三日目
その日はよく眠れた。早くから出たかったから好都合だった。母には今日も川で遊んでいるよと嘘をついた。自分の冒険を誰も知らないのだという事実が嬉しかった。
まず川の上流を目指した。流れに沿った砂利道を歩いていくと、川幅は段々と細くなり、しかし勢いは増えていく。うねるような水流だ。奥に進むにつれて道も人の痕跡が減り路肩の草も主張が激しくなってきた。ちくちくと半ズボンの足に葉が当たりむず痒い。しかし流石にここまで結衣ちゃんとは来たことが無かっただろう。見慣れぬ景色に胸を弾ませながら進んだ。
しかし、足元が道だかただ草が倒れているだけだかよく分からなくなってきた頃に、川が滝のようになっていた。更に上流を目指すには迂回をせねばならず、遂に道らしき道が無くなってしまった。ついさっきまで意地でも源流まで到達してやろうと思っていたが、草をかき分ける面倒臭さを前に思ったより簡単に気持ちが折れた。僕は引き返す事を決めた。
なに、川の上流だけが僕の冒険の目的地ではない。そもそも僕が見たことの無い場所へ行く事が目当てであり、前人未到の地へ赴く必要は無いのだ。今度は川の下流を目指す事にした。
下りながら変わらない景色がしばらく続いたが、脈絡なくそれらしい分かれ道が現れた。そうそう、こういうのを待っていたんだよ。僕は喜々としてそこに逸れた。
その道は意外にも舗装が行き届いておりしっかりしていた。国立公園のジョギングコースのようでもあった。もしかすると近くの国道につながっているのかもしれない。そうなった場合は引き返そう。
足を動かし続けて、川の音が遠くもう聞こえなくなった頃、小さな児童公園のような場所に出た。ブランコ、シーソー、鉄棒、砂場などの遊具が置かれていたが、しばらく使われていないかのように草が茂っており遊具もところどころペンキが剥がれていた。露出した鉄の焦げ茶色が古めかしい。
こんな場所が有ったのか。家からなかなか歩いたから、もしかしたら結衣ちゃんも知らない場所かもしれない。恐らくここ以外の便利な場所にも公園が出来て廃れてしまったのだろう。確かに村の中心からは面倒な距離がある。幼い子供だけで足を運ぶには遠すぎる公園だった。
このような人気のないスポットを自力で発見出来た事に、僕は感動していた。今となっては誰も使っていないであろう物寂しい様子は、今ここは自分だけが知っている、自分だけの場所だと宣言したくなった。
まず手始めにブランコに座ってみた。意外としっかりしていて壊れそうではない。まだまだ使えそうだ。地面を蹴り、また蹴り、身体が弧を描き出す。往復運動が与える浮遊感、目まぐるしく揺られる視界。この時になってブランコはこんなにも楽しいものかかと思った。
しばらく揺られていた。もし時間が有れば結衣ちゃんとここに来ようと考えていた。ここは僕が自分だけで見つけた、僕の場所なんだぞと、彼女に知らせたかった。そうしたらきっと、意外な僕の行動力に目を見張るのでは無いか。その時を期に、彼女と僕の関係は少しずつ変わって行くのでは無いか。
ふと、視界の端に少女が見えた。
僕は急な事に仰天した。身体は瞬時に収縮し、手は鉄の鎖を強く掴んだ。危うく落ちそうだった。
少女が居た。白いワンピースの、長い黒髪の少女がこちらをじっと見ていた。
怖かった。心臓がドクンと大きく震えた。頭の中で激しく警鐘が鳴っている。少女の大きな目。パニックになっていた。
ブランコのの周期を無視して無理矢理飛び降りた。投げ出された身体をなんとか持ち直し、入り口に向かって這うように駆け出した。
「待って!」
その大きく高い声に僕は再び硬直した。手と足が絡まって転びそうになった。軋む首を、恐る恐る少女の方に向けた。そこには怯えた顔の少女が居た。
そう、ただ少女が居ただけだった。それだけだった。
何も恐れる要素は無かった。そう気づいた途端、自分のさっきまでの行動と、荒い息と、速い心臟が恥ずかしくなった。ただ見ていただけなのにこんな奇行を取られた少女を怯えさせたのも申し訳ない。今、自分の顔は赤くなっていないだろうか。呼吸を整えて少女に向き直った。
「あ、あの、ごめんなさい、急に変なことして」
そう釈明すると少女はなんとかぎこちなく笑顔を作ってくれた。
「こちらこそ、驚かせちゃってごめんなさい。キミ、どこの子?」
近くで見るとどうやら同い年ぐらいの子だと分かった。黒々とした目が大きくて、こうじっと見られると落ち着いていてもちょっと怖かった。自分が結衣ちゃんの従姉妹で夏の間だけ遊びに来ていて、普段は違うところに住んでいる事を話した。
「なるほど結衣ちゃんの所に来てるのね。あの子も川遊びが好きだったから、いつの間にかここに着いたのね。あんまり人の来ない公園だから、私も驚いちゃった」
「僕も驚いちゃって、ごめん」
そう言うとその子はアハハハと笑った。その笑い方が少し結衣ちゃんと重なった。
「結衣ちゃんは来てないの? 一人?」
「うん、勉強が忙しいんだって」
「そう……じゃあ今日の遊び相手は私だね」
なかなかに乗り気な子だった。新しい子供が物珍しいか、僕が結衣ちゃんの従兄弟であると知ったから気を許してくれているのかもしれない。
「この公園で遊びたい? それとも他の……といっても川原ぐらいしか近い所は無いね。どっちにする?」
「ここはまた結衣ちゃんと来るつもりだし、川原で良いかな」
「そう……行こうか」
そう言うと彼女は翻ってスタスタと出入り口に向かった。気の早い子だな、と思った。
「ねぇ、名前は!?」
「私は佳那子」
そう言うと彼女はこちらを向き、手を差し出した。握手を促しているようだ。
「よろしく」
夏なのにひんやりして、小さい手だった。
川原に着くと彼女はぽいぽいとサンダルを放り出して水に入り、石を探して水切りをし始めた。白くて細い腕で、女の子らしくしなやかに投げる。石は綺麗な回転で鋭く飛んでいった。
一、二、三、四、五、……すごい。数え切れなかったが、二十回ぐらいは跳ねたのではないか。すごく跳ねた。結衣ちゃんでもあんなに出来なかったと思う。
「どう?」
彼女はそう言って白い歯を輝かせた。自信に満ち溢れたしたり顔は、もしかしたらこの村の友達の中でも腕に覚えが有るのか。
「すごいね、今までで見た人の中で、一番すごかったよ」
負けじと、といっても勝てる気は毛頭無かったが、僕も彼女に習って石を投げた。だが力みすぎて、一度も跳ねずに沈んでしまった。流石に恥ずかしかった。
「今までで見た人の中で一番すごいわ」
佳那子がケラケラ笑う。笑われても仕方が無かった。
「流石にもうちょっと出来るよ」
僕はムキになってもう一度投げた。いつもよりは勢いの有る石が、今度は六、七回跳ねてくれた。彼女は感嘆の声と共に拍手してくれた。
「今度はそっちの番。お手本にしたいからもう一回投げてよ」
「いいよ」
彼女は屈んで石を探す。よく見ればワンピースの裾が濡れるのも気にしていないようだ。すぐに乾くのだろうか。そうなんだろうな。石の一つ一つを顔に近づけて吟味する彼女をじっと待つ。
「見ててよね」
満足の石を見つけた彼女は、僕に教えるようにゆっくり、優雅に振りかぶる。腰を低く下げた状態から放たれる弾道はノートに引いた一本の線のように鋭く、またしても二十回余り跳ねた。本当に見事だ。
僕も真似して投げる。だが、上手くいかない。もう一度、ああ、さっきと同じぐらいだ。
「もっと腰を落として、水平に投げるんだよ」
「こう?」
佳那子に言われたとおり、腰を落としたり、腕を曲げたり、手首を捻ったりする。何故か彼女も真面目になって教えてくれてくれるので、僕も真剣だ。
「ああっ、もどかしい!」
見かねた佳那子がばしゃばしゃと音を立ててこちらへきた。何をされるのかと思えば投げ方の指導をしてくれるらしい。
「こう?」
「肩の力抜いて」
僕の投石フォームをチェックし、時には筋肉の付き方をムニムニと触って確かめ、ああでもないこうでもないと言ってくれた。
「それで……こう!」
僕の腕を掴んで、ガイドしてくれる。彼女の冷たい指が腕に触れる。彼女の首元の甘い匂いが鼻をくすぐる。こう……こう……と何度も腕を往復し、感覚を染み込ませる。
「やってみる」
こう……こう……と教えられた動作を何度も反復する。そして意を決して腕を素早く振り抜くと、石はシャープな軌道を描いて飛んでゆき十二、三回水面を跳ねた。
「やった!」
佳那子も笑って、一緒に喜んでくれた。僕はもう一度投げてみる。また十数回跳ねた。もう一回、もう一回と何度も投げた。
僕は水切りが格段に上手くなった。嬉しかった。彼女も満足そうに僕の投げる姿を見て、しばらくしたらまた自分で投げ始めた。やっぱり佳那子の方が上手かった。少し悔しかったけれど、でもそれで良かった。彼女は僕の師匠だから。
その後はしばらくお互い無言で水切りをしていた。昨日はすぐやめてしまったが、不思議と飽きないものだった。何回も、何回も投げた。最後までやってもやっぱり佳那子の方が上手かった。
そろそろ投げる為の良い石が見当たらなくなったなと思ったところで、不意に背中に水をかけられた。振り向くと、佳那子がにやにや笑っていた。
「服、濡れちゃうよ」
「意外とすぐ乾くもんだよ」
両手で碗を作り水をすくって、僕のお腹に向かってかける。ああ、そういう事をしていいんだな、という合意を得た気分だった。もうお互いに臨戦態勢だった。
「えいっえいっ」
僕も負けじと水をかける。水浸しになった佳那子のワンピースが肌に張り付く。思ったよりも多くの水量が飛んでいった事で、自分と佳那子の手の大きさの差を感じた。肌に張り付く水滴の冷たさ。この夏で初めてこの猛暑の良さを感じた気がする。佳那子にかけられた水がこの上なく心地よい。
「一人じゃ水の掛け合いっこなんて出来ないでしょ?」
「思いもしなかった!」
「でしょ!」
大量の水が佳那子に降りかかる。彼女はその小さい手で、器用に僕の顔や頭を狙ってくる。もうお互いに濡れていない箇所は無かった。彼女のその長い黒髪は、身を翻す度に飛沫を上げて美しかった。
「ねぇ! 明日も!」
佳那子がせわしなく手を掻きながら言う。
「明日も一緒に遊ぼ! あの公園で待ち合わせね!」
「うん!」
楽しかった。僕たちはそうしてしばらく、水を掛け合っていた。
どちらが先だったか。どちらかが先に疲れて近くの大きな岩場に寝そべって、結局二人で太陽の下に寝転んだ。ねずみ色の岩に、二人分の服の水分が跡をつけた。
「いつまでこっちにいるの?」
大の字になった佳那子がこちらに向き直る。その瞳は相変わらず、吸い込まれそうな黒でとても大きい。
「あと五日ぐらいかな」
「五日かぁ……」
彼女はそう呟いてなんだか真剣そうな顔をした。その五日という期間を、どう感じてくれたのだろうか。何かを思案しているような横顔は物足りなさ感じてくれているような気がして嬉しかった。
「明日はさ、私の家で遊ぼ」
唐突な誘いだった。
「上がっていいの?」
「うん、今りんごもいっぱいあるからさ、食べてきなよ」
「うん、絶対。絶対行くよ」
高い太陽が僕らを照らしていた。今日は日に焼けただろうなぁ。降り注ぐ紫外線が少し痛い。服がだんだん乾き始めているのを感じる。出来るだけゆっくり乾いてほしいと、そう思った。
佳那子と川原で別れてからすぐ家に帰った。一人になった途端どっと疲れが襲ってきた。思えば一日遊び倒したのも久しぶりだった。
「佑樹、明日はどうするの?」
「うーん、今日と同じかな」
「そう」
夕食を食べながらそう聞いてきた母はこっちに来てから少し日に焼けていた。
「こっちに来るとご飯代が浮くから良いわね」
「よせよ、オヤジたちが居ないからって、意地汚いぞ、ハハハ」
「お米もこっそり、袋に淹れて少しだけ持って帰っちゃおうかしら、アハハ」
明日は家に遊びに来いと、佳那子は言っていた。どんな家だろうか。彼女はキレイな、真っ白なワンピースを着ていたから、もしかしたら大きな家に住んでいるのかもしれない。あんまり遠くなければ、何度も遊びに行けるかもな。
「おいお前、ビールもう一杯」
「あら、あなたちょと飲み過ぎじゃあ無い? これで4杯目よ?」
「折角の夏休みなんだ、明日仕事が有るわけじゃないし、良いじゃないか」
佳那子は明日何して遊ぶつもりなんだろうか。折角家に遊びに行くんだから、室内でトランプでもするんだろうか。もしかしたら面白いビデオでも見せてくれるのかもしれないな。佳那子の部屋、どんなふうなんだろう。彼女の部屋のドアを開けたなら、どんな色が目に入るんだろう。入った途端、ふわっと、どんな匂いがするんだろうか。今日の彼女の、匂い、指の細さ、声、黒くて大きくて深いあの瞳を思い出していた。
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