四日目
僕は半ば走るようにしてあの公園に向かっていた。昨晩は疲れから早く寝て熟睡できた。朝特有の倦怠感も無く身体はみなぎっていて、昨日の川遊びが思いの外楽しかったのもあり佳那子に会いたいという気持ちが逸っていた。朝食を食べてすぐに出てきた。
しかし、気持ちとは裏腹にその日は曇りがかっていた。昨日は爛々と太陽の輝きを反射させていたあの川も白く濁って見え、今日は違うものが流れているんじゃないかと思った。少し霧も出ていた。昨日の夜、雨が降ったのかもしれない。
佳那子はあの草ぼうぼうの公園のブランコに座っていた。昨日と同じ白いワンピースを着ていた。僕を見つけると手を降ってくれた。駆け寄ってから気づいたが、息が切れているのが恥ずかしかった。
「待った?」
「うん、待ったねぇ」
「ごめん」
アハハと笑って彼女は立ち上がる。お尻をぱんぱんと手で叩いたが、別に汚れていなかった。
「あたしの家、あっち」
佳那子はその公園の、僕の来たのとは別の入口を指差した。
「僕、そっち行ったこと無いや」
「いいね。夏は短いんだから、冒険しないと」
彼女は僕の肩を叩いて歩き出した。僕も追いついて並んで歩いた。
公園から続く道は来た方と同様に奇麗に舗装されていた。彼女の家がこの先にあるらしいし、もしかしたら開けた道に出るのかなと思った。
「佑樹の住んでる所って、どんな街?」
佳那子は手持ち無沙汰なのか、歩きながらそんな質問をする。田舎の子は都会のことをよく知りたがるなと思った。
「ここよりはずっと都会だね。まず電車が走ってるし、ちょっと歩けばコンビニとかレストランが有るんだ。人も多いよ、僕の通学路なんか朝は交差点にわっと人が集まって、立ち止まってたら人に押しつぶされちゃうくらい。小学校も一学年がね……何人ぐらいか忘れちゃったけど、いっぱいいるよ」
彼女の知らない自分の街を紹介するのは、なんだか得意な気分に慣れた。
「へぇー。きっとここには無いものが沢山あるんでしょうね。あたしはまだこの村から出たことが無いから、佑樹が都会から来たって聞いた時、背もあたしと変わらないのに私の知らないことをいっぱい知ってるんだろうなぁって思ったもん」
思った通り、少し歩くと開けた道に出た。道幅は広いけれど両脇は林で、山の中という感じだった。真っ直ぐで、普段は見渡しの良さそうな道だったけれど、今日は霧がかかって先が見えなかった。
「そんなこと無いよ。住んでる所が違うから知ってることが違う、そのぐらいだよ」
「そうかなぁ」
「そうだよ、昨日だって水切りはどんなふうに投げれば上手くいくか、佳那子は知っていたじゃないか、そんなもんだよ」
そう言うと佳那子はくすくす笑いだした。
「佑樹は別にこっちに住んでたって下手そうだけどね」
「そうかなぁ」
僕は少し恥ずかしかった。
しばらく歩いたような気がする。まだまだ山道で、家なんてとても無さそうだった。広い道路だったけれど、車が一台も通らなかった。時々脇にもう誰も住んでい無さそうな家屋や蜘蛛の巣が張った電話ボックスとかを見たけれど、やっぱりずっと山道だった。霧のせいで先の見えない道は不安を掻き立てた。
「ねぇ、後どのくらいで着くの?」
「もうすぐだよ」
彼女はそう言って白いもやの中をスタスタと歩いていく。はぐれてしまったらたまったものではないので、着いていくしか無い。
「何分ぐらい?」
「すぐすぐ、代わり映えしない道程だから長く感じるだけよ」
佳那子は呆れたようにこちらへ振り返って苦笑している。彼女からしたら慣れた道だろうから、こんなにおどおどしている自分がおかしくて仕方ないだろう。
彼女は僕の隣に並んで、スッと僕の手を握った。いきなりのことだったのでドキッと心臟が跳ねた。恥ずかしかった。しかし、何気なく手を取る彼女に対してそのことで恥ずかしがるのもまた恥ずかしく、なんてこと無いように振る舞った。やはり田舎というのは子供同士の仲が良いのだなと思った。
「ここを曲がるの」
僕を握っていない方の手で、霧の中から現れた脇道を指差す。そんなことを教えられても、手を握られているのだから自然と同じところへ行くのにと無駄な事を思った。
細い指の感触に心臟を鳴らしながらもなんとか脇道に逸れると、少し歩いただけでいきなり中規模の住宅街が目の前に現れた。中央の大きな道の両側に何軒も家が続いており、その奥にもモダンな屋根や、どこかの庭で育っているらしき大きな木が顔を覗かせていた。
僕は面食らった。こんな立派な住宅地がなかなか不便な場所にあるものだ。森のなかに突如ぽんと現れたようなもので、近くに店やらも無いだろうに。いや、もしかしたら脇道に逸れる前の道路の先が意外と栄えた場所に繋がっているのかもしれないな。霧のせいで先が見えず、近くだけを見て判断しすぎたのかもしれない。
「私の家はあれよ」
彼女は通りの左側の三番目、比較的新しい住宅を指差した。なんだか長く感じた道程で心身ともに疲れていた僕は安心できた。
広い家だった。レンガの囲いの中は子供が駆け回れるぐらいの広さの庭が有り、花壇にはパンジーやガーベラが育てられていた。
「今日はパパとママいないの。何をして遊ぶ?」
曇天と霧のせいか、どこか活気の無い住宅地だった。人は見当たらなかった。大人が働きに出ているということは、今日は平日だったか。
「なんでも良いよ」
「じゃあね……うん、だるまさんがころんだしよう。佑樹もちょっと疲れてるみたいだし、あんまり動かないのね」
「そんな、気にしなくていいのに」
ありがたかった。佳那子は優しい子だなと思った。
「こっちこっち」
庭は家屋の裏側まで広がっていた。なんて立派な庭なんだろうと思った。家の影になる所には、二階建ての屋根と同じくらいまで伸びきった大きな木が一本立っていた。
「この木はね、あたしがだるまさんがころんだをする為に植えたのよ」
「嘘だぁ、そんなことないでしょ」
「本当だよ、だるまさんがころんだ以外ではこの木を使わないの」
佳那子が変なことを言い出した。僕は話題を切った。
「どっちが先に鬼する?」
「じゃんけんしよう! 最初はグー! じゃんけん!」
僕は負けた。僕が鬼だ。由緒ある木に顔を埋めて佳那子を待った。
「もういい?」
「うん」
「だるまさんがころんだ」
佳那子はまだまだ遠い所に居た。
「だるまさんがころんだ」
少しだけ近づいたが、まだまだ遠い。思ったよりも慎重派なようだ。こちらを見ながらくすくす笑っている。よし、今度は出来る限り素早く言おう。
「だるまさんがころんだ!」
眼前に顔があった。怖かった。驚いた。息のかかりそうな距離で、その大きく黒い瞳が僕の事を見つめていた。こいつはあの距離を今の間で移動したというのか、それは化物地味た速さでは無いか。思ったよりも遥かに、彼女は運動神経が良いみたいだ。ここまで近づかれてしまったらもう捕まるのは確実だった。
「もうダメだ、降参だよ」
「ダメだよ、ルールだから」
意外とルールに厳しいようだ。しょうがない。もう一度木に伏せた。
「だるまさんがころ……」
半ば諦めながらそこまで言った瞬間、僕は佳那子に抱きしめられていた。
「捕まえた。はい交代」
そう言った時にはもう、佳那子はパッと僕から離れていた。一瞬の事だった。頭の中では、気にするな、考えすぎるべきでは無いという言葉を繰り返すが、心臟が速い。
次は佳那子が鬼の番だった。
「もう良い?」
「うん、良いよ」
広い庭の端っこから僕はスタートした。
「だるまさんがころんだ」
僕はそこそこ進んだ。あの時間の中ではなかなかの戦果だ。佳那子の声はゆっくりで、僕を見ながら目を細くして笑っていた。
「だるまさんがころんだ」
またしてもゆっくりだ。もう三分の二は詰めただろう。きっとここから捻ってくるに違いない。
「だーるーまーさー」
今までに増してゆっくりだ! もうこれなら佳那子に触れる! いや待てこれは罠に違いない。んがころんだ、を素早く言う事で調子に乗った僕を仕留めるつもりだ。僕は警戒していつこちらを向かせても良いよう無理な態勢を取らないようにスピードを落とした。
「んーーーがーーー」
予想に反して後半もゆっくりだった。いやさっきよりも遅いかもしれない。佳那子の背中はもう手が届く距離に有った。これは仕留めた!
木に顔を伏せた佳那子の背中。白いワンピースからはみ出た負けじと白い肩口。長い黒髪。先程の彼女の抱擁が脳裏に過った。
もしかしたら僕も、さっき佳那子のした様に彼女を抱きしめて良いのだろうか。いやむしろするべきなのだろうか。それがこの村での普通であり、許されるのであろうか。いやしかし、その背中を、その細い身体を、ぎゅっと抱きしめたのなら、一体どんな心地がするのだろうか。
僕は彼女の肩にぽんと手を置いた。
「捕まえた」
「うん、交代ね」
彼女は笑っていた。心の底から楽しそうだった。
「やっぱり外は暑いねぇー」
しばらく遊んだ後、僕らは家の中に入っていた。しっかり靴がしまわれた玄関を通り、廊下にはホコリ一つなくて、部屋に置かれた調度類はずっしりとした木製で艶やかな角取りがされていた。佳那子がエアコンのスイッチを入れると、室内気温は立ち所に少し寒いぐらいまで下がった。
「りんごがあるからさ、切ってくる、そこで待ってて」
案内された部屋はリビングのようだった。眼の前のキャビネットには、ティーセットやガラスのコップなど、綺麗に整頓され収められていた。改めて佳那子はお嬢様に違いないと思った。そう考え出すと途端に自分が場違いな所に居るような気になって緊張してきた。
「おまたせ」
現れたのはりんごだった。透明な丸い皿の上に、りんごが載せられてやってきた。加えて佳那子は銀色のティーポットのようなものを携えていて、りんごの上から何かを注ごうとした。僕はそんな容器に入っているのはお茶の類かミルクにしか出会った事が無かったので驚いたが、出てきたのは少し黃色がかった透明の、粘り気のある液体だった。
「蜂蜜よ」
りんごに蜂蜜。なるほど食べたことは無いが、想像しただけで美味しそうな組み合わせだった。佳那子はすっと背伸びをして、高いところからとろとろとろと蜂蜜が駆けられた。放射状に置かれたりんごに、一周、二週、ああ贅沢にも三週、透明な筋がつけられる。
「召し上がれ」僕はゴクリと喉を鳴らした。
「あの、フォークだか、箸でも大丈夫だけど何かつかむ物を」
「やっぱり、都会の人は上品だね」
そう言ったかと思うと彼女は蜂蜜でべとべとになったりんごを、手でつかみそのまま口に放り込んだ。
「さっき手は洗ったでしょう? ほら、ウェットティッシュはあるから」
そう言って彼女はコーティングされた自分の指を、先が細い真っ赤な舌でぺろぺろ舐め始めていた。時にはその白く長い指を唇の間に挟んで、粘着質な音と共に出したり入れたりした。
「ほら、食べないの?甘くて美味しいわよ?」
目を細くして、美味ここにありといった表情でシャリシャリ咀嚼している。一欠片食べ終わると舌を口の周りでぺろりと一周させた。余りに美味しそうに食べるから僕も生唾を飲み込みながら手を伸ばした。
「……甘すぎるよ」
良く見ればりんごそのものでさえ、蜜がたっぷり詰まった上物に見える。それに蜂蜜をぶちまけたらそれは水気の有る砂糖のようであった。しかしだからといって佳那子のように僕が手指を舐めるのはよろしくないだろう。あれは絵に成る佳那子にこそ許された芸術的行為だ。僕はウェットティッシュで手を拭き拭き、りんごをいただいた。
「あら、もう最後の一個に成ってしまったわね」
「僕はもう良いよ、美味しかった」
「そんな、私のことなんて気にしないで」
そう言うと彼女は一つ残りに手を伸ばした。なんだ食べるのか。
「あーん」
彼女は僕に口を開けるよう意図した言葉を放った。もう至れり尽くせりだった。
「良いよ、自分で食べるよ」
「あーん」
本当に、心の底から恥ずかしかったけれども僕は口を開けた。彼女が無遠慮にりんごを突っ込んで来たので僕は反射的に口を閉じてしまった。彼女の指を意地汚くも食ってしまった。なんとか噛む形には成らなかったのが救いだ。
僕は心臟が跳ねた。まずい、と思った。
だが彼女はそんなこと気にもしないように僕の口から指を抜き、またしてもそれを舌でぺろぺろ舐めた。もう僕は頭が沸騰して口の中の甘さなんて欠片も感じなかった。
「あら、もうこんな時間ね。暗くなる前に帰った方が良いわ。送っていく?」
「あ、うん、や、いいよ、大丈夫」
「そう」
僕はまだ心臟がどきどきしていたから、なんとか悟られる前に彼女から隠れねばと思った。正直言って一人で帰れるか、いや、あの長い道を一人で歩くのが怖かったが、佳那子には今日も良くしてもらったので今更訂正するのも恥ずかしかった。
「明日も遊ぼ、あの公園に、同じくらいの時間に来て。約束ね」
「うん、今度は遅れないよ。今日もおかげで面白かった」
「りんご、まだあるからね」
白く細い指の蜂蜜を舐める佳那子の姿が思い返されて顔に熱が移る兆候を感じ取ったので急いで玄関に手をかけた。
「じゃ、じゃあまた明日」
「うん、明日も、絶対ね」
僕は静かな住宅地を後にして帰路についた。まだ深い霧が残るあの道を、一人震えながら帰った。
帰った後はまたしてもどっと疲れていた。目をとろとろさせながら夕飯を口に入れ、その後は何をしたか覚えていないがかなり早く眠りについた。
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