ふたりが倉庫に入ってから、どのくらいの時間が経っただろう? 倉庫には時計がないから、彼女たちには知る術がなかった。永遠にこの夜が続けばいい、とりつかは思った。朝までここに隠れていたら、夜明けは気づかずに通り過ぎてゆくのではないか。置きざりにされたわたしたちは、飽きるまでタロットを繰って遊び、やがてカードはすり切れてしまうのだ。

 あらぬ期待を打ち砕くように、終わりを告げる使者はきた。校門をくぐり、停車場に次々と乗り入れる車列の音。ぎんせは耳に手をあてて、小さな声でりつかにいった。

「ねえ、聴こえる? もう雲車バスがきたみたい! 朝にはみんな、あれに乗って降下口まで行くんだよ」

 りつかは目を伏せてうなずいた。

「そうだね」

 それきり会話は途絶えてしまった。停車場で低くうなる雲車バスのエンジン音だけが、妙にはっきり夜にリズムを刻んでいた。

 もう明日、いよいよ明日、ついに明日は。今日はだれもがそう言った。卒業式のスピーチで。仲良しの子と肩を組んで。涙を溜めた教師の前で。上気した顔で気勢を示し、誇らしげに目を輝かせて。その奥に隠された不安の色を探してしまうのは、りつかが臆病者だからだろうか?

 両膝のあいだに顔をうずめて、りつかは絞りだすようにいった。

「わたし、雪になんてなりたくない。ずっと今のままでいたい」

「雲から飛び降りるのが怖いの?」

 ぎんせの手が背中に触れる。その通りだが、それだけではないような気もした。りつかがうまく言葉を見つけられないでいると、押し殺したささやきが耳のすぐそばで響いた。

「わたしもね、じつは、ふるのが怖い」

 りつかは顔をあげ、どうして? と問い返そうとしたが、できなかった。ぎんせのすらりとした腕に肩をつかまれ、床に押し倒されていたから。頭の中が真っ白になる。鼻先に感じるあまざけの吐息。ぎんせは制服の前をはだけて、隠されていた秘密をりつかに晒した。

 引きしまったぎんせの体。左の乳房のすぐ下がガラス細工のように透けていて、中で小さな蝋燭が、ゆらめきながら燃えていた。

「わたしの父親、野火なのよ」

 と、ぎんせは言った。

「わたし、ハーフなの。炎と雪の。血にははんぶん赤い火が混じってる」

 ぎんせの双眸がきらりと光り、りつかの瞳をまっすぐに射抜いた。りつかは呼吸ができなかった。ぎんせの声は今にも消え入りそうなほどか細く、けれど、氷柱つららのように鋭く研ぎ澄まされていた。

「母は吹雪の一員として、アラスカのツンドラ地帯に降ったんだって。そこで山火事が燃えていた。目と目があった瞬間、母は恋に落ちていた。まさに燃えるような恋ね。極寒の中、どうどうと爆ぜる猛火の中心めがけて、彼女はまっすぐに飛びこんだ。父に触れて結ばれると同時に、母は蒸発したそうよ。それから、長い年月を経てふたたび雲に還ってきたとき、あの人はわたしを身籠っていたの」

「信じられない」

 やっとのことでそれだけ言うと、りつかは息を吸いこんだ。

「ごめんね、急にこんな話をして。今日までだれにも打ち明けられなかった。ふる前に、だれかに聞いてほしかったの」

 りつかはぎんせの助けを借りて体を起こした。心臓が早鐘のように鳴っていた。乱れた胸元を整えるぎんせの指が、やけに華奢でたよりなく見えた。

「そんな体で、毎日雪になる訓練をしていたの? 五年間、だれにもほんとうのことを知られずに?」

 言いながら、りつかは思いだしていた。宙を舞うぎんせの姿。あたかも神さまに愛されているような、きらめく落下の光景を。体内にちっぽけな種火を抱いたまま、高度三千メートルの雲から飛んだら、いったいどうなってしまうのだろう。どれほどみごとに雪らしくふったとしても、無事でいられる保証がどこにあるというのだろうか。

「どうして? どうしてそこまでして、あなたは雪になりたいの?」

「こんなでも、わたし、雪のむすめだもの」

 ぎんせは力なく微笑んだ。

「お母さんの影響?」

「どうかな。母はあんまり昔話をしたがらない人だったから。さっき話した父との出逢いも、幼いころ、無理にせがんで聞きだしたの。でも、きっと関係なくはないんでしょうね。だれに勧められたわけでもないのに、物心ついたときにはもう、雪になるんだって決めていた。この体がほかの子とは違っていて、雪には向いていないと知ったあとも、わたしの気持ちは変わらなかった。むしろいっそう強くなったかもしれない。だれかに見劣りするのが嫌で、勉強も、訓練も、死にものぐるいで努力した」

「すごい」

 りつかが言うと、ぎんせは小さく首をふった。

「すごくないよ。そうしないと不安だっただけ」

 ぎんせは散らかったタロットの山からカードを一枚拾い上げ、すぐに元の場所へと返した。彼女が選んだカードに何が描かれていたのか、りつかの側からはわからなかった。

「母に雪雲学校スクールを受験したいって伝えたとき、喧嘩になるのを覚悟していたの。あの人は雪を目指すのに反対だったし、お互い頑固だったから。でも、説得の台詞を何通りも用意して入学願書を差しだしたのに、母はあっさり、あきらめた顔でサインした。あなたが選んだ人生だものね。それだけだった。どうしてだろう。その言葉が、今日はずっと、頭から離れないのよ」

 自分のときはどうだったっけ、とりつかは思った。入学願書を取りよせたのは父だった。もちろん強要はしないよ、と前置きしてから父は銀鼠色の封筒を切った。ほかになりたいものがないのなら、試しに挑戦してみるのはどうかな?

 ぎんせは言った。

「今考えると、わたし、ずっと怒っていたのかもしれない。だからこんなに無理をしていたのかも」

「怒っていた? なにに?」

「世の中に。母に。わたし自身に。ごめんなさい、うまく言えないや」

 ぎんせは立ちあがり、両手を組んで伸びをした。背筋がゆるい弧を描く。見えない荷物を背負い直すように、彼女は肩を軽く上下させ、ふうっ、と息をついて笑った。

「聞いてくれてありがとう。結晶占い、おもしろかったね」

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