゃあまたあの木で目を伏せて、百数えて」

「うん」

 昨日のだるまさんがころんだをした木に目を伏せた。佳那子に後ろから抱きつかれたあの木だった。

「一、二、三、……」

 数は間違いなく同じペースで増えているのに、思ったよりもずっと長く感じる。僕は早く駆け出して、佳那子のあの背中を追いかけたいんだ。棚引く長い黒髪に、徐々に距離を詰めて後ろから、彼女に触れたいのだ。

「……九十九、百」

 振り返ると佳那子は居なかった。きっと家の表だろう。それにしても広い庭だなぁと思いながら走り出す。しかし表に行っても佳那子は見当たらなかった。ああおそらく僕の移動に合わせて家の前後を行ったり来たりする作戦なのだろう。僕は家の影になる所、角で見えない場所に待ち伏せした。

 案の定、佳那子が目の前に来た。珍しく驚いた顔が見れた。嬉しかった。逃げようとしているがもう遅い。僕はそのまま彼女の肩に触れた。

「捕まえた」

 だが彼女は、あたし触れられてもなんでも無いという風に僕から距離を取った。

「触っただけで捕まえただなんてちょっと違うと思うんだよね、捕まえるっていうのはもう相手が逃げられないぐらいがっしり捕まえなきゃ。それが佳那子ちゃんルール」

 イタズラするみたいに笑いながらそう言い残すと彼女は振り返ってまた走り出した。捕まえられたからといってひどいルールだった。それでも佳那子が楽しんでくれるのなら全然構わないと、そう思った。

 佳那子の背中を追う。足はどうやら僕の方が速いみたいだ。おにごっこなんてこんなに本気でするものじゃないとは分かりつつも、僕は息が上がっていた。

 どんどん背中が近づく。夢にまで見た彼女の黒髪がもうすぐそこだ。手を伸ばせば服に触れることが出来るだろう。僕はそこから更に一歩踏み出して、佳那子を抱きしめた。

 きっと佳那子なら許してくれると、確信していた。僕はずっとそうしたかったように、佳那子の細いからだに手を回して捕まえ、相手が観念して足が止まると、もう逃すまいという思いを込めて更に力を入れて抱きしめた。

 佳那子は僕を見て微笑んでくれた。彼女も僕の背中に手を伸ばして、ぎゅっと力を込めてくれた。今更佳那子を捕まえる事に必死で自分が汗まみれな事に気づいて恥ずかしかった。しかし佳那子も汗でワンピースが背中に張り付いていて、仄かに汗の匂いがしたのでお互い様かもしれないと思った。

「捕まえた」

 これ以上はと、距離を離した。かつて無い幸福感が僕を支配していた。彼女の身体の細さも汗で張り付いた背中も汗の匂いも、絶対に忘れる事は無いだろうと思った。

「じゃあ、次は私が鬼ね」

 彼女はこれまでと変わらない笑顔でそう言った。二人で並んで木の幹まで歩いて、佳那子は百秒数え始めた。僕はもう特段逃げる気も無かったが、とりあえず家の反対側まで移動した。やがて数え終わった佳那子が現れる。走る姿も可愛らしい。僕は形こそ逃げる格好をしたけど、本当は彼女とずっと近くに居たかった。でもそれでは遊びとしても成立しないから、離すでも無く追いつかれるでも無い距離を保って、ずっと絶妙な位置を走っていた。佳那子を近くで感じていたかった。

 やがてそれもじれったくなって、僕はとうとう足を緩めてわざと彼女に捕まった。彼女は僕と同じように僕の身体に手を回して抱きしめてくれた。きっとそうしてくれるだろうと思っていたが、いざやられてみると嬉しくて同じように彼女を捕まえた。

 おにごっこという名前で、二人でそんな事を何度も繰り返した。


 その後もいろんな遊びをした。かくれんぼ、トランプ、ビー玉遊び、……。そのどれもが佳那子と一緒なだけで刺激的で、遊びを変える度に寂しさを覚えた。

「佑樹、汗かいてない?」

「うん、結構動いたからね」

「お風呂入りたい?」

「そうだね」

「じゃあ、入ろっか。こっち来て」

 彼女に手を引かれるまま脱衣所らしき部屋に来た。立派な家はこういうものなのか、さながら温泉旅館の脱衣所の小さいもののような場所で、幅の広い洗面台の上に大きな鏡が有り、棚にはカゴが置かれ、床は細く編んだ竹のような素材のものだった。

「脱いだ服はここに入れてね」

「うん」

 そう言うと彼女はワンピースを脱いで下着だけに成り、その下着もくるぶしまで下ろして、最後には片足をひょいと上げてそれをカゴの中に入れた。その光景を自分も服を脱ぎながら脇目で、時には大きな鏡に映る姿で視界に収めた。

「先に入ってるね」

 彼女は前も後ろも、どこも全く隠さずにそう残し、引き戸を開けて風呂場に入った。僕もどこも隠さず、彼女がそうしたように、後を続いた。

 簡素だがモダンで洒落た雰囲気のある風呂だった。大理石、いや石造りと言うのだろうか、硬質な雰囲気の部屋の真ん中に白いバスタブとシャワーが備えられていた。

「早くこっちに来て。とっても暖かいよ」

 佳那子は既に肩まで湯船に浸かっていた。部屋は湯気が充満している。水面越しに朧気な彼女のシルエットが見えた。

「二人だと狭くない?」

「平気だよ、狭くたってあたしは別に良いし」

 僕は隠せない興奮を恥じながらも、湯船の佳那子が寄りかかっている反対側から、片足を上げて足を突っ込み、遂には肩まで肩までお湯に使った。目の前には佳那子がいて、長い髪を水面に這わせている。時には自分の足が彼女に触れて、水の中でまた変わった彼女の肌の感触を感じた。身体が凄く熱い。

「佑樹ってお風呂好き?」

「普通……かな」

「そう……」

 佳那子はバスタブの縁に手をかけて、目を瞑って上を向き、空気が抜けるみたいに息を吐いた。僕もそれに習って息を吐いて、吐ききって、吐ききると肩や足の裏、前腕のあたりにじわじわとした熱を感じた。

「明日帰るんだよね?」

「そうだよ、明日の夕方、もうあっちに着く頃には夜なんだ」

「……明日も、遊べる?」

「うん、夕飯の前までは」

「そう……」

 身体と湯が一体に成るような心地よさが身を包む。

「嬉しい……絶対に来てね……約束……」

 もう考える事なんてしたくない。このまま目を瞑って、眠って、いや溶けてしまったらどんなに気持良い……いや、溶けよう、目を瞑って、溶けよう……

「来年もまた、ここに来るよ」僕は重いまぶたを少し上げて口を開く。

「そしたらまた、一緒に遊ぼう」

「うん……約束……」

 その後は共に何も言わず、のぼせ上がるまでずっと風呂に入っていた。


「大丈夫? あんなに顔赤くなっちゃって。一人で先に上がっても良かったのに」

 お風呂から出た後僕は少しくらくらして、しばらく座って休んでいた。身体もさっぱりしていたし、無駄に動かないのも丁度良かった。二人で並んでソファーに座りながら、他愛の無い事をだらだら喋っていた。

「水いっぱい飲んだから平気だよ。佳那子こそ、だいぶ赤かったよ」

「あたしは元々の肌が薄いから」

 佳那子は白い腕をさっと撫でる。

「明日は何したい?」

「これまで通りで良いよ」

「もっと、あたしとやりたいこととかは無いの?」

 そりゃあ出そうと思えばいくらでも思いつくけれど、決して新しい遊びをしなければ満足しないという訳では無い。

「今までが十分楽しかったって事だよ、それじゃダメかな」

「それでも良いよ。あたしも楽しかったもの」

「一昨昨日みたいに川で遊んでも良いし」

「うん」

「あの蜂蜜をかけたりんごも凄く美味しかったよ」

「うん」

「お医者さんごっこはなかなか恥ずかしかったけど、佳那子がやりたいなら僕もやるよ」

「うん」

「おにごっこも楽しかったし、お風呂も凄く気持ちよかった」

「うん」

「だから明日もこれまで通り遊ぼう。別に変わったことなんてしなくて良いよ」

「……分かった」

 佳那子も納得してくれたようだ。

「またあの公園で、ずっと待っているから。きっとまた、あたしの方が早く着いてるわ」

「もうちょっと遅く来れば良いのに」

 僕が呆れたように笑うと、彼女もごまかすように笑った。もう日が暮れている。僕ら二人は慣れた足並みで玄関まで移動する。

「じゃあ、また明日」

「うん、待ってる、絶対ね」

「うん、絶対」

 外は少し肌寒い風が吹いていた。僕は帰り道、何度も振り返って佳那子の家の灯りが着いている様子を確認し、見えなくなる所までそうしていた。

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