五日目
目が覚めたのは朝早く、居間には父も母もまだ起きてきていないようだった。早く佳那子の家へ遊びに行きたかった。僕は冷蔵庫の中を漁り、ハムと食パンを頬張りながら靴を履いてあの公園へ向かった。
「今日は早いのね」
朝靄がかかる中で佳那子は昨日と同じようにブランコに座っていた。
「朝ご飯、美味しかった?」
僕の口端に着いたパンくずを取って彼女はそう言う。
「それじゃあ行こっか」
冷たくて細い指で僕の手を取り、まだほの暗い道を歩き始めた。
「佑樹、今日やりたい遊びはある?」
彼女の淹れた紅茶は桃の香りがした。鼻腔をくすぐる甘さ、少し冷房が効きすぎな彼女の家ではその熱が身体の奥に伝わる。
「なんでも良いよ」
「なんでもって佑樹……言っちゃったね? そうやって適当な受け答えしてると痛い目みるんだから」
そう言うと彼女は良いことを思いついたと言わんばかりの顔で階段を駆け上がり、少しすると降りてきて階段の途中から
「佑樹、こっちこっち」
手招きされるがままに二階に上がり、案内された部屋は子供部屋のようだった。彼女の部屋、というには幼いか、ぬいぐるみや遊び道具が入った箱、幼児向けの小ぶりな遊具などが置いてある。恐らく数年前に親にあやされながら育った部屋なのだろう。
「これなーんだ?」
手にしていたのは垂れたU字から紐が出ていて、その先に小さな円盤が付いている、聴診器だった。
「それで、何するの?」
「決まってるじゃない」
ああ、段々彼女が楽しそうな理由が分かってきた。
「お医者さんごっこです!」
そう宣言した彼女は頑なで、僕がいやいやそれはちょっと違う、もっと良い遊びがある、ほら例えばトランプとかどう? 七並べとか神経衰弱とか有るでしょうねぇねぇと言っても聞かず、クローゼットから小さい白衣、低すぎる机の引き出しからはメガネを取り出しすっかり女医。
「それじゃあ患者さんは佑樹ね、そこの椅子に座って」
「ちょっと待って、別の事をやろう、流石にこれは子供っぽ過ぎるよ」
「佑樹が何でも良いって言ったんだよ? それに、きっと面白くなるよ。気分が冷めないうちに患者さんに成りきって」
佳那子を不機嫌にさせるのは忍びない、僕は諦めて彼女の前に座った。おかげで今の気分はなかなか本物の患者と近いものになっていた。
「佑樹さん、あなた、今日はどこが悪くて来たのかしら?」
「はぁ、えー肩のあたりが痛くてですね、先生に見てもらいたいです」
「あら胸が痛いの、それは大変ね、それじゃあ服を上げて胸を出して下さい」
僕の言うことなんか聞かずに彼女は上着の裾を引っ張り、腹を見せるよう促した。胸のあたりまで服を上げると彼女が顔を近づけて僕の肌を眺める。ぴと、と冷たい聴診器が当てられる。身体が跳ねそうに成るのをなんとか抑えた。
彼女の鼻息が、皮膚に当たる。佳那子は目を閉じて、じっと僕の心音を聞いている。自分の心臟を意識せざるおえない。普段は気にしない胸の定期的なリズムに、ドキ、ドキ、ドキ。耳を澄ませてしまう。ああ、この音を彼女も聞いてるんだ。ドキドキドキ。少し早くなった。佳那子は瞑った目はそのままに、少し口端を上げた。僕の鼓動、速くなった事がバレているのだ。恥ずかしい。ああ、ドキドキドキドキドキドキドキドキドキ。恥ずかしい、もうやめてくれ。ドキドキドキドキドキドキドキドキドキ。
「異常無さそうですね」
彼女は聴診器を耳から外し診断を下した。
「次、佑樹がお医者さんね」
今度は立場が逆転した。メガネは度が入っていなかったが、少し小さくて窮屈だったので外した。
「佳那子、さん、あなたはどこが悪くて来んですか」
「はい、胸が痛くって」
「そ、それじゃあ胸の音を聞きます、ふ、服をあげて下さい」
「はい、お医者様」
彼女はなんのためらいも無く服を胸まで上げた。僕だって、十分年相応の性知識が有ったから、恥ずかしくていられなかった。顔は真っ赤になって鼻息荒くなっていただろう。出来るだけ見ないように、そうだ、さっきの佳那子のように目を瞑ればいい。胸の真ん中に聴診器を当てた。
「ん……」
佳那子も声を抑えた。彼女の心音は、さっきの僕と同じくらい早い。
「い、異常無さそうです……」
僕は聴診器を外した。佳那子は僕の方を見て微笑みながら上着を元の位置に戻した。
「ねぇ、もう別の遊びをしよう? そうだ、おにごっこでもやろうよ、僕早いんだ」
「うーんどうしようかな、折角佑樹が遊びはなんでも良いって言っちゃったんだから、今日しか出来ない事をしたいな」
「そんな、勘弁してよ」
今日の佳那子はなかなかに意地悪だった。元々こういう子なのかもしれない。
ふと、僕の言葉に一呼吸置いて答えるタイミングで、彼女はあっ、と思い出した風な声を上げた。
「ごめん佑樹、今日の遊びはここまで。まだ明後日まではいるのよね? だったら明日、思いっきり遊ぼう、ね?」
突然、ねだるような顔でそう言うのであった。まだ佳那子の家に着いてから一時間と経っていなかった。僕はもっと彼女と、今日一日中彼女と遊ぶつもりだったからその言葉が信じられなかった。
「なにか有ったの?」
「うん、外せない用事なの……」
彼女はそれ以上何も言わない。上目遣いで僕の答えを待つだけだ。僕はこれ以上佳那子に踏み込めなかった。
「分かった、じゃあまた明日」
「うん、明日は一日中、うんと遊ぼう、絶対、約束するわ」
彼女は僕を玄関まで送る。楽しみの芽を摘まれて落胆している僕とは裏腹に、彼女はなんだか楽しそうな顔をしていて恨めしい。
「じゃあ、また明日」
「うん」
少なくとも玄関が閉まるまで、彼女はニコニコ笑っていた。
目の前に出された甘いデザートをスッと取り下げられたような、そんな気分だった。少し怒ってもいたかもしれない。昼寝でもして頭にかかるもやを取り払おうと思った。
家に帰ると縁側に結衣ちゃんが居た。よっ、と片手を上げて声をかける仕草は数日前に見たものだがすっかり懐かしく感じた。
「よっ。朝早くからご苦労さん」
「勉強はもう良いの?」
「息抜きも勉強のうちだよ」
彼女は日陰でパタパタとうちわを扇いでいる。僕も同じように座った。
「昨日今日は何してたの」
「別に、一人で遊んでただけだよ、川とか、森とかで」
「ほんとに?」
「ほんとだよ……」
僕の顔を覗き込んでうちわで扇いできた。
「佑樹は嘘つくの、下手だよねぇ」
「……どうして分かったの」
「秘密」
しっかし暑いなぁ、と呟く結衣ちゃんのこめかみを、一筋の汗が滴った。首を伝って肩口に。首元から服の中に入りそうな所で、彼女はTシャツの裾を引っ張って顔の汗を拭った。結衣ちゃんの健康的なお腹が見えた。
「結衣ちゃんは嘘をつかないの?」
「つかないねぇ。バレない嘘がつけるほど、複雑な村じゃないから」
日陰に入ったのに、どうしてか身体が暑い。頭皮から、腋の下から、足の裏から、汗がどんどん吹き出ているような気がした。
「で、本当は何して遊んでたの?」
「……言わなきゃダメ?」
「いや、いいよ」
結衣ちゃんは目を細めて、遠くの山を見ている。
「佑樹って不思議な子だよねぇ。この村には佑樹みたいな子、いないよ」
心外だった。自分がそんなに奇抜な事をしている記憶が無かった。
「こっち来てさ、例えば虫取りしたり、川に行ったりする訳じゃん。佑樹も最初は目キラキラさせてるんだけどさ、ちょっとこなれてきたら、すっごく遊びに集中してやるわけ。もうそれしか見えてませんみたいな顔するよ」
そんな事、初めて言われた。自覚も無かった。
「それ見てたらさ、あたしも負けてらんないって気分になんか成るんだよねぇ。まぁあたしは3歳もお姉さんだし、村での遊びもゲームも結局負けないんだけどさ、佑樹の真面目な顔見てると……なんて言うんだろうな、凄く怖いんだよね」
結衣ちゃんの言葉が続く。僕はこんなに身体中が熱いのに、涼しそうな顔だ。
「あたし遊びもゲームも、なんかすっごく張り切ってにやっちゃったよ、佑樹の前だとさ。村の子達よりはやっぱり飲み込みが良いし私が思いつかない事とか平気でするの。ああきっと、都会で育った子ってこうなんだろうなぁと思ったの。私が田舎で経験してる事なんか佑樹はもう大体やりきっちゃったよね。私は毎日毎日、それだけなんだ。でも佑樹の日常からしたらこっちでの夏なんて一瞬で、きっと都会のいろんなこと、私の知らないことを沢山経験してるんだ、あの真剣そうな顔で。そう思うとなんだか……居ても立ってもいられないって気分になっちゃったんだよねぇ」
しばらく沈黙が続いた。結衣ちゃんは立ち上がって台所へ行き、帰ってきた時にはアイスキャンディーを2つ持ってきた。
「はい」
「ありがと」
小袋を開けて、青いアイスキャンディーを口に含んだ。ソーダ味だった。僕の家ではあまり食べない味だった。そういえば、僕は毎年ここに来ると、このソーダ味のアイスキャンディーをよく食べていたんだったと、今になって思い出した。
「変なこと言っちゃったね」
結衣ちゃんは照れくさそうに言った。
「結衣ちゃん、この後も勉強するの?」
「そうしようかな……うん、そうする。明日も明後日も、そうするよ」
「そっか」
僕は寂しかった。去年までの、いや一昨日までの結衣ちゃんと今の結衣ちゃんは、なんだか違う人に思えた。少なくとも一人の人として十分に理解していなくて、今のまま彼女と接することが後ろめたかった。
二人共アイスキャンディーを舐め終わるまで、だいぶ時間がかかった。
僕はまた一人であの公園に向かった。きっと佳那子は居ないだろうけど、もしかしたらと心では期待していたかもしれない。そうでなくともあの公園に行き、少しでも近くに、少しでも佳那子と顔を合わせられる可能性を上げたかったような気がする。
当たり前のように佳那子はいなかった。風が強いのか、雑草とブランコが激しく揺れていた。僕はブランコに乗った。
空を見上げると雲が早く動いていた。地面を強く蹴ると、ブランコが前後に揺れ始めた。地面を見ていても面白くなかったので目線は空だ。
今日の事を思い出していた。朝早く起きて冷蔵庫のハムを食べた事。そこから佳那子の家に行くまでの道のり。佳那子が出してくれた紅茶。お医者さんごっこ。佳那子の胸。佳那子の胸の音。ああ僕の胸の音も。そして、今日はもう遊べないと言った佳那子の顔。玄関が閉まるまで笑っていた佳那子の顔。
結衣ちゃんの事はあんまり思い出したくなかった。
何度も佳那子の事を思いだした。今日の朝から別れるまでの事を、何度もだった。
佳那子と会ったのもこの公園だった。こうしてブランコを漕いでいた時に、あの黒くて大きくて深い瞳が、僕を見ていたんだ。ふと当たりを見回す。もちろん佳那子が居るはずも無かった。早く明日に成らないだろうか。あんなに雲が動くのが早いなら、まだ少し高い太陽だってすぐに流れて、佳那子に早く合わせてくれたっておかしくないと、そう思いながらずっとブランコを漕いでいた。
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