ふるまえに

柊らし

   *



 立食パーティーを終えてりつかが寮に戻ったとき、ルームメイトはまだ帰っていなかった。会場から抜けだす彼女を見かけたのはもう一時間も前のことだ。

(やっぱりね。そんなことだろうと思った)

 今朝、卒業式の会場に向かう途中で、ルームメイトは豪語していた。

「今日は彼氏のとこに行くつもりないから。もう知らん、あんなやつ。永久凍土に埋まってしまえ! ねえ、りつか。今夜は朝まで思い出話しましょうね」

 どうやら彼氏は生き埋めにならずに済んだようだった。

 開け放したドアによりかかり、五年間寝起きを繰り返した部屋を眺める。私物はあらかた処分し終えていたから、古びたデスクと二段ベッド、シーツの上にたたんで置かれた着替えのほかは何もなかった。

 これからどうしようかな、とぼんやり思考をめぐらせる。今日はいちにち行事続きで大変だった。卒業式、学級懇親会、壮行会、立食パーティー……。一生ぶんのおめでとうを聞かされて、身も心もくたびれた。ベッドにもぐって寝てしまおうかとも思ったが、醒めた頭がそれを拒んだ。夜明けになっても寝つけなくて、朝帰りの音を聞く羽目になったら最悪だ。

 りつかは玄関脇のクローゼットをひらくと、明日の朝着るために残しておいた学校指定のピーコートを手にとった。こんな夜遅くに行くあてなんてなかったけれど、どうせひとりぼっちなら、寮にいるより外の空気を吸うほうがましな気がした。隣の部屋から数人の女子が笑いあう声が響き、廊下の静けさにさざ波をたてた。息をひそめて音の余韻が消えるのを待ってから、心を決めてピーコートに袖を通した。違和感が全身にまとわりつく。

 裏地を確かめると、金の縫い糸でルームメイトの名前が刺繍されていた。取り違えられたのだ、と悟った瞬間、とびきりのやるせなさが押しよせた。

(わたしの上着は今どこで、顔も知らない男の子に抱きしめられているんだろう?)

 備えつけの姿見から、しかめ面の女生徒が哀れむような目でこちらを見ていた。ありふれた白いおかっぱの髪、いつでも自信がなさそうな猫背、子どもっぽさが抜けない丸顔。ドアを荒っぽく閉めて、りつかは部屋をあとにした。

「あら! りつかさん、こんばんは!」

 部屋を出てまもなく、すれ違った二人組の片方が振りかえって高い声をはりあげた。

「覚えてる? ほら、わたしたち、二年のときに同じクラスだったでしょう?」

 覚えてる、と答えると、彼女は顔をくしゃっとさせて、両手でりつかの拳を包んだ。

「今日でお別れなんて寂しいね。何百年か、何千年か、何万年後かわからないけど、またみんなで集まれるといいな。明日はお互いがんばろうね!」

 ひと息にまくしたてると、彼女は相方と腕を組み直し、小さくバイバイして去った。相方の女生徒はうろんな目つきでりつかのコートを見ていたが、何も口にはしなかった。

 さっきのあの子、なんて名前だったっけ? 玄関へと続く階段を降りながら、りつかは記憶を手探りした。でも、結局思い出せなかった。くだらない意地悪をされて泣いた覚えはあったのだけれど。

 踊り場のはめ殺し窓からのぞいた空は、いつもと変わらない黒だ。積乱雲から採取した電気で光る街路灯の輝きが、ぶ厚い雲の天井にてんてんと染みをつけていた。

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