終節 生まれ落ちる間違い
遠くで鎖が鳴る音を、コージャンは夢うつつに聞いていた。
(……あちぃ)
暑い、否、熱い。息苦しいを通り越して、吐き気がするような熱気が自分をすっぽりと包んでいるらしい。
何があった? 記憶を辿れば、喫茶店で塾の先生に会ったこと、話していると
(
そこまでぼんやりと考えて、コージャンは自分の状態に疑問を持った。
「……ッ……」
意識が一段覚醒した途端、足先を灼熱の痛みが抉る。それが強烈過ぎて分かりづらいが、骨身も悲鳴を上げていた。まさか
ついに地獄にでも堕ちたか、と下を見やれば、光り輝く溶鉱炉の口がある。溶かされた金属の真上に、コージャンは鎖で吊るされていた。
両手につけられた手枷の他は、一糸まとわぬ全裸。滝のように流れる汗で滑って落ちはしないだろうが、足先は焼け爛れて血を流していた。
「やあ、お目覚めだねえ!」
溶鉱炉の正面に、黒い着物と白い髪の女がいた。
コージャンはイン・キュアの姿を探して辺りを見回した。広々とした空間に、よく分からない金属機械や
工場とおぼしき空間の隅っこ、薄着のキュアは椅子と卓を用意して
忌々しく思いながら、コージャンは瑣慈に視線を戻す。
「おうクソ女、燻製なら下拵えはしっかりやっとけ」
「やだなあ、人間を食べる趣味はないよ」
軽口を叩く間、コージャンの口も毛穴も熱を吸ったり吐いたりして、絶え間なくひりひりと焼きついていた。この熱気から逃げ場はない。
上半身に彫り込まれた赤龍も、これには辟易しているだろう。それに、吊るされっぱなしの状態も堪える。
人を縛って吊るす〝吊り責め〟は見た目の印象に対し、過酷な拷問だ。拘束された箇所は器具が食い込み、長時間放置されれば壊死していく。
自重はそのまま全身に負荷としてのしかかり、間断ない苦痛と不自由さ、屈辱感は心をへし折らんとする。ましてや、平均以上に大柄のコージャンにとっては。
「で、俺の服はどうしたんだよ。あの外套は買ったばっかなんだが」
文句は山ほどあったが、この息苦しさの中では言い尽くすのも厳しい。その無様さも、二度も同じ相手に操られる
「すまないね、私が興味あるのは君の体だけなんだ。どこへやったか忘れたよ」
「あんたじゃ勃たねえ。本題を言いやがれ」
話しながら、コージャンは
しかし、今もコージャンの体は術の支配下にあるらしく、身動き出来なかった。今まさに炙り焼かれるつま先すら、持ち上げることが出来ない。
「
その話はコージャンも聞き覚えがあった。
「つまり、俺を
「そうさ! もっとも、先の話みたいに乱暴なやり方ではなく、【魂】を直に注ぎ、精錬する方法だが……君には大して関係のないことだね、釜茹でになるのは変わらない。真下に取鍋があるだろう? そこに入っている溶鉱も特別製なんだ。完成のあかつきには〝
利剣とは切れ味鋭い刀剣のことを言う。瑣慈はひどく上機嫌そうだった。
「君はさ、そも人に生まれたのが間違いだと思わないかい?」
満面の笑顔でコージャンを見上げる女の顔は、瞳の虚ろが有無を言わせぬ黒い意志を感じさせる。かつてあった人間性の、無惨な残骸を伺わせる焦げ付きの色。
「生きてる内から、何が間違いだったとか分かるかよ」
「それなら問題ない、これからすぐハッキリする」
活き活きと話す瑣慈は少女のように無邪気に見えた。狂気に身を委ねた人間特有の、自らを免罪する無感覚の精神性――それが邪仙だ。
「日常は鞘に収まり、ひとたび抜き放たれれば斬れと定められたものを斬る。それ以外何もいらない、一振りの剣。最初からそう生まれていれば、きっと幸せだったと思わないかい、コージャンくん。私は美しいことだと思うけどね」
「美しいと思う? あんたが?」
邪仙と化した者は、自らの頭の中に閉じ込められ、なまじ不老不死ゆえその地獄に終わりがない。そう説明したのは狗琅
心が動かない、動く心がない。大事にしていたはずの何かが壊れても、何一つ感情を抱くことすら出来ない、永劫続く真空状態に自我は窒息した。
「美しいと思うから、こんな悪趣味なことやってんのか、あんたは。本当に?」
「んん、もうちょっと命乞いっぽくお願いしたいけれど、ゆっくり聞いている時間も惜しくてね。さあ、人間の殻など捨ててしまおう! 君はもう自由なんだ!」
かきん、と小さな音がして、コージャンの手枷が外れた。己の全体重を支え、宙に吊っていた拘束具を失い、彼は為すすべなく落下していく。
瑣慈の毒香がなければ、空中で身を捻って横へ逃れられたかもしれない。
もう少しなぶられると思ったが、意外にせっかちなことだ――そう考える内に、融解した鉄の高温は、湯面に達する前からコージャンを火だるまにした。
断末魔を上げることは出来なかった。喉も肺もたちまち焼けて血肉が
狗琅真人とウーの顔が、父や甥姪や、神魁流の師や兄弟弟子の顔が、流れ星のように脳裏を過ぎ去っては、燃えカスのように消えていった。
低酸素状態に置かれた脳は何度と無く意識が途切れたが、そのたびに火傷の激痛が呼び戻し、二つの間を行き来する数秒は永劫にも感じられる……。
溶鋼よりずっと比重の軽い人体は沈まず、しばし湯面に貼り付いて漂った。最後には、炭素や窒素や燐や
コージャンを落とした炉の前で一部始終を眺めていた瑣慈は、三日月のように口角を釣り上げ、にちゃりと粘性の笑顔を浮かべた。
「宴の始まりだ」――と。
◆
「角の仙人さん!? なんでここに」
びっくりするウーの横で、
今日はなんて日だろう――疫病神のコージャン師弟に出会った時、色男に惑わされたりせず、とっとと逃げていれば良かったのだ。
そうすれば今頃は、【
「で……今度は、何? あんたたち知り合いなの?」
眼の前に現れた仙人とやらに問いただすと、大きな鹿角を生やした頭が少しだけこちらを向いた。何のまじないか、文字をびっしりと書きつけた白帯を幾本も角から垂らし、閉じた瞼から頬にかけても禍々しい符呪を書き付けている。
「拙道は
低い声はやや中性的で、それだけだと男とも女とも判じ難い気がした。ただ、黒く長い髪は玻璃のような冷たい艶を持ち、そこだけは彼女の好みである。
「ははあ、幽霊仙人ってやつね」
白魂蝶の雑な理解を、嘆蝉道人も
嘆蝉道人から己の首を受け取った狗琅真人は、平静を取り繕っているようだった。情けない所を見られたであろう不機嫌さを、鋭い眼光に変えて
「嘆蝉殿、さては見張っていたかネ?」
「ええ、失礼ながら」
嘆蝉道人が言うのと同時、ウーは腹の中で何かが動くのを感じた。気のせいではない。へその裏をぐりぐりと、固い物がつついている。
「痛――――ッ!?」
ウーの胴から小さな物が飛び出し、嘆蝉道人が差し出した掌の上に収まる。それはぴかぴかの、蝉の形をした翡翠細工だった。楚々とした仕草で袖へ仕舞う。
腹を叩かれたような鈍痛で涙目になりながら、ウーは鬼仙に食ってかかった。
「今のなんですか! へそから出ましたよそいつ!」
「腹に入れておきましたからね。ああ、物理的に、とは少々違いますが」
「えぇ……何それ」
白魂蝶はそっと嘆蝉道人から距離を取った。人の体に勝手に変なものを入れて、いけしゃあしゃあと開き直る。確実にお近づきになりたくない相手だ。
「クソじゃない仙人っていないのかなあ」
歯ぎしりせんばかりに口をひん曲げるウーに対し、嘆蝉道人は淡々としていた。
「我々は我々なりの必要性に則って行動しているのみです。
「
狗琅真人が口を挟んだ。
「無論、離天荒夢の件です」
「へえ、私とリーくんが討ち取るまで、何百年も放置していた邪仙のことについて、今更気になることでもあったかネ!」
「我々の仕事は
そこでウーは「あれっ」と首を傾げた。
「冥府って、悪い仙人捕まえるのも仕事じゃなかったんですか?」
「本来、邪仙は堕ちた者の同門か、天界が討つべきものなのです。ただ、罪を犯した仙人を捕らえるのも、我々の仕事の範囲内ですからね。その延長で行っている一種の奉仕であって、当然と思われては困ります」
鉄面皮って、きっとこういうやつのためにある言葉なんだわ――ウーの「はあ」という声を聞きながら、白魂蝶は更に嘆蝉道人の印象を下方修正した。
「じゃ、今回しゃしゃり出てきたのはなんなの?」
「
「嘆蝉さん、一緒に戦ってくれるんですか!?」
嘆蝉道人は、狗琅真人よりずっと強いと聞いている。戦力としては心強い限りで、ウーは思わず勢い込んだ。しかし、当の鬼仙の返事はつれない。
「いいえ。符を渡しておきますから、頃合いを見てお使いなさい。一手だけ、事前に約束した手助けを行います」
「それだけぇ?」
ウーは唇を尖らせた。
「この五十年、私は一日も休まず働いてきました。こうしてあなた達の元へ赴くことで、更に向こう数十年の休暇が消えるのです。これ以上の手助けを望みますか?」
「……すいませんでした」
素直に謝るウーに対し、白魂蝶は感心してみせる。
「むしろ、よくそこまでして手を出そうと思ったわね」
「仕事ですので」
「あんた転職したら?」
「来世があれば考えましょう」
「こういう仕事中毒でもなきゃ、鬼仙なんてやらないさ」
意外と鬼仙に物怖じしないなと思いながら、狗琅真人は話のまとめに入った。
離天荒夢の一番弟子・瑣慈
「
作戦について相談の終わりに、嘆蝉道人は不意にそう告げた。離天荒夢の忘れ形見を打倒することではない、狗琅真人の「本当の望み」についてだ。
「わざわざそれを言うかネ」
若仙は眉間に薄くシワを寄せて見せた。おそらく聞いていただろうとは思うが、あえて流したと思った所に後出しで言及するとは。
「〝完全なる死者蘇生〟など、可能ならば冥府も天界も放置しておりません。貴道の研究が見過ごされているのは、それが不可能だからなのです」
「知っているよ。最初から知っている」
「せいぜい
そう言い置いて、嘆蝉道人はきびすを返した。
背の高い後ろ姿が闇へ溶け消え、少し辺りが暗くなった感じがする。ウーは後で知ったが、霊識ある者には、神仙がいる空間は少し明るく見えるのだ。
狗琅真人は桟橋の上で一歩踏み出すと、先を促すように振り返った。正確には、手に持った首だけを残り二人に向けて、笑いかける格好で。
「それでは、反撃を始めようか」
【仙人馘首 終】
【赫煉理之剣へ続く】
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